23 聖域
その日、築ノ宮は波留のマンションに泊まった。
そして朝早く彼は電話をしていた。
「渡辺さん、本当に申し訳ありません。
今日一日もよろしくお願いします。
はい、
お土産は必ず買ってきます。
はい。
それでは失礼します。」
スマホを置くと彼はため息をついた。
波留が声をかける。
「渡辺さんって昨日の?」
「そう。昨日もお世話をかけたけど、今日は急遽お休みを貰った。
だからお土産を買って来て下さいと言われたよ。」
「お土産?お菓子?」
「いや、地方のカプセルトイだって。」
波留は思わずおかしくなり笑い出した。
もう心には重しは無いのだ。
何の陰りも無く笑えるのはなんて楽なのだと波留は思った。
「じゃあ行くよ。」
築ノ宮は車を走らせた。
今日はとても天気が良かった。
日差しが暖かい。
波留は体の調子は心配だったが、気持ち悪さも今は無かった。
体調が悪かったのは体が変わりつつあることも理由の一つだろう。
そしてそれ以上に精神的なものが大きかったのかもしれない。
今は体も冷えない様に暖かい格好だ。
今はもうなにも心配はない。
大事な人が隣にいる。
彼はちらりと波留を見た。
「3時間ぐらいかかるからね、調子が悪かったら早く言って。」
波留は頷くと外を見た。
彼女の胸元にはあのローズクォーツのブローチが光っていた。
やがて車は大きな森の近くに来た。
ロッジがありそこには一人の管理人がいた。
築ノ宮は管理人としばらく話すと
何かを受け取って波留の元に来た。
波留は笑いながら二人を見ている管理人に頭を下げた。
「少し歩くよ。」
と築ノ宮が荷物を下げて歩き出した。
森はうっそうとしている。
とても濃い緑の匂いがした。
波留は彼と手を繋いで森に入った。
一度も来た事がない森だ。
だがどこか懐かしい気持ちがする。
森には人の手が入っていないのだろう。
細い獣道があるだけだ。
波留がふと後ろを見ると通って来たはずの道は無かった。
「アキ、道がないわ。」
築ノ宮がふふと笑う。
「そうだよ、ここは本当は人は入れないんだ。」
「入れない?」
「ああ、聖域と言っただろう?ただ私は入れる。作った人間だから。
そして波留も入れるんだ。」
「物の怪の血が入っているから?」
「そう。
そして私の大事な人でもあるからね。」
築ノ宮の目は優しい。
「しばらく歩くと樹がある。そこが目的地だよ。
そこでこれを供えよう。」
築ノ宮が荷物を見せるとその中には野菜や果物が入っていた。
「神様に捧げるものみたい。」
「
二人は手を繋ぎゆっくりと森を進む。
日差しは暖かい。
やがて森の木々の間から草原が見えて来た。
開けた場所に出ると高い所に絹雲が薄く広がる空を背景に、
紅葉した大きな桜の樹が一本生えていた。
驚く程大きな樹だ。
青空の下に堂々と枝を広げている。
「もう秋だから紅葉しているね。とても綺麗だ。」
「そうね。」
二人は樹を見上げた。
立派な樹だ。
築ノ宮は樹の根元に持って来た神饌を丁寧に置き、
しばらく手を組み祈っていた。
それを見た波留も手を合わせる。
「少し休もうか。」
と二人は草の上に並んで座った。
風が静かに流れて行く。
どこかから小鳥の声がする。
しばらく二人は何も言わず景色を眺めていた。
とても穏やかな気持ちになる所だ。
その時ふと人の気配がした。
「彬史か。」
二人が振り向くと白髪頭の年配の男性が立っていた。
顔立ちが少し築ノ宮に似ている。
「父上。」
築ノ宮が言った。
「久し振りだなあ。」
と男性はにこにこと笑いながら二人のそばに来て座った。
波留は思わずそこで正座をして頭を下げた。
彼女はこの男性がどこから来たのか分からなかった。
