第3話 僕が痛がっているのにユリアが駆け寄ってこない!
夜遅く屋敷に帰ったケヴィンを、執事のカミールが出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、ケヴィン様。ユリア様がお待ちになっています。」
「ええぇ、ユリアが?なんでだよ。まさかレオを連れてきてなんかいないよね。」
いつもは淡々と業務をこなしていて、必要なことを一切しゃべらない、聞かれたことには的確に答える執事が、今日は無表情でケヴィンを見つめて、質問に答えない。
「な、なんだよその態度!僕は伯爵だぞ。」
プラテル伯爵家の業務は、今は全てこのカミールが執り行っている。
確認しろと言われている書類も、ケヴィンは実際には目を通さずにサインをしているだけなので、カミールがいなくなっては明日にでもプラテル家は破滅するだろう。
ケヴィンがなにかにつけて僕は伯爵だぞ!と言うのは、言わなければ他に伯爵らしいところがないことの裏返しなのかもしれない。
普通に伯爵として日々の業務を執り行っていれば、わざわざ伯爵だと宣言する必要など、どこにもないのだから。
無表情の執事に連れていかれたのは、応接室だった。
一応ユリアは妻なのに、カミールは来客用の応接室にとおしたのか?とケヴィンは少し疑問に思った。
ドアを開ける執事にうながされて部屋へと入ると、最初に目に入ってきたのは最近では珍しく、お茶会用の華やかなドレスに身を包んだユリアの姿だった。
髪も綺麗にピシりと整えられていて美しい。
子どもが生まれてからのユリアはいつも体を締め付けないデイドレス姿で、髪の毛も緩く上げているだけ。化粧は最小限で、なんだか前よりくすんだ印象だった。でもこうしてキュッと体を絞ってドレスアップしていれば、ユリアはなかなかスタイルの良いのびやかな美人なのだ。
――――なるほど。ドレスアップして僕の気を惹こうって作戦だな。
きっとまたケヴィンと別れたくないとか、レオに会いにこいとかどうとか言うのだろう。
――――うるさい事を言ってこないように、厳しく対応しなくちゃな。
ケヴィンは思った。
「やあユリア。久しぶりのドレスアップだね?でもさ、普段からいつもそれくらいしていないと、旦那様にしつれ・・・。」
言いかけたケヴィンの言葉が止まる。
それはユリアの奥に座っている人物に気が付いたからだ。
ユリアとどこか似ている意志の強そうな目。クラブで遊び歩いたりなどしそうにない、質は良いけど無難でシンプルで真面目くさった服装。ユリアと同じ濃く深いブラウン艶やかな髪。
ユリアの従兄のセドリックだ。
「お邪魔しております、プラテル伯爵。」
なぜこいつが一緒だと教えなかった!
そういう思いを込めて、後ろを振り返って執事を睨む。
カミールは退室せず、まだ入り口のドアの側に控えたままだった。
ケヴィンが睨んでも、そよ風すら感じていない様子だ。何を考えているのか全く読めない。
「おい、セドリックお前なにしにきたんだ。」
「ただのユリアの付き添いですよ。今にも倒れそうな顔色なのに、どうしても今日プラテル伯爵に会うと言い張るものですから。」
「顔色?・・・・・ああ。」
言われてみてユリアの顔を改めて見てみると、確かに強張っていて、そしていつもより白い気がする。久しぶりに濃い化粧をしていたので、全く気が付かなかった。
―――ユリアの顔色が悪いと気が付いたケヴィンだったが、だからといってなにか声を掛けるわけでもない。本当に、ただ気が付いただけだ。
例えば休むように伝えるとか、暖かいお茶を勧めるでもない。近くへ来て寄り添うでもない。
セドリックがいつでもユリアを支えられるように寄り添っている事にも気が付かなかった。
少しでも強張った体が温まるようにと、カミールが少しジンジャーを入れたお茶を出していることにも。
「それで?なんだいユリア、話したいことって。離縁の意志なら変わらないよ。」
「今日友人に聞いたのですが。・・・・・・よく2人きりで出かけられる、親しい女性がいるとか。」
「ああ、アニータのこと?君とはもうすぐ別れるのだから、別に報告する必要もないだろう。」
――――本当にしつこいな。
ユリアは結婚する前は、女性の中では背が高くて、しなやかで、とても美しかった。そしてさっぱりとした勝ち気な性格で、頼りがいがあって、年下だけどお姉さんのようにケヴィンを甘やかしてくれた。
赤ちゃんが生まれてからは緩いドレスを着て、化粧なんてほとんどしていなくて、ケヴィンを甘やかしてくれないどころか、責めるようなことを言ってくる。
――――さっぱりした性格どころかジメジメだ。こんなに弱くて重い女だったなんて、騙されたような気分だ。
「本当に、本当にもうダメなんですか?レオのことを、ちょっとでもいいので、会って・・・・。」
