透明クジラ
箱女
透明クジラ
最初にその話を聞くと「やめろ」と言われた。
もういちど尋ねると無視をされた。
三度目には殴られた。
ある日、おれたちは村の壁仕切りを飛び越えて遊びに出ていた。周囲にあるのは見境のない自然。目もそうだけど、それよりも鼻に迫ってくる。草の匂い、土の匂い、糞の臭い、死骸の臭い。そんなものが絡まり合って強弱をつけ合いながらそこら中を覆っている。体験こそ何度かしているけれど、まだまだ慣れそうにはなかった。
おれたちの目下の遊びは探検だった。村がそこにあることを示す壁仕切りが見えるところからは離れずに未知の世界を歩き回る。何度目かの探検ということもあって、今日は行ったことのない方向へと行くことになった。そこに夢見たようなまったくの新しい発見がなくてもそれなりに楽しいものだった。いつもとは違うほうへと歩けばなんと言ったってとりあえずは見たことのない景色ではあったから。
拾った木の枝で足元の草を払いながら歩き、多少の時間が経った。そこで不思議なものが見つかった。もの、というのではない。道だった。ただそれが変だということにヤンもおれもすぐに気が付いた。だってここは村の門とは離れた位置にある。それなら獣道かということになるけれど、しかしそれにしては草の取り払われ方が丁寧に過ぎる。誰か人の手が入っていると断言できる。
「スイ、これどう思う?」
「どう、って道にしか見えねえよな。行きゃあ何かがあんだろうけど」
「行くしかねえか」
言い終わるよりも先にヤンは歩き始めていた。おれも文句はなかった。ありがちな迷子になる心配もない。それなら知らない道がどこにつながっているのかが知りたかった。人がひとり歩くには余裕がある幅だった。いっぽうでその脇は樹木や藪が道を規定していた。
二十分ほど歩いて、そろそろ不安がにじり寄ってきていた。おれたちの村は高山の切り立った崖にほど近く、きちんと順路を選ばないと断崖の下へまっさかさまに落ちていくところにあった。このことはどの家でも子どものうちから叩き込まれる。親に手を引かれて山を下り、そしてその断崖を外から眺めて村の子どもたちは守らなくてはならない約束を理解する。おれたちははじめて禁を破る可能性を見始めていた。
まっすぐ歩くのにはっきりと嫌気が差し始めたとき、やっと景色に変化が訪れた。ちいさな建物がある。木製の、お堂といった感じの建物だ。近づいてみると、素材こそ簡素なものに見えるがその細工には職人の技巧が感じられる。中でも屋根の頂上で羽ばたこうとしている鳥は見事なものだった。尾や羽根が何本にも分かれて表現され先のほうで遊び、かつ散らかった印象は受けない。大きな目は幾重にも層を分けて彫り込まれ、胸は大きくふくらんで羽毛のやわらかさが想像できた。その左右の羽根を上にあげている姿はいままさに飛び立とうとしている姿にも、あるいは空から降りてきて羽根を畳もうとしているようにも見えた。
おれもヤンも黙り込んでそれを見ていた。そして同時にお互いに顔を見合わせた。同じ考えがおれたちの頭には浮かんでいた。この建物はなんだろう。わざわざ村の外に家を建てる理由はない。それは危険なだけだ。
「家じゃねえよな」
「でも蔵にも見えねえよ。それにしちゃあ手が込んでる」
「開けるか」
「まずは戸を叩いてみようぜ」
見る限り鍵はなく、丈夫そうな紙が貼られた障子戸があるだけだった。人の家なら不用心だ。近づいてみても気配はない。戸を叩く前から反応がないことがわかった。とはいえ物事には順序があって、この場合はおれがそれを決めた。だからすこし力を抜いて声をかけながら戸を叩く。
誰かいるのか、というおれの声掛けにはもちろん静謐が返された。わかっていたことを確認して、おれはヤンに目くばせをした。ヤンはうなずいておれの隣に並んだ。
「村の外にヤバいやつが棲みついた可能性もあるしな」
「じゃあ開けてみるか」
誰もいないことを確認したばかりなのに、おれたちは息を殺して慎重に両開きになっている障子戸を滑らせた。なめらかに戸は動き、そこにあったのは外観の大きさと一致した一部屋だった。床には村で見たことのある上等な敷物が敷いてある。深めの赤い地に金糸で模様が描かれ、縁もその金糸で装飾が施されていた。その奥のほうに机があって、そこになにかが置いてある。
