4-3 怪物

(……クロエさんのメモ、受け取らないで出てきちゃった)


 自分はいったい何をしているのだろう。

 駄々をこねて、心配してくれた友達を傷つけて。役に立ちたいと宣っておきながら、子供のような癇癪を起こして本拠地アジトを出てくることしかできなかった。

 せめて頼まれたことはやりとげなくては。

 重い気分に苛まれるカルマがたどり着いたのは、ネーヴ通りの裏手にある薬屋だった。


「最近大変そうだもんねえ。包帯と絆創膏、いつもの塗り薬を多めに出しておけば問題はないかい?」


 事情を話すと、薬屋の女主人は快く対応してくれた。

 気のいい女性だった。どことなく、雰囲気がメアリーと似ている気がする。

 これと、あとあれも必要だね、慣れた手つきで商品をまとめていく女性の姿を、店先に立つカルマはただぼんやりと見つめていた。頭をよぎるのは、本拠地アジトを飛び出る前に交わしたナナギとの会話だった。


 ──思考を放棄した自虐から生まれるものは何もないよ

 

 わかっている。いつだって彼は正しい。悪いのは自分だ。謝らなくてはならないと思う。酷いことを言ってしまったから。


「元気ないね。ま、そんなに忙しそうにしてたら無理もないけどさ」

「あ、いえ。おれは……」


 どん、とカルマの前に袋を置いた女主人が気遣わしげに眉毛を下げる。

 大変なのは他のみんなで、と言いかけて口ごもるカルマを見て、彼女はふうとため息を吐いた。


「私はね、あんたらのことを応援してるんだよ」

「え……?」

「血の色がちがうってだけで世界中から爪弾きにされてさ。そりゃあ危ない血なのかもしれないけど。私らのために体張ってがんばってくれてるのに」

「……」


 赤い血を持つ人たちのすべてが敵というわけではない。そんなことは理解しているつもりだった。

 だが、カルマの中に〈灰色の子〉の心臓があることを知ったら彼女は何を思うだろう。灰色人グレースケールの被害が増えた原因がカルマにあると知っていたら、こんなふうに優しい言葉をかけてくれただろうか。


「──私たちの娘は、二十年前にこの家を出て行ったんだ」


 ふっと薄い笑みを浮かべ、女主人は話を続けた。


「教団の白血さまと恋に落ちてね。もちろん私たちは反対したさ。神の使いと懇ろの仲になるなんてとんでもない。不敬にもほどがあるって」


 どこか遠い目をした女主人が、右手の指で店先の台を撫でる。

 何と返していいかわからず、カルマは静かに口を閉ざした。薬屋は夫婦二人で経営しているとナナギは言っていたが、彼らには子供がいたのか。

 それも騎士団の一員に想いを寄せる娘ではなく、教団の神官と恋に落ちて家を出た娘が。


「私たちだけじゃない。教団は当然、世間だってあの子等の関係を認めなかった。部外者たちがこぞって娘を責め立てるんだ。神の血と庶民の血が交わるなんて言語道断だって。だから娘たちはこの街から出て行った。駆け落ちってやつさ」

「そんな……」

「そして、逃げた先で二人は死んだ」

「!」


 女主人の顔から笑みが消え、その眼に昏い影が宿った。

 途端に変わった彼女の雰囲気と、娘の死という衝撃的な内容に、カルマはびくりと身体を揺らす。


「私も旦那も後悔したさ。なんでもっと娘の気持ちに寄り添ってやらなかったんだろうって。周りの人間には、これも神に背いた罰だって散々罵られたけどね」

「……」

「だから私たちはこう考えるようになった。白とか、赤とか。そんなものにこだわるこの世界の方がまちがってるって」


 あんたらに協力するのもそれが理由さ、と。仄暗い瞳にカルマを映し、女は微笑む。


「白も、黒も、赤も。どうだっていい。ぜんぶ混ざってなくなっちまえばいいんだ。そうすればあの子たちだって……愛した人と同じ色になれるだろ?」

「……!」


 ドクン、とカルマの心臓が大きく跳ねた。知っている感覚だった。

 背中を氷が滑るような鋭い寒気と、自分のいる場所がわからなくなる浮遊感。

 だめだ。ここにいてはいけない。本能的にそう悟った。


「ああ、忘れてた。これもいっしょに持っていっちゃくれないかい」


 ふと思い出したように手を叩き、後ろの棚からごそごそと何かを取り出す女主人。

 コトリ、と音を立てて彼女がカルマの前に置いたのは、透明な硝子でできた小型の瓶だった。

 その瓶を満たすものを目にしたカルマは、ひゅ、と喉を鳴らして後ずさった。信じられなかった。どうして。

 なぜ、それがここにあるのだ。


「ある人からもらってね。これがあれば私たちは灰色の存在になれるんだと」

「灰色、の……」

「使い方がわからないかい? なら私が教えてあげるよ」


 女が小瓶を手に包み、ぐっと強く拳を握った。

 パリン、と硝子が派手に砕け散る。弾けた拍子にぴしゃりと飛び跳ね、女の手をどろりと汚した小瓶の中身は。


「……ふふ。これで──」


 血液だった。灰色の。


「──わたしも! 、だよッッッ!」


 空間を揺さぶる咆哮。人間から発せられたとは思えない、あまりに奇怪な叫び声だった。

 がくりと女の身体が傾く。その手についた灰色の液体が、褪せた鼠色の痣となって、次第に本人の全身に拡がっていく。

 肌色だったはずの顔や首が、徐々に乾いた灰の色に侵食されていくさまをカルマは見た。

 ぼこりと膨張する頭と、四方に曲がる歪な手足。恐ろしかった。これまでみたどの悪夢よりもずっと。

 当然だろう。だってこれは悪夢ではない。現実なのだから。


「あ……」


 怪物になっていく。少し前まで人間だったはずの女性が。傷心のまま店を訪ねてきたカルマに、優しく笑いかけてくれた人が。


 ──……いや!


 カルマの中の少女が叫んだ。港のときと同じように。


「う、あっ……」


 ずきん、と頭が激しく疼いた。脳を内から鈍器で殴られているかのような痛みだった。

 いやだ、ちがう、やめて、と。

 灰色の少女の悲痛な声が脳裏に響き、カルマの思考をぐちゃぐちゃにかき乱す。

 息ができない。足が、頭が、心臓が。ぜんぶ痛い。

 視界がぐらりと傾いた。もう立っていられなかった。

 すべてが真っ暗になる直前。甲高い鳴き声を上げて逃げていく黒猫と、口を押さえて店の前に立ちどまる通行人の姿が、かろうじて目に入った。


(……ナ、ナギ……)


 ふっと、そこでカルマの意識は途切れた。

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