22.憎悪(グレイス)

 許せない。

 許せない許せない許せない……!


 キリアンと共に展示会場の控室へ戻ってきた私は、無性にイラつくあまり、パイプ椅子を思いっきり蹴飛ばした。


 何なのよあの老人、急に邪魔なんかして!

 もう少しでマエルを追い込めたのに……!


 ガンッと倒れた椅子が畳まれた状態になると、それを後ろから見ていたキリアンが、気怠そうにしゃがんで椅子を元に戻した。


「落ち着けよ、グレイス……」


「は? 何が? ウザイんだけど」


 何食わぬ顔をしているキリアンを見るだけで、尋常じゃないほど腹が立つ。ただでさえ悪阻つわりで吐き気半端ないのに。


 そもそも、何でこいつはマエルのところにいたわけ?


 朝、展示会場で合流した時『今日は体調が優れないから側にいて欲しい』ってお願いしてたはず。会場内で私の妊娠を知ってるのも、キリアンだけなのに。


 あー、本当に最悪。


 公衆の面前でキスをしていたマエルの姿が、頭から離れない。


 私に真正面から歯向かってきたスティーブという男からも、“絶対にマエルを守る”という意志の強さがヒシヒシと伝わってきた。

 腕を振り上げられた時、私が『きゃッ』と驚いた刹那に垣間見せてきた“あ、ごめん”と言いたげな表情には、迂闊にも見惚れてしまった。

 

 それに比べてキリアンの頼りなさには、婚約したのを後悔してしまうくらい失望させられた。


 だって、おかしいじゃない!


 何でスティーブと私が闘ってたの?

 何で貴方が後ろで前髪弄りながら沈黙してたの?

 何で婚約の話しが出た時、腕を隠したの?

 

 何で……何でマエルの方が、幸せそうだったの?


 思考がグチャグチャになりながら額に手を当てていたら、両手を軽く広げたキリアンが苦笑いを浮かべてきた。


「子供じゃあるまいし、そんなムキになるなよ。相手はたかが庶民だろ?」


 私の神経をワザと逆撫でしているような口ぶりに、悔しくて嘔吐しそう。キリアンが戻した椅子にドカッと座って足を組み、表情を見られないように反対を向く。


「そのたかが庶民に黙り込んでたのは誰よ。というか、今朝から気になってたんだけど、何で香水変えたの?」


「香水? あ、ああ……これは、その、気分的にな。別にいいだろう? 俺がどんな香水を付けようと……」


 知ってる訳ないか。


 その香水が、昔マエルに誕生日プレゼントで渡したのと同じなんて。


「ねぇ、怒らないから正直に言ってくれない? 今日のフェアで、もしマエルが居たら“気付いてくれるかも”とか、密かに考えてたんじゃないの?」


 横目でキリアンを睨んで問い詰めた途端、彼は顰めっ面で私に迫ってきた。


「な、何を言い出すんだ、グレイス! そんなこと微塵も考えてないぞ俺は! 変な憶測はやめてくれ!」


 明らかに動揺し始めたキリアンから、わざとらしく目を逸らす。


「あっそ……もういい。気持ち悪いから、ちょっと休ませて」


「そ、そうか。分かったよ」


 嘘つき。本当にムカつくわ。


 マエルのこと忘れるって、約束したばかりなのに。

 『いっぱい愛して』って、お願いしたじゃない。

 私がどれだけ美容にお金かけてると思ってんのよ。


 どいつもこいつも、マエルばっかり。


 あんなタヌキ顔の田舎娘……どこがいいの? ――。

 

