人助けしたのに浮気と疑われて婚約破棄された私は、信じてくれた人と幸せになります

0.終わりの始まり(マエル)

『大事な話があるから、至急来てくれないか』


 陽も沈みかけた夕方。

 前触なく電話で呼び出された私は、理由も明かされないまま、取り急ぎポグバ子爵家へと向かった。

 

 到着して間もなく使用人に応接間へと案内される。

 応接間には、重厚なローテーブルを挟んで向き合う黒皮のソファがあり、婚約者のキリアンと彼のご両親が、妙に深刻な顔をして座っていた。


「し、失礼します……」


「遅かったな。そこに座れよ」


 どう見ても穏やかでない空気が漂う中、サラリとした金髪を掻き上げるキリアンに着席を促された私は、怯えながらも3人の対面へと腰を下ろした。


「大事な話とは、何でしょうか……?」


 そう尋ねても、ただ重苦しい沈黙だけが流れていたところを、口火を切ったのはキリアンだった。


「これは一体、どういうことだ」


 彼が懐から取り出したを、投げ捨てるようにテーブルの上へパサッと置く。

 そこには、私が“スーツ姿の男性とホテル前で抱き合ってるような風景”が写っていた。


「……え?」


 目を疑った私は、咄嗟に手で口を覆った。

 剣呑な表情を浮かべるキリアンが嘆息しつつ、ソファに背を預ける。その隣で肩を並べるご両親も、冷ややかな視線を私に向けていた。


「まさかマエルが“浮気していた”とは、想像すらしてなかったよ」


「う、浮気……?」


 突如キリアンから放たれた『浮気』という衝撃的な言葉に、心臓を槍で貫かれたような痛みが押し寄せてくる。バクンッバクンッと、動悸もかなり酷い。


 どうして、どうしてこんなことに……。


 確かに、写真に写っているのは間違いなく私。でも、決して浮気なんてしていた訳じゃない。


 これは、単に“人助け”をしていた場面なのだから――。


 あれは10日前、冬の星空が空を輝かせる夜だった。


 私は学園時代に仲の良かった友人と、レンストランで夕食を共にしていた。久しぶりに会う友人にも婚約者が出来ていて、お互い結婚後の生活について、笑いながら語り合った。

 盛り上がり過ぎて、帰りがかなり遅くなってしまったものの、何とか終電で最寄り駅に着く。人がちらほらしか歩いていない中、乗り場でタクシーを待っていた。


「はぁ……寒いなぁ〜」


 白い吐息を漏らしながら、早く帰って暖まりたいと思っていた時、背後で誰かが倒れたような気配がして、振り返ってみた。

 すると、黒いスーツを着た男性が地面に突っ伏し、嘔吐してしまっていた。男性に気を取られていた矢先、私の前にタクシーが到着する。

 半開きの窓から運転手が「どちらまで行かれます?」と行き先を尋ねてきたが、私はすぐに首を振った。


「あ……ごめんなさい、乗りません!」


 看護師の資格を持っていた私は、倒れていた男性を見過ごせなかった。出発したタクシーを尻目に、男性へ駆け寄る。


「あの、大丈夫ですか?」


「う、う〜ん……す、すいません」


 背中を摩りながら事情を訊いてみると、男性は先ほどまで親族の結婚式に出席していたそう。だいぶお酒を飲んでいたらしく、どうやってこの場に来たのかすら曖昧だと言う。


「どちらからお越しになられたんですか?」


「えっと……ウ、ウェストエドムールです……オェッ」


 かなり遠方から来ている。もう汽車はないし、タクシーで帰れる距離じゃない。そこへ、男性は虚な目をしながら口を開いた。


「もう……あそこのホテルに泊まりまオロロロロッ!」


「わ、わかりました! 私がそこまで送りますから、もう少し頑張って!」


 胃液しか吐けなくなっていた男性の肩を担ぎ、すぐ近くにあったホテルまで運ぶことにした私。運よく空き室もあった。

 受付の人は、ミディアムの黒髪と左目下のホクロが特徴的な、ホテルマンらしく清潔感のある男性だった。

 とりあえず、字も書けそうにない男性の代わりに、私の名義で一部屋借り、前払いで清算を済ませる。


「では、ごゆっくり。何かご要望がございましたら、内線にてお呼び下さいませ」


「はい、ありがとうございます。でも、泊まるのは私じゃなくて、あそこにいる男性なんです」


 玄関の方を指差すと、受付の人はそれを見遣って「なるほど」と数回頷いた。


「かなり酔っているみたいなので、ご迷惑おかけしてしまうかも知れないんですけど……」


「いえいえ。今日の様な週末には、そういったお客様もたくさんいらっしゃいますから。ご心配には及びません」


「助かります! あ、お水を一杯頂いてもいいですか?」

 