雰囲気のある書物だった。ひもで綴じる手法は見慣れたものだが、その書物自体の年季の入り方が並大抵じゃない。色の褪せ方、ひもの朽ち方。色そのものが部分ごとに変わっているのはきっと触れられる頻度によるものだろう。おれは隣のヤンのほうに顔を向けた。
「これのためだけにこんなの建てたのか、ずいぶんな話だぜ」
おれはヤンの言葉にはっとした。ちぐはぐだ。すくなくともこの容れものと書物は時制が合っていない。これだけが古すぎる。
「とにかく見てみようぜ、なんかすげえことが書いてあるのかも」
「どっかの家の家系図とかそういうのだとは思うけどな、昔の出来事とか」
馬鹿にする気持ちが半分とまさかという気持ちが半分。そのまさかの内訳が期待と恐怖でそれぞれまた半分に割れていた。おれたちは机の前に並んで座った。表紙にはとくに何も書いてはいない。
風化まではまだ時間のあるらしく、触れた先からぼろぼろに崩れるようなことはなかった。横長の書物の表紙を持ち上げる。
『虚鯨魚描述』
この五文字がおれたちの目に飛び込んできた。紙の中央に、いやに質素に書かれたその文字列からは楽しそうな印象を受け取ることはできない。隠さずに本当のことを言うなら、忌まわしいものがその向こうに眠っているような気がした。
どちらも一言も発していないのに、もう一度おれたちは互いに顔を見合わせる。そして同時にうなずく。おれはページをめくるために手を伸ばした。
村の先生が黒板に書いてくれたクジラの絵とそっくりなものがそこには描かれていた。ただ一点、おれが知っているのと違うのは、それが空を泳いでいるというところだった。おれたちの住んでいる崖みたいな切り立った山がいくつかクジラの体にかかって、ほんのわずかだけ隠している。
「……なんだこれ」
「クジラは海にいるんだろ。じゃあこれはたぶんクジラじゃない。海の絵にゃ見えねえしよ」
「鳥でもねえよな」
「こうだったら面白いっていう思いつきじゃねえの。なんだってこんなところに大事にしまってるのかはわかんねえけど」
そこからあとのページにはびっしりと文字が詰めて書いてあった。おれたちは教室で前を向いて座るタイプじゃなかったから、こういったものを見ると眠くなる。読むどころか眺める気もせずにおれはそれを閉じた。ヤンもほっとした。おれたちは目で合図をして、ここを出ることにした。もう用事はない。
中にあった敷物もそうだし、そもそも近所におれたちのとは別の村があると聞いたこともない。だからこのお堂はおれたちの村とかかわりがある。そう考えて間違いないのだが、だとして不思議な話だった。なんでこんな離れたところにあるのか。おれたちが知らなかった理由はなんなのか。おれとヤンはそんなことを話しながら帰ることにした。
月が昇った。いつもと違って白く冷めた月だった。
おれは家に戻って、何をするでもなく食事をする机に頬杖をついていた。たとえば都会のほうに出ればテレヴィジョンというものが流行っているらしいが、この村にはそんなものはない。ものすごく面白いもので退屈というものがなくなるらしいが、口での説明では何もわからなかった。人は箱に入っても小さくはなれない。
おれの頭は自然とお堂にあったあの書物、ひいては描かれた虚鯨魚に引っ張られていった。字では鯨と書いてあるけれどクジラではなさそうなそれ。おれとヤンは帰り道でそいつを透明クジラと呼ぶことに決めていた。
あいつは何なのか。
ヤンは思いつきじゃないか、と言ったがおれにはそう思えなかった。根拠はないけどそれっぽい理由をつけることはできる。空想のものとして生み出したならおとぎ話にしてしまうのがいいし、何よりここは海なんてものがあまりに縁遠すぎる。けれど最後に出せる答えがおれにはなかった。空想じゃないと言うのなら現実のものだと考えるのが自然だ。でも空を泳ぐ透明クジラをそういうものと認めるのは難しい。自分で考えておきながらたどりついたのが矛盾なんだから、つまるところおれはやっぱり頭が良くはないらしい。
布団に入ってからも考えてみようと思ったけど、結局すぐに眠りに落ちた。