 学園生活、最後の年。


 クラス替えが行われてからの数日間、教室にいた連中は私にビビっていたのか、誰も声をかけてこなかった。


 以前つるんでた仲間たちは私がジョゼフと付き合い始めて間もなく、他のクラスで新たなグループを作ってしまった。そして、私はその輪から爪弾きにされた。


 友達なんて所詮そんなもの。元々どこかギクシャクしてた関係だったし、寂しさなんてこれっぽっちも感じない。


 とはいえ、休み時間や昼食はジョゼフと一緒にいたから良かったものの、それ以外の授業を過ごす時間は退屈で仕方がなかった――しかし。


「グレイスさん……隣、座ってもいい?」


 授業直前、教室で窓の外をぼんやりと眺めていた私に、突然微笑みかけて来たのがマエルだった。


 まともに話したことすらないのに、私が孤立してるのを助けようとしている偽善じみた魂胆が見え見えで、この時はかなりムカついた。


「好きにすれば? でも話しかけないで」


「え……どうして?」


「分かんないの? ウザいからよ」


 それでもマエルは懲りずに、何度も私へ接触して来た。その執拗さは、私がトイレに篭っていても壁をよじ登って入ってくるほど。


「よっこいしょっと〜!」


「よっこいしょじゃないでしょ!? 貴女馬鹿なの!?」


「えへへ」


 変態かこいつは――とウンザリしつつも、いい加減マエルのストーキングに呆れた私は、痺れを切らして彼女に質問した。


「本当しつこい。何で私にそんな絡んでくるわけ?」


「だってグレイスさん、すごい綺麗だから……友達になりたくて」


 ポカンと口を開けた私と目が合ったマエルは、無邪気な笑顔でクスッと笑った。


 温和で誰とでも親しく出来るマエルは、そこまで目立つ存在ではないが側にいても居心地は悪くなかった。だけどそういうのに限って、陰で何を愚痴っているのか分からない。

 

「うわぁ〜別人みたい! ありがとう、グレイス!」


「まだアイライン引いてないんだけど……何? もしかして喧嘩売ってんの?」


 ずっとスッピンだったマエルには、私が一から手取り足取りでメイクを教えることに。

 彼女は元からまつ毛が異様に長くてボリュームもあったからマスカラなんて不要だし、色白で頬を赤く染めやすい体質だからチークもほどほど。


 そこへ、メイクを終えたマエルを一目見た他の生徒が、目を丸くしてすっ飛んできた。


「ちょっと何なに!? マエルめっちゃ可愛くなってんじゃん!」


「えへへ、でしょ〜? グレイスにメイク教えてもらったんだ! 彼女、アクセサリーとか占いもすッごい詳しいんだよー!」


 クラスの女子達が一斉に私へ駆け寄って来て「私にも教えて!」と懇願してくる。


「べ、別に良いけど……」


 その後、マエルのおかげで大変な目に遭ったにしろ、美容や装飾品に人一倍気を遣ってきた私の知識が、こんな形で役に立つのかと思うと、悪い気はしなかった。


 昼休みはいつも屋上でジョゼフと2人きりで食事していたけど、その日は初めてマエルも誘ってみた私。

 

「へぇ〜、君がグレイスの話していたマエルか」


「は、初めまして……」


 ベンチにどっしりと座るジョゼフは、体格が良いせいか威圧感があり、それに気押されたマエルは緊張気味に目を泳がせていた。


 月日が経つと、3人で昼食を一緒に過ごすのも随分と慣れてきて、少し恋愛に入れ込んだ話題になった時のこと。

 ジョゼフが突然吹き出した。


「ウソッ、マエルって彼氏いなかったのか? そんな可愛いのに」


「可愛いだなんてそんな……! ま、まぁ、モテないですからね、私」


「それは知らなかった。案外この学園の男共は、見る目のない連中が多かったんだな」


 マエルの事情を聞いたジョゼフの『可愛い』というリアクションに、私はそこまで警戒していなかった。むしろ『見る目のない連中』という言葉に、私も隣で共感していた。


 物腰の柔らかな性格。

 屈託のない可憐な笑顔。

 透き通るような肌に、奥まで澄んだ瞳。

 抱きしめたくなるような、ふっくらとした体つき。


 マエルはか弱さも相まって、私からしてもまるで妹のように可愛く思ていた。

 

 他の令嬢から聞いた話によると、同じクラスの令息達は“マエルにはどうせ彼氏がいる”と謎な思い込みをしていたらしく、アプローチすることすら断念していたという。


 しかし、令息達に甲斐性がなくても、令嬢から言い寄るのは“はしたない”とされるのが、貴族社会のもどかしい礼節。

 この時ばかりは私も、早くマエルに声をかけてくれる、良い人が見つかれば……と、胸中で願っていた。


 月日は流れて、雪が降り始めた12月。


 午前の授業を終えて、昼食前に私がトイレの個室に入っていると、後から複数人の令嬢達が足音を立てて入室してきた。


「ねぇねぇ、昨日の放課後見た!? ジョゼフの送迎車にマエルが乗り込んだところ!」


「見た見た! 宝石店に向かったってやつだよね!? マジヤバくな〜い!?」


 ……何ですって?