ただ不思議な気配がする。
そして築ノ宮の父親のようだ。
挨拶をしなければと思った。
「あの、私は中島波留と言います、その、ご挨拶に上がりました。」
「そうか、そうか、体調もあまり良くないのに
よく来てくれたな。寒くないか?」
「今日は暖かいので大丈夫です。」
築ノ宮が波留を見た。
「父の
この桜でここの聖域を守っているんだ。」
波留が目を丸くして博倫を見た。
博倫はただにこにこと笑っている。
「まあそう言う事だよ。
でも驚いたなあ、彬史がこんなかわいい子を連れて来てなあ。
髪の毛の色が良いなあ。私と同じ色だ。」
「そうですよ。すごく良いでしょう。
それに性格も良いんです。」
「親に
でも一番良いのは、」
博倫が波留を見た。
「物の怪と人の間の子と言う事だ。
こんな子は滅多にいない。
二つの世界を結んでくれている。
お前は幸せ者だなあ。」
博倫は築ノ宮を見た。
「それで気持ちも通じて子を成したのか。」
「はい、そうです。」
築ノ宮が力強く言った。
「そうか、こんな良い日は初めてだ。
私は嬉しい。」
博倫は彼女が付けているブローチにそっと触れた。
「これはヒナトリ君か。」
「そうです。」
「相変わらずセンスの良い。
ヒナトリ君を通じて
「と思います。」
博倫はブローチの上で少し指を振った。
「
お前の守護も残っている。」
「ありがとうございます。」
築ノ宮が頭を下げた。
「それで父上は毎日何をされているのですか?」
築ノ宮が博倫を見た。
彼はにかりと笑う。
「毎日物の怪の子どもが来てここで遊ぶよ。
獣も物の怪もやって来る。
見ていると楽しいよ。みんな可愛い。」
「そうですか。」
「ああ、現世では大変な事ばかりだったからな。」
そして博倫が波留の手を取った。
「波留さん、彬史をよろしくな。
我儘な男だが波留さんへの気持ちは本当だ。
体を大事にな。」
「はい。」
波留は彼の言葉を聞いて涙がぽろぽろと流れた。
言葉一つ一つに祝いの意味が込められている気がする。
築ノ宮がここに行こうと言った意味がよく分かった。
祝福されているのを波留に伝えたかったのだ。
そして博倫が笑いながらふうと消えた。
だが波留の手には温かな感触が残っていた。
築ノ宮が波留の頬を拭った。
「父はね、この桜の樹なんだ。
私が三五を継いでここを作った時に、
自らこの樹になってくれた。」
「人ではなくなったの?」
「そうだな、死んでしまったのではないけどね。
それで私はどうしてもハルをここに連れて来たかったんだ。
父にも会わせたかったし。」
彼は周りを見渡した。
静かな風に草が揺れている。
所々にある秋の花が所々に彩を添えていた。
「ここは私には一番大事な場所なんだ。
人と物の怪達とが平和に過ごせるために作った。
私がこの仕事を続けているのは、
物の怪達を祓うのではなく一緒に生きたいからなんだよ。」
波留が頬にある築ノ宮の手に触れた。
「ハルはそれをもう持っている。
ハルは私の理想なんだ。」
彼女は彼の手をそっと持ちそこに唇を触れた。
築ノ宮が別の手で彼女の顔に触れる。
「父もハルを見て笑ってくれた。」
波留は目を閉じた。
今までいろいろな事があった。
母の顔は知らない。
父もほとんど語らず亡くなってしまった。
子どもの頃から変な子と言われて人から避けられる事が多く、
一人で生きて来た。
ずっと我慢して耐えて生きて来た。
だがこの築ノ宮と出会ってから運命が変わった気がした。
辛い事もあった。
だが彼は波留の全てを受け入れているのだ。
理想である、と。
そして子どもも出来た。
まだ小さな命だが彼は喜びここに連れて来たのだ。