翌朝、おれとヤンは何も示し合わせずにお互いの家の中間地点で鉢合わせた。きっと起きる時間も食事時間も家を出る時間もほとんど同じで、透明クジラについて話したほうがいいと思ったことも同じだったんだと思う。
「スイ、おれやっぱり昨日のあれ、なんかおかしいような気がすんだよ」
「おれも。作り話にするにも変なところあるって思う」
「いるのか?」
「たぶんな」
おれたちはそれぞれ持ち寄った頼りない仮説を語り合った。それらはどれも根拠のないものだった。いわばおれたちの話し合いは今日の夕飯はこれがいいな、という願望の領域を出ないものだった。家から漂う匂いで予想を立てるのとは段階が違っていた。もちろん欲しいのは匂いのほうだった。
いつもなら走り回って遊んでいるおれたちが木の下で座って話し込んでいるのを、村の人たちは不思議そうに眺めていた。中には警戒の眼差しもあった。わるだくみをしていると思われたのかもしれない。
「なあ、あのお堂ってさ、誰かが建てたのは間違いないよな?」
「まあそうだよな」
「じゃあさ、その人を探せば何かわかりそうじゃねえ?」
「そうか。……いや待て、もっと確実なやり方あるかも」
「なんだよ」
「村長なら絶対知ってるはずだと思うんだけど」
おれたちはいつもの通りに互いの顔を見合わせて頷いた。
村長は偉い人だというのを両親から教わって、そうしてちいさいころに初めてその家を見たときに落胆したのをよく覚えている。他の村の人が住んでいる家とまったく変わりないものだったからだ。ちいさなおれは偉い人はすごいところに住んでいるものだと思い込んでいた。いまでも少しそう思っている。村長の家はあまりにも普通の家で、場所をきちんと覚えていないと風景に紛れてしまう
おれとヤンは走ってその目立たない家の前にたどりつき、戸を叩いて声を張り上げた。時間で考えればまだ控えておくべきではあったけれど、おれたちはそんなことはしなかった。
「なんじゃ朝から。ああ、スイにヤンか」
村長は怒らないからだ。
「なあ村長、聞きたいことがあるんだ。教えてくれ」
「なんだか知らんが上がりなさい。いま茶で一服しとったところだ」
おれたちは促されるままに村長の家に入っていった。中も外と変わりなく、よその家と同じ普通のものだった。さすがに自分の家と受ける感じは違うから、ヤンの家に遊びに行ったときの印象に近い。
村長は言った通りにテーブルで茶を飲んでいたらしく、まだ湯呑からは湯気が立ち上っていた。そこには奥さんもいて、にこにこと迎えてくれた。これもいつもと同じだった。
村長はきっと決まった場所なのだろう椅子に座って一口お茶を飲んだ。歳のわりに座るときに声を出さないから、他の人より健康なのかもしれない。
「で、聞きたいことだったか?」
「ああ、昨日さ、ヤンと俺は村の外で遊んでたんだよ」
「はあ。なんのために塀があると思っとる。まあいいわい、続き」
「そしたら変な道があってさ、村の出口とも違うほうに伸びるやつ」
おれの言葉を聞いた途端、湯呑を口に運ぶ途中の村長の手が止まった。顔を見ると視線も固まっている。ヤンはそんな村長をいぶかしげな目で見ている。一気に空気が変わったような気がして、おれは言葉を続けることができなかった。
何秒が経ったかわからない。深刻な状況にある人間だけが作り出せる緊張感が場を支配している。おれはすこし呼吸が苦しくなった。
「お前たち、その話はやめなさい。忘れなさい」
いつもよりもぐっと低い声で村長がつぶやいた。言い回しを重ねるよりも説得力を増す方法があることをおれはこのときはじめて知った。妥協の余地なく真剣ならばその言葉は重くなるものらしい。自分ののどが見えない手で握られていると思うほどに細くなった。きゅうう、という情けない音さえ聞こえたくらいだ。
隣でぎゅっと拳を握ったヤンが吠えるように食い下がった。
「なんだよ村長! いいだろ、なんなんだよあのクジラ!」
村長は視線をテーブルに落としたままゆっくりと茶を飲んだ。まるでヤンの言葉が聞こえていないみたいに穏やかな所作だった。おれたちは一息あってからまた村長の口が開かれるものだと思い込んで、それをじっと待っていた。大人がたまにやるような、あのもったいつけたくだらない態度なのだと。