 突如、私の背中に冷や汗が滲む言葉が耳に飛び込んでくる。


「実はさー、ついさっき校舎裏で、ジョゼフがマエルに告白してたの、モロ見ちゃったんですけどー!」


「え、ウソでしょ!? グレイスの間違いじゃないの!?」


「それがホントなんだな〜! しかもジョゼフ……残念ながらフラれてましたー!」


「はぁ!? 何それマジウケるんだけど! グレイスの立場ないじゃ〜ん!」


 扉越しに聞こえてきたのは、悪夢を疑う会話だった。

 あまりの衝撃で便座から腰を上げることが出来ず、頭の中はパニック状態。身体は震え始め、息も荒くなる。


「キャハハハハ、まぁ仕方ないよね〜。マエルはグレイスのこと、最初から“貶めるため”に取り入ってたんだしさぁ〜。お高く止まって調子に乗ってたから、神様からの天罰喰らったんだよ〜」


 それを聴いた瞬間――サッと立ち上がって、ドアを勢いよく蹴り飛ばした。

 するとそこには、クラス替えして私を省いた、4人の令嬢達が顔を連ねていた。


「……グ、グレイスさん!? いらしてたの!?」


「何さっきから戯言垂れてんのよ……! ふざけるのも大概になさいッ!」


 私の一喝に怯えた令嬢達は「キャ〜! ごめんあそばせー!」と叫びながら、蜘蛛の子を散らすようにトイレから出て行った。


 マエルが……。

 マエルが、そんなことする訳ないでしょ……!