「アキ、私はあなたに会えて良かった。」
閉じた目から涙が流れる。
築ノ宮は口づける。
「私もだ。」
さわさわと桜の樹の葉が風に揺れた。
博倫もどこかで二人を見ているのだろう。
静かな景色だ。
そして暖かな気配が二人を包んでいた。
二人は街に戻り、日常に戻った。
翌朝築ノ宮は早くにマンションを出た。
「多分今日からものすごく忙しい。」
「急に休んだから?」
「そう。」
彼がげんなりした顔をする。
「頑張って。連絡するから。」
「既読しか付けられないかも。」
「良いの。見てくれれば。」
「それでも近々休みは取るよ。病院に行こう。」
「病院?」
「体を診てもらわないと。
絶対に私も行くから勝手に行ったらだめだよ。」
子どものように彼が言う。
波留が彼の胸元に顔を寄せた。
「うん。」
そして彼は部屋を出た。
波留は窓から下を見る。
築ノ宮が駐車場に現れて手を上げた。
波留も手を振り返す。
それを見て築ノ宮は出勤した。
彼女はしばらくその車を見る。
ずっと前に初めて見送った日を彼女は思い出していた。
あれから色々とあった。
それでも今あの頃と同じ気持ちで彼を送れた。
胸がいっぱいになる。
「さあ、私も仕事に行かなきゃ。」
体調はすっかり良くなった。
不思議なものだ。
「帰りにモンちゃんに寄ってお礼を言わなきゃ。」
と彼女は微笑みながら呟いた。
築ノ宮がいつも通り会社に着くと、
何事もなかった様な顔で由美子は迎えた。
彼は大きな紙袋を持っていた。
「おはようございます。今日のご予定ですが。」
「あの、渡辺さん……、」
少し控えめに築ノ宮が彼女を呼んだ。
ちらりと由美子は彼を見た。
「はい。なんでしょうか。」
「これをどうぞ。」
と彼は紙袋を差し出した。
「お土産ですね。ありがとうございます。」
「カプセルトイと地方のキャラクターのキーホルダーも入っています。
でもそれって渡辺さんが使うのですか?」
「いえ、築ノ宮様が必要がないとおっしゃったカプセルトイを
待っている方は結構いらっしゃるので。」
「そうなんですか?」
「ええ、その方々にお渡しします。」
そう言うと彼女は紙袋を受け取った。
「それで休んでいた間どうでしたか。」
「はい。大変でした。」
「……あの、申し訳ありませんでした。」
「いつかはこう言う事もあるとは想定していました。
今まで無かったので少しばかり手間取りましたが。」
そして彼女はすました顔で彼を見た。
「それでどうなったの?仲直りしたの?」
築ノ宮は少しばかり恥ずかしげな顔で彼女を見た。
「しました。」
「そう。」
「それで聖域に行って父上に会って来ました。」
「まあ、博倫様にですか。
お元気でしたか?と言うかお姿を現されたのですか?」
「はい、全然変わらない姿で。」
「そうですか。」
由美子はしばらく博倫の秘書もしていた。
ある意味秘書業のいろはを教わった人だ。
「それで博倫様はなんと。」
「良い人と出会ったなと。
そして波留に体を大事にと言って頂きました。」
「体?」
築ノ宮が微笑む。
「赤ちゃんが出来たんです。私と波留の。」
由美子の顔が驚きに変わる。
「赤ちゃん……、」
「まだ検査薬で調べただけですけど、
間違いはありません。」
由美子はしばらくあっけにとられた顔だったが、
ぽろりと涙が落ちた。
「あ、ああ、渡辺さん!」
築ノ宮が驚いて彼女に寄った。
由美子は慌てて顔を拭った。
「すみません、大丈夫です。その、びっくりして。」
彼女が大きく息を吸った。
「良かったねえ。」
満面の笑みで由美子は笑いかけた。
築ノ宮の胸がいっぱいになる。
その時執務室の扉がノックされた。
由美子が慌てて頬を拭い身を正した。
