屋上を旅する男
かとうすすむ
猟奇なる犯罪
矢崎清一郎は、遊民であった。そもそも、勤務していた某出版社は数ヵ月前に依願退職して、独り暮らしのアパートで、ブラブラしていたうえに、彼の叔父が裕福なせいもあって、定期的に送ってくれる仕送りの金は馬鹿にならない金額であった。そんな訳で、彼は何不自由なく、好きな趣味と贅沢な食事にありつける毎日を送っていたのである。
しかし矢崎は元来、好奇心、いや、新奇心とも言うべきものが人一倍旺盛であった。日常の退屈な毎日に飽き足りていたのであろう、次第に彼の趣味は変わったものに移っていく始末であった。最初は手品、それもトランプを使ったような簡単なものであったが、それにも飽きて、次に矢崎の好奇を満たしたのは、人間観察であった。別にこれといって変わったこともない。例えば、街角の喫茶店で窓際の席に陣取ると、飽きもせずに通りを行き交う人々をただ何となく眺めている。通勤からの帰りを急ぐ若い会社員が、上着のポケットからハンカチを落として、それを後から来たOL風の女性に拾ってもらったとか、駅前広場のベンチに腰掛けて編み物をしている老婆に、若いチンピラ連中が寄って来て絡んできたかと思うと、いつの間にか仲良く、談笑しているといった他愛もない経緯ばかりである。全く面白くもない。徐々に、矢崎の足は喫茶店から遠退いて、今度は、まだ精力のある若い男性として当然のごとく、場末の安っぽい一軒のストリップ劇場へと向いた。
最初のうちは、矢崎の若い衝動が彼を掻き立てたが、やがてやはり、彼は尋常な趣味では満足できないのである。ストリップ嬢の白い足は、彼の好奇をある程度満足させたが、それにも限界があった。そして彼は、「覗き部屋」という歌舞伎町にある風俗店の存在を知って以来、そこから「覗く」という彼にとっては新しい興味を持ったのである。確かに、覗くという発想は相手からは自分の正体を知られずに、こっそりと密かに相手の秘密を知ると言う点で、新奇心旺盛な矢崎を大いに満足させるものがあった。見ず知らずの他人が、普段に、一体どんな暮らしをしているのか?どんな秘密があるのか?興味津々である。
矢崎は、黒い革製のケースに入った中型の双眼鏡を一つ、近くにある老婆が経営する質屋で購入してきた。その双眼鏡を握りしめて、毎日のように、矢崎は、街の界隈を彷徨い歩いた。そして、矢崎はやがて屋上なる存在に気づいたのである。その屋上からは、誰からも気づかれることもなく、他人の部屋の窓が見えて、そこから内部の様子を窺い知ることができた。彼にとっては格好の秘密の隠れ家となったのである。
その日の午後も、矢崎は、簡単な昼食をアパートの手狭な台所で済ませると、外出した。
そして、この頃からすでに矢崎に恐るべき猟奇犯罪の影が差してきていたのであるが、彼自身にそれを気づく暇もなかったのである。そして彼の猟奇な趣味が進行していく。
その日は、アパートの近くの児童公園の隣にあるコンビニの横の螺旋階段を昇ってみようと思った。階段の扉にある南京錠が壊れて外れていたからである。彼は、誰もこちらを見ていないことを良く確かめてから、門扉を潜り抜けて、注意深く鉄製の錆びた階段を昇っていった。やがてステップが終わって、そこそこに広い空き地のような屋上に出た。そこはかなり高度があった。隣に、ピンク色の壁をした一軒のマンションが建っていた。かなり古ぼけてはいたが、良く観察していると、2階の左から4番目の窓が開いている。矢崎は、持ち前の好奇心を剥き出しにして、双眼鏡を双眼に当てると、身を乗り出して、屋上の手摺から落ちんばかりの勢いで、覗き込むのであった。
その窓の中は、いたって地味であった。狭い洋間で、白い小さなベッドとピンク色の化粧台に、革の丸いスツール、あとは、テレビや冷蔵庫といった家電製品が並んでいる。たぶん、若い女性でもひとりで住んでいるのだろうと、矢崎は思った。と、思っていると案の定である。そこへ、部屋の主が帰宅してきた。
小柄でスレンダーな若い娘であった。娘は、帰宅すると、それまで着ていた黒い毛皮のコートを脱いで、ハンガーに懸けて壁に吊るし、軽いニットの白い上着姿になると、持っていた茶色のバッグをベッドに投げ捨てて、テレビのスイッチをいれた。テレビの画面がいつもと変わらぬようなニュース番組で、交通事故のニュース速報を放映していた。娘はそれに気を止めるでもなく、突然に窓から姿を消した。何だろう、と、矢崎が目を凝らして見ていると、やがて娘がまた現れた。しかし、今度は全身に真っ赤なバスローブを巻いてお風呂に入る準備をしていた。実にセクシーだ。矢崎は感じた。赤いバスローブから出た2本の白い太ももは肉感的で、魅了される。そのうえ、娘は良く覗き込むと、なかなかの器量よしである。美人なのだ。面長の顔立ちで、口もとに目立つ黒いホクロがあった。どこかの女優で似た人がいたな、と矢崎が思った。
娘は、やがて窓から姿を消して、それきりしばらく姿を見せなかった。矢崎は残念に思った。もう少し、彼女を見ていたい。そんな欲望が込み上げてくるのを彼自身、抑えられないのだ。しかし、現実は容赦ない。開かれた窓に彼女が姿を見せることは、しばらくないだろう、と、矢崎は悟って双眼鏡から離れて、頭の上の空を見上げた。