 心強い言葉をもらって受付を済ませた私は、玄関先で項垂れるように座って待つ男性に、ポンポンと肩を叩いて声をかけた。


「空いてる部屋ありましたよ! あと、これ飲んで下さい」


 受付で貰った水を一気に飲み干した男性が「……マジで助かりました」と安堵の表情を浮かべる。

 これで一安心かと思いきや、重そうな腰をゆっくりと上げた男性は、不意に唇を尖らせて「ん〜、お礼にチューさせてくれ〜」と、ふざけながら抱きついてきた。


「ち、ちょっとヤダ、しっかりして下さいよ!」


 突然の抱擁に困惑した私が、苦笑いで男性を引き剥がす。お酒の匂いもすごい。


 こうして部屋の鍵を男性に渡し終えた私は、ホテル前を偶然通りかかったタクシーを捕まえて帰宅した――。


 恐らく、写真は男性から抱きつかれた瞬間を激写されたもの。


 貴族のスキャンダルをつけ狙う『パパラッチ』と呼ばれる人の仕業と思われる。もっと高貴な令嬢ならまだしも、まさか男爵令嬢の私まで標的にされるとは、予想だにしていなかった。


 で、でも大丈夫……これは明らかに、誤解なんだから――そう自分の心に言い聞かせながら深呼吸をし、落ち着いて説明する。

 

「違うよ、キリアン……これはお酒に酔って倒れちゃった人を介抱してただけなの。当時ホテルの受付をやってた人に訊けば、証明できるはずだから」


 言い終えた間際、キリアンが意外そうに片眉を吊り上げた。


「何を言っている。写真を持ってきた奴こそが“ホテルの受付”だったんだぞ? お前の直筆でサインされた名簿も、しっかりと確認させてもらった」


 一瞬にして全身が凍りつく。


 え、何でが、私を貶めるようなことをするの……?


 何がなんだか分からなくなり、頭が真っ白になりつつも「……待って! そ、そんなはずない!」と苦し紛れに返す。

 しかし、キリアンはそれをあしらう様に、鼻を鳴らして腕を組んだ。


「ふん、どうだか。彼はこの写真を持ってきた際に『とても愛し合ってるように見えました』と、複雑そうな顔で言っていたよ。この期に及んで聞こえの良い嘘を吐くとは、見苦しいにも程がある」


 信じられないと驚きながら、改めて写真に目を落とす。

 よく見ると、写真にはホテルの玄関である“ガラス張りの扉”が内側に写っていたことに気付く。アングル的にホテル内部から撮影されたものだ。

 状況整理が追いつかずに、息をのんで黙り込んでいたら、キリアンが「おい」と呼んできた。


「俺が大学で必死に勉強してた時に、お前は抜けぬけと他の男に抱かれてた訳だ。そんなにこの男と相性が良かったのか? 心底失望させられたぞ」


「わ、私は人助けをしただけで、浮気なんかしてないの! お願い……信じてよ……!」


 今にも気を失いそうになりながら、前傾姿勢で必死に誤解だと訴える。それでも、彼は表情を強張らせたまま、肩をすくめた。


「はぁ〜、往生際の悪い女だな。写真は嘘を吐かないだろ?」


「そ、そんな……」


 胸が切り刻まれる感覚に、膝へ置いていた両拳に力が入る。

 諦めきれない私が「でも――」と言いかけた途端、ポグバ家当主であるフロリアンさんが「いい加減にせんか!」と声高に遮ってきた。


「もう言い訳は十分だ。貧相なカスカリーノ家を救ってやろうとした、私の温情まで無碍にするとはな。お前には“人の心”というものがないのか?」


 人の……心……?


「そうよマエル。あなたはお淑やかで、こんなことをするような子じゃないと思ってたけれど、本当に残念でならないわ」


「ソレンヌさんまで……」


 フロリアンさんに続いた夫人のソレンヌさんは、何度もお茶や買い物で一緒に親睦を深めた人。そんな夫人が、未だかつて見たことないほど目くじらを立てて、冷徹な面持ちをしている。


「散々可愛がってあげたのに。もちろん貴女は、こんな不埒な行動が“どういうことに繋がるのか”、理解しててやったのでしょう?」


 口を開けたまま唖然とする私に、返す言葉なんて思い浮かぶはずもない。

 誰にも言い分を聞いてもらえず、あれだけ優しかった夫人からトドメを刺されたことで、抵抗する気持ちは完全にポッキリと折れてしまった。


 目に涙を浮かべて意気消沈する私を見兼ねたのか、フロリアンさんが厳しい顔で天井を仰ぎ、大きな溜息を吐く。


「もうよい……後日カスカリーノ家には、正式に書面で婚約破棄を言い渡すから、覚悟しておけ」


 無慈悲な宣告を受けた私は、まるで糸の切れた人形のように体から力が抜け、床に泣き崩れた――。

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