「失礼いたしました。時間の様です。」
「はい。」
「今日からしばらく殺人的スケジュールです。
ご覚悟ください。」
すました顔で由美子が言った。
「はい。」
築ノ宮が立ち上がる。
そして由美子のそばに寄った時だ。
「築ノ宮様、波留様のご懐妊はしばらくご内密に。」
彼がちらと彼女を見た。
「色々と段取りが必要と思われます。」
「そうですね。」
「そちらも早く根回しをいたします。」
「お願いします。」
そして由美子がにやりと笑う。
「でもね、私は本当に良かったと思ってるよ。
おめでとう。」
築ノ宮は嬉しそうに笑った。
それから築ノ宮と波留は忙しくなった。
それでもしばらくしてから病院に行き、超音波でお腹を調べた。
「妊娠3ヶ月ぐらいですね。
赤ちゃんの大きさは5センチぐらいですよ。
心臓がしっかり動いています。元気な子ですね。」
興味深げに築ノ宮がモニターを見ている。
「5センチと言ったらこれぐらいですか?」
彼が指で指し示すと医師が少し笑って言った。
「そうですよ。」
「小さくてカワイイんですね。」
と築ノ宮が感心したように言うと皆が笑った。
家に帰ると彼はプリントしてもらった写真を
いつまでも飽きずに眺めている。
「どこか手か足か分かる?」
波留が覗き込むと築ノ宮が指で指した。
「多分ここが腕、ここが足。」
だが波留にはよく分からない。
「ほんと?」
「多分。」
と二人は笑う。
「でもアキには何か見えているんでしょ?」
彼が少し微笑む。
「光って見えるよ。命の光だ。そしてハルも光ってる。」
座った築ノ宮のそばに立っている波留の体に
彼は顔を寄せた。
「ハル、本当に悪いと思っているんだ。
入籍はもう少し待って欲しい。
何しろ色々と口を出す人がいて……。」
彼はとてつもない家系のたった一人の跡取りだ。
彼の父からは何も言われていなくても、
博倫はもう会社とは関係はない。
周りが黙っていないのは想像出来る。
本当なら波留も色々と探られるだろう。
だが彼がシャットダウンしているのか何事もなかった。
築ノ宮が波留を見上げた。
「でも私は誰からも文句を言われない仕事をする。
それには自信がある。
その上でハルを迎える。」
自信ある強い表情だ。
築ノ宮は絶対に負けないだろう。
「ありがとう。でも無理はしないで。
本当にこうしているだけで私は……。」
波留は彼をそっと抱きしめた。
彼から優しいものが漂って来る。
本当にそれだけで彼女は満足だった。
「仕事はいつまで続ける?」
「そうねぇ。」
波留が少し考えた。
「八か月になったぐらいかな。その後はしばらく子育てするつもり。」
「もう辞めてしまっても良いんじゃないか?」
波留は首を振った。
「産んだ後は大変だからお休みするけど、
落ち着いたらまた仕事をするわ。
私はやっぱり困っている人を占って少しでも手助けがしたい。
私はそれが出来ると思う。
力ってそう言う物でしょ?
アキも力があるから人を守ってる。私もそうしたいの。」
波留は築ノ宮を見た。
「初めて会った時にアキが言ったのを覚えている?
私の力を善い事に使って人を助けていただけると嬉しいって。」
彼は思い返すがそれははっきりと覚えていなかった。
だが波留がそのように能力を使うのなら
それは喜ばしい気持ちだった。
「ごめん、はっきり覚えていないけど
そうしたいのなら私は嬉しい。」
築ノ宮が微笑むと波留が少し照れた顔をした。
「出来るかしら?」
「出来るよ。」
築ノ宮が彼女をそっと抱きしめた。
「さすが私の奥さんになる人だ。」
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