けれど村長は一向に話を始めなかった。お茶を飲んでから、ほう、と息を漏らして十秒が経ち、二十秒が経った。もう短期的な時機は逃していた。村長が湯呑をもういちど口へと運んだとき、おれたちはやっとヤンの訴えがなかったことにされたのだと気付いた。
やめろ、という言葉と無視という態度だけでおれたちが納得するわけがなかった。それどころかさっきの緊張感を乗り越えさせるほどの怒りが湧いていた。おれたちは透明クジラについて聞きに来たのであって、話せないことだと納得させられるために来たわけじゃない。
おれは立ち上がって村長に詰め寄った。座っていた椅子がうしろに倒れた。
「ふざけんなよ! 無視はねえだろ、教えろよ!」
おれの記憶はそこから先、すこし前後している。部分ごとに分かれていて、それをつなぎ合わせれば時系列どおりになることはわかっているけれど、どうにもそんな実感がない。
おれは床にしりもちをついていて、村長は立ち上がっていた。その立ち姿はひどく大きく見えた。大人がこれほど恐いものだと思ったことはない。姿勢を変えないまま無表情の村長を見ていると、頬骨が鈍く痛み出した。よく見てみれば村長の顔の横には握りこぶしが構えられていた。殴られたと理解したのはそうなってからだった。
「聞くな。忘れろ。出て行け!」
普段の口調さえ崩れた村長は、もはやおれたちの知っている穏やかな爺さんなんかじゃなく、怒りと恐怖の象徴へと姿を変えていた。怒鳴る声に追い立てられるようにおれとヤンは村長の家から逃げ出した。見たもの体験したものが現実なのかの判断がうまくつけられなかった。夢の可能性を否定するのは痛む頬骨だけだった。
荒い息はおれたちが全力で走ったことの証明だった。体が熱いのか空気が冷たいのかもわからない。
「スイ、お前大丈夫かよ。殴られたとこ赤いぜ」
「痛いは痛いけど、まだそんなって感じだな。でもアザになりそうな気はする」
「やり過ぎだろあのジジイ」
「でもさ、いるってことだよな。あの反応」
いそうだな、という疑いが確信に変わった。そう思えば村長は下手を踏んでばかりにも思えた。とぼけるのがきっと最善だったのに。でもきっとそんなことを思いつく余裕もなかったんだろう。重要な、なにか急所のようなもの。だからこそ村長は隠すこともできなかったし、最終的に怒ることしかできなかった。
じゃあ、とおれたちの興味は次に移った。透明クジラとは何なのか。現実的でないものが現実にいる。そのためには理由が必要だった。
「そうなったらあのお堂だよな、いちばんあやしいの」
「おれもそう思う。じゃねえとあんな遠くに建てる意味ねえもん」
おれたちはつい今しがたの恐怖を忘れたみたいに話を進めた。殴られたから今日は休み、なんてそんなヤワな育ち方はしていない。塀を乗り越えられる場所へさっさと歩き出した。
おれたちの冒険は知らない森への適当なものから、目がけるもののある冒険へと変わった。足取りも変わるし、余計な会話もなくなった。おれもヤンも謎に対する興味と期待で胸を膨らませていた。
はじめての行程では嫌な予感さえよぎる距離だったものが、いちど見知ってしまうと短くも感じられた。お堂は昨日と同じようにひっそりとたたずんでいた。なぜだかわからないけど、その姿はどこか意味を変えたように見えた。
「とりあえず中入って何か探してみようぜ。念入りにやったら見つかるかもだし」
試してみる価値はあるとおれも思った。大事なところに大事なものを隠すのなら、誰だって頭を使って隠すだろう。
敷物をひっぺがして、壁板と床板を一枚一枚たたいて、最後は屋根にのぼっていろいろ試してみた。その結果、おれたちには何も見つけられなかった。このお堂にあるのは透明クジラの書物だけで、他には何もない。なんのためにあるのかおれたちにはよくわからなかった。一冊の書物を読ませるためだけの建物なんて聞いたこともなかった。
「わけわかんねえ。後ろの文章読むのか?」
「どうなんだろうな。もしかしたら他にも似たような場所があるかもだし」
「ああ、あるかも。でもなあ」
「わかる。他の見つけたところで何かが起きるってのは想像しにくい」
