4-4 挿絵

 ゆっくりと瞼を上げる。意識がひどく朦朧としていた。頭の芯は茹だるように熱いのに、寒気がする。

 息が苦しい。足りない空気を求めて上下する胸。全身が鉛のように重かった。

 この感覚は知っている。熱を出したのだ。身体が弱かった幼い頃は、毎日のようにこの息苦しさに襲われていたはずだが。

 いつぶりだろう。こんなふうに体調を崩すのは。

 そうぼんやりと考えたところで、自身が眠るベッドの傍に、人がいることに気がついた。

 目線をわずかに横にずらすと、ぼやけた視界に少年の姿が映った。

 深い夜のような黒髪。眼鏡をかけている。


「……ナナギ?」


 掠れた声でその名を呼ぶ。ほとんど吐息のような掠れた声にも、彼はたしかに反応してくれた。カルマくん、と。普段の彼からは想像もつかないほど弱々しい声音だった。

 ああ、とカルマは思う。そうだ。熱を出して寝込んだとき、ナナギはいつもこうして自分のそばにいてくれた。

 今日は遊べないから帰っていいよ、と伝えても。だれかがそばにいるだけで気分が変わるだろう、と冷静な口調で返してくるのだ。

 

 ──君が迷惑なら帰ろう。……けど

 ──そうじゃないならここにいる。僕がいたいんだ

 

 十二歳の子供とは思えないほど無邪気さに欠けた声だった。顔色も変わらない。

 それでも、カルマにはわかる。彼はいつも優しかった。表情には出さずとも、その口が紡ぐひとつひとつの言葉に、両腕からあふれるほどの心を込めて渡してくれた。


 ──どうか、ここを僕の居場所にすることを許してほしい

 

 ナナギと話しているとき、カルマはいつも大好きな本を読んでいるような気持ちになる。


「……ごめん、ね……」


 重い瞼を一度閉じ、再び開くと同じ場所にナナギはいた。

 黒髪ではない。金髪だった。窓から差し込む外の光を受けた、淡い月明かりのような色。

 過去を映した夢と、現実が重なる。あの頃よりも大人びた、あの頃と変わらないきれいな顔が、少しずつ鮮明になる。

 ごめん、と。呼吸を途切れさせながら、もう一度カルマは言った。


「……自分がいなくなれば、なんて、いやなこと言って……」

「……カルマくん」

「思い出したんだ。前にナナギが言ってくれたこと。生まれてきちゃいけない人間はいるけど、ナナギは、生まれてきたことを後悔してないって」

「……」

「おれに、出会えたからって」


 なぜ同じように考えなかったのだろう。自分が何者かわからなくても。生きているだけで世界に災厄をもたらす可能性を持つ、存在してはいけない人間だったとしても。

 ナナギと出会って友達になれた。

 それだけで幸せだと。生まれてきたことに意味はあると。どうして気づけなかったのだろう。


「だめだね……カンパニュラみたいな、強くてやさしい騎士になりたいって、思ってたのに」

「……」

「いちばん大事な人に心配かけて、困らせるようじゃ、おれ……」

「ちがう」


 絞り出すように震えた声が、カルマの言葉を遮った。


「君はなにも悪くない。悪くないんだ。ぜんぶ、僕が」


 普段と同様、その表情には微塵も動きがなかったはずだ。

 にもかかわらず、カルマには、なぜか彼が泣きそうな顔をしているように見えた。


「ナナギ……」


 気だるさに抵抗しながらどうにか動かした左手を、そっと布団の裾から出す。うつむく少年に伸ばそうとして、力が入らず失敗した。


「昔……約束したの、おぼえてる……?」


 代わりに、薄く笑みを浮かべて問う。黒い外套マントに包まれた肩がぴくりと跳ね、紺色の瞳が瞬いた。


「いつか、ふたりで世界中を見て回ろうって。……おれが元気になったら、できるって」


 『燈方見聞録』に登場する各地の名所を巡ってみたい、とカルマは語った。

 空に大きなカーテンがかかる町。大地の星がきらめく湖。天候を変える不思議な塔。

 マルコが綴る幻想的な旅の情景に、カルマはいつも憧れていた。いつか本物を見てみたいと思った。

 他でもない、大切な友達であるナナギといっしょに。


 ──ガラシア北部のリラで見られる大気の発光現象だね。大地の星はたしかホタル。きれいな水辺に生息するとされる伝説の昆虫だ。天候を変えるのは……旧白十字大聖堂の跡地にある天気輪の塔のことかな

 ──……なんか、表現を変えるだけで急に現実味が出てくるね

 ──ああ。現実に存在するから夢は叶うということだ


 黒縁の眼鏡を静かに押さえて少年は笑った。口角をほんのわずかに上げるだけの小さな笑みだったが、それがカルマは本当に嬉しかったのだ。


「いなくなりたいなんて、もう思わないよ」

「……」

「だって、まだ叶えてないから。ナナギとの夢。だから……」

「ああ」


 少年が頷いた。静かに。けれど、力強く。


「叶うさ。僕がそうする。だから君は──」


 もう少し眠っていてくれ、とナナギは言った。

 力なく投げ出されたカルマの手に、少年の手が触れる。冷たくて気持ちがいい。


「ナ……ナギ……」


 途端に、猛烈な眠気がカルマを襲った。重力に従い沈んでいく瞼。

 金髪の少年がわずかに目を細め、口許をふっと緩める。

 

 ああ、その顔は、久しぶりにみた。

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