「だーかーら!僕は君や!君の父親や!あとそこのセドリックから嫌味を言われて!!傷ついているんだって!!!それなのに君は仕事をしろとか、レオに会えとか、顔を合わせたら要求ばかりだ!!要求する前にやることがあるだろう??謝ったらどうなんだ!!」
「も、申し訳ありませんでした。」
高圧的に言うと、すかさずユリアが謝るので、少しだけケヴィンの気分が浮上した。
ユリアはケヴィンに甘いので、たまに反論をしてきても、こうやって強く言えば大体すぐに折れてくれる。
「ふんっ。ユリアだけが謝ったところで大して意味がないけどね。」
どうせユリアの父親である伯爵が、ケヴィンのような若造相手に謝るわけもない。苛められた上に謝られもしないのだから、離縁して当然。悪いのはハウケ伯爵家のほうだ。
そう、ケビンは思っていた。
「・・・謝れば、レオに会ってくれるのですか?」
ケヴィンが都合の良い解釈で悦に入っているところを、冷静な声が水を差す。
セドリックだ。
「どうせ、ハウケ伯爵は僕の様な新人伯爵相手に謝ったりなんかしないだろう?分かっているよ。」
「そうですね。」
セドリックはあっさりと認めた。
ケヴィンが何を言っても、ビクともしないセドリックの冷静な態度が気に入らない。こちらは伯爵で、相手はただの見習いのくせに。セドリックは態度だけは丁寧なのに、話しているとなぜかバカにされているような気分になるのだ。
「さすがにハウケ伯爵が謝罪するわけにはいきませんが、代理として私の頭でしたらいくらでも下げられます。」
まるでなんでもないことのように、セドリックが言った。
「え?お前が謝るのか?」
「はい。レオに会っていただけるのでしたら、私の態度でプラテル伯爵を不快にしてしまったことを、お詫びいたします。」
「・・・・お前が謝ったからって、離縁の意志を変える気はないぞ?」
「はい。レオに会っていただくだけで、結構です。」
このいけ好かない男に頭を下げさせることができる。
ただレオにちょっと会うだけで。
それはとても、お得なことのように、ケヴィンは思った。
ユリアがなぜか、ケヴィンではなくセドリックのほうを心配気に見つめている。
「セドリック・・・・・あなた・・・。」
「いいんだ。どうしても、レオに会わせたいんだろう?父親と。」
――――気に喰わない。気に喰わない。ユリアは誰が主人だと思っているんだ?よし、セドリックに頭を下げさせよう。うるさくて涎が汚いレオに会うのは気が重いけれど、予定が合わないとかなんとかいってはぐらかしてもいいし、最悪一瞬だけでもレオを見に行けば、約束を果たしたことになるだろう。うん。逆に一瞬だけ見に行って、後でうるさく言われないようにしておいたほうがいいな。
「いいだろう。セドリック、君が心底反省して、僕に謝罪してくれるのなら、レオに会うよ。」
「セドリック、あなたはいいから・・・・。」
「いいんだよ、ユリア。俺もレオに、父親と会わせてあげたい。」
「・・・・・おい!早くしろよ!!」
ユリアとセドリックが、こそこそと話しているのが、腹が立って仕方がない。
さっさと頭を下げさせないと、気分が収まりそうになかった。
「はい。それでは・・・・」
セドリックが、憎たらしい事に余裕の態度を崩さないまま、ケヴィンの方を見て頭を下げようとしとした、その時。
「もういい!!!やめてセディー!!!!」
ユリアのほとんど叫ぶような声が部屋中に響いた。何故か言われた者を従わせるような、力強い声だった。
結婚前、しっかり者のユリアの言葉にはなぜか説得力があって、皆がユリアの意見に一目置いていたものだ。その時と同じ声。
「ユリア?そいつが謝らないなら僕はレオに会わないよ?」
「もういい!もう結構です。やっと目が覚めました。」
ユリアの意志の強い目で見つめられて、ケヴィンの胸に一気に不安が広がる。
ケヴィンはユリアに可愛がられて甘やかされていたので、今までこんな強い目でユリアに見られたことはなかった。
いつだって。格上の令息にだって臆することなく自分の意見を言っていたユリアの、その目が、今ケヴィンに向けられている。
先ほどまでの良い気分が、一気に吹き飛んでしまった。
「ケヴィン、離縁の件、承知いたしました。必要なサインは既にいただいておりますので、ご要望通り、こちらで全て手続きしておきます。」
「あ、いやそんな・・・急がなくても。謝ってもらえればそれで。」
「ですから、もう結構ですので。謝りませんので、離縁いたしましょう。」
何を言っても許してくれる、甘やかしてくれるはずのユリアが、今ケヴィンの手を完全に離そうとしている!
それを感じ取って、ケヴィンは慌てた。
――――離れたい、解放されたい、仕事をしたくない、赤ちゃんの面倒なんてみたくない。ユリアに僕だけを構って欲しい!!