成果が見つかると期待していたおれたちは、徒労のせいで疲れていた。具体的には想像できないものが見つかってほしかったのに、それがなかったからふてくされてもいた。おれたちは外に出てから一回ずつお堂を蹴って溜飲を下げると、あるものを見つけた。
「おいヤン、これ」
「あれ、昨日は気付かなかったな。まだ道が続いてる」
収穫のひとつもなく帰りたくなかったおれたちは迷うことなくその道を行くことにした。どうせすぐに崖にたどりつくはずの道だ。すがるような気持ちもあったのかもしれない。お堂を過ぎてからの道はそれまでのものと比べて、その脇には樹木はなく見晴らしがよかった。ただ草むらの密度は変わりなく、入っていこうとはとても思えない。だからおれとヤンは道に沿って歩いていった。
思ったとおりにそれほど歩くことなくおれたちは崖にたどりつき、そこからの風景を見下ろした。広がる空と森、ときおり思い出したように空を衝く岩の柱。圧倒されるものはあるけど、すぐに退屈になる景色だ。鳥が飛んでも慰めにもならない。
本当だったら平坦だったはずの風景に変化を与えている岩の柱はそのどれもが大きく、そして長い時間を過ごしてきたせいで黄色い岩肌にはまた別の森ができている。おれたちの住んでいる岩の柱と似たようなものだけど、同じくらい平らな土地があるのかはわからない。ここでできるのは休憩だけだとわかっておれはため息をついた。ヤンも空を仰いだ。
おれたちは崖の突端のところに座って足をぶらぶらさせた。結局は何もなかったことへの残念な気持ちは座っている場所の高ささえ忘れさせた。おれもヤンも帰ろう、の一言を言い出せずにしばらく黙ってじっとしていた。
そこでぼうっとしていたせいで、おれは目の前の異常に気付くまでにかなり時間がかかった。昏いハチミツのような色をした壁がいつの間にか現れていて、それがおれたちの視界を遮っていた。空中にそんなものがいきなり出てくるわけがないと思ってヤンのほうを見てみると、ヤンは口を大きく開けて指をさしながら震えていた。すぐに振り返るとそちらには平べったい黒が円を描いていた。
どうしてそれが巨大な眼だとわかったのかはわからない。でも確信があった。おれたちの身長を何倍すれば届くのかもわからない平らにさえ見える眼球だけが、空中に浮かんでいる。
透明クジラだ。
ほかに何が見えたというわけでもない。確信だけがそこにある。
ただ巨大だというだけの存在がそこにあるだけで空気がびりびりと震えた。呼吸も忘れる。まばたきも忘れる。止まったような時間のなかで黒目がわずかにこちらへと動く。捉えられた。
「め、目だけっ」
怯え切ったヤンの声がなんとかおれの耳にも届いて、そうしてそっちに顔を向けてやっと事態の異常さに頭が追いつき始めた。さっき自分でもたしかに確認したことだけど、眼球だけが浮いている。あとは二人で眺めていた風景が広がっている。おれは声を発することができていない。口が動いているだけヤンのほうが勇敢だったと評価できるような気がした。
音、というよりも不定形の大きなものが動くときに発生するものが全身にぶつかる感じがした。それは水とか空気とか、そういう種類のものだ。対抗する手段なんてどこにもない。受け入れるかどうかの選択肢もない、純粋な暴力。体の下のほうから吹き上げられて浮かぶ知らない感覚。そのほんの短いあいだ、おれとヤンはたしかに空を飛んでいた。
気が付くとおれたちは見えないクジラの背に座っていた。手を滑らせると、きっと皮膚なのだろう、見えないのにぼこぼこと凹凸があった。目に映らなくても実態があることは疑えなかった。だから自分の真下が遠く離れた地上の森でも怖がれない。いくら意味不明でもそうなっているものはそうなっているとしか言いようがなかった。
いつもよりも空が近く思える。隣のヤンはまっすぐ地平を眺めていた。
「なあスイ、おれたちこれからどこに行くんだろうな」
「目的地がありゃいいけど」
おれたちの声はこれまでにないほど乾いていた。
透明クジラ 箱女 @hako_onna
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