 信じられなかった。

 いや、信じたくなかった。


 しかし、その後訪れた昼食の時間に――私の想いは打ち砕かれることになる。


「グレイス、俺と結婚してくれないか」


 私が何も知らないとでも思っているのか、ジョゼフは素知らぬ顔で告白してきた。


「待って……その返事をする前に、確認したいことがあるの」


 訝しんだ面持ちで「何だ?」と聞き返してきたジョゼフに、腕を組んで目を細める。


「どうしてマエルにプロポーズなんかしたの? その指輪、誰とどこで買ってきたの?」


 鎌をかけるように問うと、瞬時に顔を引き攣らせた彼は震えた声色で答えた。


「……な、な、何故それを……いや、指輪はその……」


「狼狽えてないでハッキリ言いなさいよ。デカい図体してるくせに情けない」


「し、仕方なかったんだ……マエルに言い寄られてしまって、つい……俺もその気になってしまった、というか……」


 しどろもどろになったジョゼフが、やけに気温が寒い中、額に大汗を流しながら指で頬を掻く。

 全身の筋肉が一気に弛緩した私は、腕をだらんと垂らして、曇り空を見上げた。


 そっか……。

 あいつらの話していたこと、本当だったんだ。


「待って、そんなのおかしいよ……! 私、誘惑なんてしてないってばッ!」


「どうやら、その可愛らしい仮面の下には、とんでもない小悪魔が息を潜めているみたいね。貴女みたいな狡猾野蛮な女、初めて見たわ。もうこれ以上、私に関わらないで」


 こうして居場所を失くしてしまった私は、卒業を待たずしてトゥアール学園を自主退学した――。


 あれから3年の年月が経過し、マエルと笑って過ごしていた学園時代は、完全に色褪せてしまった。


 友達なんて……所詮そんなもの……。


 下を向いて涙が滲んできた瞬間――後ろからパタンと、ドアの閉まる音が聞こえてくる。

 まさかと思って振り向いてみたら、キリアンの姿が控室かはいなくなっていた――。


 キリアンが退室してから、どれくらいの時間が過ぎただろうか。気を利かせて飲み物を買いに行ってるにしては、あまりにも長すぎる。


 時計なんか見たくない。経過時間が判ったら、彼が戻ってくるつもりがないと悟ってしまいそうで。


 胸元から取り出したアミュレットを膝上に置く。チェーンの切れてしまった安産祈願から、お腹の子の悲しむ泣声が聞こえてくるよう。


 キリアンに手渡していた避妊具に、までして辿り着いた妊娠。


『確かに俺の子なのか? ――』


 初めて身体を許した男なのに……そんな言い方はないよね――お腹を摩りながら、そんな嘆きを心の中で呟いた。

 

 カチャ――ドアの開く音に、ハッとして胸が高鳴った。


「お嬢様、そろそろ婚約発表のお時間になりますので、お支度の方をお急ぎ下さい」


 控室に響いた声の主が執事のナビルだと分かり、振り返ることなく落胆する私。


「ナビル……キリアンがどこにいるのか知らない?」


「キリアン様なら、先ほど『香水を売ってる場所を教えてくれ』と尋ねられたので、お店をご案内したところですが」


 少しでも期待した私が馬鹿だった。

 そこじゃないだろうと。


『グレイス、香水変えて来たぞ! ――』


 戻ってくるなり、そんなことを満足げなドヤ顔で言われでもしたら――怒り狂って彼の前髪を寝ている隙に生え際からパッツンにして、その後も火に炙ってチリチリにしてしまいそう。


 と、婚約者への無慈悲な制裁を想像してしまう自分が恐ろしい。


『お前と一緒にいても、息苦しくて仕方がない――』


 別れ際にジョゼフから放たれた台詞がトラウマになったせいで、キリアンには出来る限りの自由を与えてあげてたのに。


 けど、やはり男という生き物は、鎖で繋いでないと碌なことをしない。

 結局そうやって男の行動を制限しなければ、自分の側に置いておけないのかと思うと、自信を失うくらい虚しくなる――。


 強くなりたい――私に無関心な父と兄の傍で、常にそう願って生きてきた。

 誰かに甘えることも媚びることもなく、一人で生きていけるくらい、強くなりたかった。


 キリアン。


 貴方は、どうして話しかけてきたの?

 どうして悩みを聞いてくれたの?

 どういう気持ちで私を抱いたの?

 どうして側にいてくれないの?


 弱いところを見せれるのは、貴方だけなのに。


 伯爵令嬢という高貴な地位。

 何でも買える莫大な財産。

 身の回りを世話してくれる使用人達。

 男なら誰もが振り返る美貌。


 これだけのものが揃っているのに、私とマエルで一体何が違うというの?


 掴みかけていた幸せが、掌から砂のように溢れ落ちていく感覚に襲われ、急激に気持ちが冷めていく。


 もう、全てがどうでも良くなった気分――。


 涙を拭ってゆっくりと立ち上がり、立ちすくんでいたナビルと目を合わせる。


「婚約発表を中止して……私、帰るから」


 展示会に集まる記者に対して、元々サプライズで予定していた婚約発表。中止したところで大したことはない。


「は、はい? 今『帰る』と仰られたのですか?」


「同じことを二度も言わせないでッ! 貴方もクビにするわよッ!」


 ビシッと背筋を伸ばしたナビルが「申し訳ございません!」と頭を下げる。


「それと、頼みたいことがあるの」


「は、はい……何なりとお申し付け下さい」


「早急にスティーブという男を調べて。調査費はいくらでも出すから」


「先ほど、お嬢様に楯突いた輩をですか……?」


 苛立ちで燻る心に執念の油が注がれる如く――“憎悪の炎”が舞い上がる。


「そう……家族関係から好きな食べ物まで、調べ倒してちょうだい」


「か、かしこまりました」


 今に見てなさいよ……マエル。キリアンでも足りないというのなら、全部奪い尽くしてやる。


 大切なものを失う悲しみを、嫌というほど味合わせて差し上げるわ――。

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