第31話 ぶん投げてごま豆乳鍋(1)


 無職の味方。

 ハローワーク。

 基本的に失業しないと用のない場所に、失業した私は足を運んでいた。

 失業保険の説明や就職のための面談などを受けるためである。


 この施設に実際に踏み入れるまでは、職をなくしたおじさんたちと、とにかく働かせたい職員がバトルする怖い場所だと思い込んでいた。

 今はそんな勝手なイメージを持っていたことを申し訳なく思っている。

 ハローワークで働く職員は、一人残らず底抜けに親切で、優しかった。

 どこでもいいからさっさと働いて税金納めろ社会のゴミどもがって感じかと思ってたのに。

 自分の希望を親身になってきいてくれた上で、欲しい情報だけを提供してくれた。

 正直、予想外の優しさに泣きそうだった。

 もう私、ハローワークに就職したい。


 とはいえそんな希望は通らないので、次の就職先をなんとなく探し始めてみた。

 求人情報を眺める。

 でも、なんとなく、会社働きはもうしないような気がした。

 この世にアットホームな職場が仮に実在したとしても、そもそも通勤の電車で消耗するのだから、再び苦しむのは目に見えている。

 家でできることを求めて、私は勉強を少しし始めた。

 勉強する余裕ができたことは、無職になってよかったことのひとつだ。

 まるで学生時代のようにダイニングテーブルに座ってテキストに向き合っていると、居間のテレビの前から、とある心の声がきこえてきた。


(うわ……怖いな……)


 ホラー映画を見ている海斗くんがそこにいた。

 なんでホラーを見ているのかは、わからない。

 なんでうちで見ているのかも、わからない。

 雪の日。

 この地域には珍しく雪の降る日だった。

 個人的に、白色は好きである。

 綺麗で、素直で、安心する。

 そして、雪景色を前に庭駆け回る犬、ではなく、室内でホラー映画を鑑賞する犬が一匹。

 クッションを抱きしめて画面に集中している。

 あざとくてかわいい。


(うぉ……ビックリした……)


 ビックリしているらしい。

 見た目上はいつも通り完全に地蔵であるが。

 最近の海斗くんは、ご飯の数時間前にうちに来ることが増えた。

 私が無職になって時間を持て余しているからだろうか。

 予備校のない日は、参考書を持参してきて私と一緒に勉強したり、今日のようになんの脈絡もない映画や本を持ってきて暇つぶしをするようになった。

 彼は家にいると気が滅入るからと言い、私もそれを当然受け入れた。

 どうせこちらも毎日家にいるし、むしろウェルカムである。


(あ、仲間と離れた。死亡フラグだ)


 楽しんでいる彼を尻目に、私は席を立ってキッチンへ向かう。

 こちらは鍋フラグを立てるのだ。

 雪の降る寒い日は、鍋に決まっているよね。

 しかも、手作りのごま豆乳鍋だ。

 鍋はつゆから自分で作ると、クオリティが数段上がると思っている。

 あまり失敗しないし、自炊コスパがよいのだ。


 各材料をキッチンに並べる。

 冷蔵庫から出した無調整豆乳。そして、白すりごま&ねりごま。これがベースである。

 土鍋には、先に入れておいた昆布が二枚、水のなかに揺らいでいる。

 先に入れておかないと、昆布だしが出にくいからだ。

 料理の九割は、手順を守ることといっても過言ではない。

 試されているのは、味覚よりも愚直な素直さである。


 鍋に入れる野菜を切りながら、居間を振り返る。

 ホラーが流れるテレビ画面は真っ暗なのに、窓は野外との温度差で真っ白に煙っていた。

 我が家の安っちいソファーに座る海斗くんは、見たいのか見たくないのか、クッションに顔半分埋めながら映画の展開を追っている。

 女性の悲鳴と、雪の日の静寂がコントラストを形作る。

 鍋から湯気が漂う。

 平和を願う。


 ネギ、きのこ、白菜などの具材を映画の被害者のようにバラバラにしたあと、茹だった湯から昆布を取り出し、ごまと調味料、そして最後に豆乳を加えて、鍋つゆを完成させる。

 とろみのあるクリーミーなつゆは、香りからして優しい。


 最後に今日の被害者野菜たちを釜茹で拷問しようとした、そのとき。

 部屋に電子音が鳴り響いた。


(うわっ! なに⁉)


 珍しい。

 クール系御曹司くんがビビっておられる。

 物理的には声一つ発さないのが流石だが。

 それは、電話の着信音だった。

 私のものではない。

 彼がソファの上に放り出していたスマホを取り上げて――相手の名を見たのだろう、小さくため息をついて耳に当てた。


「……なに、お父さん」


 昇さんからだったようだ。

 私は、具材を入れて火の調整をしてから、なんとなくその会話に聞き耳を立てる。

 思春期息子から父親への会話ってきいたことがないので、少し興味が湧いてしまっている。


「……うん。元気。うん」


 リモコンで流れ続ける映画を止めながら、映画並みに重いテンションで返している海斗くん。


「十四日ね……うん、ちゃんとわかってる……」


 コンロの火しか音を立てない部屋では、スマホから昇さんの声も漏れてくる。

 電話越しでくぐもってはいるが、十年前と変わらない活力を感じさせる声。

 タイプが息子と正反対なんだよな……

 息子、終始仏頂面だし……いやそれはいつもか……

 声はきこえないし、嫌っているという雰囲気はない。

 単に鬱陶しいという感じか。


「大丈夫。わかった。花も買ってく。また」


 早め終わらせたいというように彼は彼にしては矢継ぎ早に言葉を続けて、電話を切る。

 いつも大人びてる海斗くんの年相応な姿、あながち始めて見たかもしれない。

 私は新鮮さを覚え、ぶっちゃけちょっとキュンとする。

 飯炊き女の役得である。


「お父さん?」

「うん」

「なんて言ってたの?」

「実家戻ってこいって……あ、なのでその日は、ご飯……」

「いらないのね。わかったよ」


 彼はこくんと頷くと、再びホラー映画に集中し始める。

 今日はやけに高校生らしくみえる。


「海斗くんって、反抗期あったりした?」


 私は、嫌がられるかなと思いつつ、ついききたくなってしまった。

 ザ・野次馬根性である。

 だって、大人しい彼と、テンプレ反抗期のイメージは、まったく一致しないのだ。

 彼はテレビ画面から目を離すと、私をじっと見つめて答えた。


「……あった」


 過去形。

 一言で回答して、彼はまたテレビ画面に戻る。

 その断固とした口調に、私はそれ以上きかないことを決める。

 鍋が、ぐつぐつと沸騰し始めていた。



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