ずっとそう思っていたけれど。
「ま、まさか、本当に離縁をする気じゃないよね?」
まさかまさか。ユリアには何を言っても絶対にケヴィンのことを許してくれるはずで・・・・
「おっしゃっている意味が分かりません。ケヴィンは離縁したいのですよね?」
「あ、うん。でも本当じゃなくて・・・。」
「離縁に本物も偽物もありませんから。離縁したいのなら離縁しましょう。」
話はお終いとばかりに、既に部屋の出口に向かって勝手に歩き出すユリア。
その後を、セドリックも当然のように付いていく。
カミールが恭しくドアを開けて、2人を誘導する。打ち合わせでもしていたような、流れるような動きだった。
「あ、え・・・・・・?」
「私、大切な事を分かっていませんでした。レオのために、例えどんなに理不尽なことでも、頭を下げようとしてくれる人がいるのに。・・・血がつながっているだけの他人に、なんで必死にしがみついていたのかしら。バカみたい。」
最後に一度だけケヴィンを振り返って、ユリアが言った。
言っている意味がよく分からない。他人?他人って誰の事だ?セドリックだよな??
レオが生れるまで住んでいただけあって、ユリアは一切迷うことなく屋敷の出口までスタスタと歩いていく。セドリックとカミールがそれに続く。
まずいまずいまずいまずい!!
なにかとんでもなくまずい事が起こる気がして、ケヴィンは必死に追いかける。
「ねえ!ちょっと待ってよユリア!・・・ああ!痛い!」
戻ってきてくれるかと思って躓いて転んでみたけど、誰一人振り返る事すらしないので慌てて起き上がってまた追いかける。
――――僕が転んで痛がっているのにユリアが駆け寄ってこない!!!
いよいよ焦るケヴィン。冷や汗で、可愛らしいと評判のフリルの付いたシャツがぺったりと身体に張り付く。
ユリアが玄関の扉まで自分でさっさと開けてしまい、外へと出てしまう。
そしてなんと!執事のカミールがケヴィンのためにドアを開けて待っていなかったので、閉まりかけの扉に、ぶつかりかけてしまったではないか!!!
外には既に、ハウケ伯爵家の紋章の馬車が停まって待っていた。
「私も一緒に連れて行っていただけませんか。共同事業の後始末のことなどで、お役に立てるかと思います。」
てっきり見送りで外にまで出たのかと思っていたカミールが、馬車に乗り込もうとするユリアとセドリックの2人に対して、予想外の事を申し出る。
「もちろんだよ。今までも君と仕事をしていたようなものだし・・・ようなものじゃないな。君としか仕事をしていないのだし。ハウケ伯爵家は君の様な優秀な人材を歓迎する。」
「嬉しいわカミール。あなたがハウケ家に来てくれたら、とっても心強いです。」
「ありがとうございます。セドリック様、ユリア様。」
「カ、カミール!?お前なにを勝手な事を。できるわけないだろうそんなこと!」
カミールが執事を辞めるのだけは本当に、本当にまずいことが、はっきりとケヴィンにも分かる。
まだケヴィンの父親がプラテル伯爵家当主だったころ、庶民で安いからと雇ったこの男。とても頭が良いのに、正式に学園で勉強したわけでもないので、他の屋敷に就職できるはずもなく、安い賃金でよく働いていた。
この男がいなくなったらプラテル伯爵家はお終いだ。
「できますよ。雇用契約書をご覧ください。私との契約はいつでもクビにできるようになっており、賃金も見習いの頃と変わっていません。何度か待遇の改善を訴えたのですが、他の書類は中身も見ないでサインする癖に、私の待遇改善の書類ばかりは、絶対にサインをしていただけない。それこそクビを掛けて、なんとかこちらからもいつでも契約を解除できるようにだけは、前伯爵に交渉してありますから。」
それはそうだろう。今までの賃金でも働くのに、引き上げる必要がどこにある。
「しょ、庶民の出なのに、雇ってもらえるだけでもありがたく・・・。」
「幸いな事に、最近では私の能力を買ってくれる方が何人かいまして、お声を掛けていただいておりますよ。あとはユリア様がどうなるかだけ見届けたら、どのみち辞めようと思っていたところです。」
「カミール・・・・あなたにも迷惑を掛けてしまっていたのね。」
「いいえ、ユリア様。ユリア様がお屋敷にいらした頃は、とても楽しく働かせていただきましたので。他の方に声を掛けてもらうようになってきたのも、ハウケ家との共同事業がきっかけですし。」
そう言いながら、3人はもう馬車に乗り込んでしまった。
「まだ話が終わっていない!!」
「それではケヴィン様、お世話に・・・・はなっていませんね。ごきげんよう、さようなら。」
最後に馬車に乗り込んだカミールがそう言うと、ケヴィンの返事も聞かずにバタンと扉が閉じられた。
「ああ!!おい待て!!!」
それと同時に馬車が走り出す。
ケヴィンは少しだけ追いかけたが、馬車に追いつけるはずもない。
――――曲がり角で、馬車の窓からユリアが見えるかもしれない。
タイミングを合わせて、馬車が道の先の角を曲がる瞬間、ケヴィンは窓から見るように大げさにまた転んで見せたが、馬車は一瞬もスピードを緩めることなく、そのまま走り去って行った。
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