ズレた時計
普遍物人
ズレた時計
私の家の中の時計は時間を正確に刻まないものが殆どだ。
同じようにズレているのではなく、例えばリビングの時計は15分早いし、自分の部屋の時計は20分遅い。よく考えてみたら、家に正確な時計などなく、どの時計もどこかズレていた。
諸君は思うだろう。どうやって正確な時間を把握しているのかと。いや、説明させてくれ。
それは幼い時からそうであった。時計を習ったその日から、テレビに映る時間と時計が示す時間に多少とは言えないほどの差があった。親に聞いても確かにそうねえと言って自分の作業に戻っていく。何かこだわりがあったわけでもなさそうだった。自分で直せば良かろうと、ただその当時子供の私がその時計の針を直せるほどの背丈を持ち合わせていなかったのだ。
「今何時?」
風呂場から聞こえる母の声。私はリビングの時計を見て私は言う。
「リビングの時計で、8時。」
「ありがとう」
母は出勤のために8時5分に出なければならないのだが、リビングの時計は実際の時間よりも5分程進んでおり、母からすればきっと、まだ時間に余裕があったのだろう。
私達には「暗黙の了解」があった。あの時計はこれぐらいズレている。その時計はどのくらいズレている。だから時計の場所を言ってその時間を示すのが日常的になっていた。逆に時計の場所を言わなければ「どこの時計?」と言われる始末。時計は時計としての役割を果たしちゃいなかったが、時計は我々によって時計となっていたのだろう。
ただそれを認識してから15年経った頃、家中の時計のズレ自体がズレた。理由はわからないが、それらはどんどん差が大きくなり、その時々で私達家族も適応してはいたが、そのズレが20分になった時、買い替えを検討しようと言う話になった。
「それもそうよ。あの時計はもう20年も使っているもの。」
私は母の言葉に驚く。
「え、そんなに前なの。」
そういうと母は自慢げに答える。
「そうよ。あなたより先輩ね。」
その隣で父もうんうんと頷く。
「パパとママが二人暮らししていた時からだったな。」
そうやって母と父は昔話に花を咲かせる。聞いているだけで小っ恥ずかしい話も多いが、両親にもそう言う時期があったのだと思うと親近感が湧いた。
なぜ買い替えなかったかはあらかた予想がつく。時計が気軽に変えられるほどの高さにないからであろう。ただその面倒くささを超えるほど、彼らは時間を間違えたのだ。必然的に時計を買い替えなければならなくなったのである。
ただその思い出を聞けば聞くほど私はその時計を買い替えない方がいいんじゃないかって、時間に厳しい日本社会に生きながらそう思ったのだ。
自分が何かを言う前に、時計は変えられていた。同じような風貌だが、正確な時間を刻むそれは私にとって違和感でしかなかった。自然に正確な時間を読み取ろうと自分で調節していたネジが乱暴にこじ開けられたような気がする。私たちはどこの時計かを指示せず、ただ時間を聞くだけになっていった。ズレが無くなれば、それも自然に慣れていくようで、別に日常生活に困ったりはしなかった。
「あれ、この時計、少しズレている。」
ただそれにより、壊れた時計が如実に現れるようになった。もし5分ズレたらその時点で即買い替える。私達にはもう、どこの時計の何時かを言う習慣はないし、それらは正確であればある程良かった。逆に正確でない時計があれば、その存在場所を指定する習慣がなくなった私達にとって困難であり、それを排斥して正確な時計を迎え入れるしかなかったのである。
「今何時?」
「ちょっと待って、今スマホ見る。」
やがて、我が家にもスマートフォンが普及し、時計は時計の意味を成さなくなった。大まかな時間を知れさえすれば良くなった。ただもうあと少ししないと時計の時間はズレないだろう。ここにある時計はどれも新品で同じように時間を刻み続けている。
「変える必要なかったね。」と母が皮肉めいて言う。
あの時計はもう戻らない。
ズレた時計 普遍物人 @huhenmonohito
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