そろそろ、陽は暗くなろうとしていた。それで、矢崎も今日はここまでで諦めようと決心すると、再び錆びた階段を掛け下りていった‥‥‥。
その晩、矢崎は、彼にとっては珍しいことに、夕食を終えてから、早々に煎餅布団に潜り込むと、一人で自慰行為に耽っていた。先刻の娘が忘れられないのである。あの赤い唇と黒いホクロ。茶色にカールしたロングヘヤーが、どうしようもなく彼の脳裏から離れないのだ。彼の黒々とした生殖器からはいつの間にかドクドクと白い精液が溢れ出ていた。
次の日も、彼はお昼をトーストと茹で玉子、ブラックの珈琲で済ませると、家を後にした。例の屋上である。もしや、あの南京錠が誰かの手で掛かっていたら、と、思うと矢崎は気が気ではない。次第に足早になる。
しかし、その心配はなかった。いつの間にか、その門扉に掛けられていた南京錠はどこかに消えてなくなってしまっていたのである。彼はまた周囲に気を配ってから、慎重に階段を上がっていった。
今日は日曜日であった。休日である。そして、部屋の窓から見える光景に、あの娘がいた。娘は白いベッドに横たわっていた。無論、眠っているわけではなかった。そして、偶然とは恐ろしいものである。あたかも、矢崎の淫靡な心境を察したかとでも言うように、その娘もまた、ベッドの上でひとり、休日の自慰行為に耽っていたのである。娘は白いシーツの上で全裸になって淫らな姿勢を取り、大きく開いた股間の女性器に、何やら玩具を宛がって陶酔の表情を浮かべていた。時おり、嗚咽の声を漏らしている。思わずに、その様子を屋上から覗き込んでいた矢崎は興奮し出した。まさか、こんな光景に出会うとは矢崎も予想しなかったのである。いつの間にか、矢崎の股間は膨らんできた。そして、それが限界に達すると、ついに矢崎は屋上という人知れぬ場所であるためか、その場で自慰行為を始めたのである。これは、何と言う滑稽な光景だろうか?若い男女の二人が場所を同じくして、自慰に耽る。見ようによっては笑えるが、本人たちはいたって真面目である。
そして、矢崎は娘の自慰行為をボンヤリと眺めているうちに、やがて彼女と真剣に肉体関係を結びたいという切実な欲望に駆られ始めていた。それは、彼の内部で徐々に大きくなって、彼を支配し始めていた。やりたいのである。やってしまいたいのである。
矢崎は、ある計画を考えた。それには、幾日も幾日も掛けて練り直されていた。その結果として、まず、彼は、彼女のマンションを密かに訪ねることから始めたのである。
それは簡単だった。単に、何気なく、どこかの誰かの風を装って、マンションの扉を潜り抜けて、狭いロビーに入った。薄汚れたロビーだった。彼はロビーの隅に設けられた自販機の隣のエレベーターの扉のボタンを2階と押すと上がっていき、やがて暗い灰色の廊下を歩いて、目的の部屋まで辿り着くと、表札の小さなプラスチックのプレートを眺めた。
そこには、「河西淳子」と、綺麗な文字で書かれてある。
(淳子ちゃんか、可愛い名前だな)と、矢崎は思ったが、そうゆっくりもしていられない。誰かに見られたらマズいのだ。それで、矢崎は急いで足を運んで外へと逃げ出た。
次の計画は、少々、手間取った。
矢崎の自宅を移すのである。もちろん、目的は淳子である。淳子の住むマンションの向かいに住んで、徐々に彼女に接近しようというのである。これにはかなり、彼にも骨が折れた。自宅のアパートから、家財道具を一式、引っ越し業者に依頼して、例の淳子のマンションの向かいにある雑居ビルの2階に搬入してもらったのだ。この部屋ならば、ちょうど裏側の窓から、例の窓が真正面になる。具合がよろしい。矢崎は、搬入してもらった購入したての簡易ベッドの上に寝転がって、裏窓から例の淳子の部屋の窓を見た。
今日は、白いレースのカーテンが掛かっていて中が見えない。矢崎は辛い思いであった。それで、仕方なく矢崎はズボンのポケットから彼のスマホを取り出すと、写真のアプリを開いて、そこに写った淳子の淫らなワイセツ画像を餌にして、ひとり淫らな行為で自己を満たすのであった。それしか、仕方ないのである。
そして、ついに矢崎は、最後の計画に移った。その為には、やや準備が必要であった。矢崎はある日、知人で薬局に勤務する男である山城を訪ねて、内密で、最近、不眠症で困っていると相談を持ちかけたのである。すると、山城は親友である矢崎になんの疑いもなく、内緒で処方薬であり、強力な麻酔導入剤であるフルニトラゼパムを多量に処方した。それを喜んで雑居ビルの2階の自室に持ち帰った矢崎は早速、準備に取りかかった。処方された薬の錠剤をまず、鑢で粉末状にして、粉にしたフルニトラゼパムを小さなビニールの袋にいれておいた。そして、それを自室の蛇口からでる水道水で溶かして、水溶液にして、用意しておいた注射器で、昨日の夕方に近所の八百屋で買っておいた5個のミカンの中身にプツリと注射しておいた。これを喰えば、コロリと昏睡してしまうという塩梅だ。あとは、いかにこのミカンを淳子に食べさせるのかが残る。
しかし、案外、その偶然は早くやってきた。それは、その翌日のことであった。
その昼、矢崎は、コンビニの唐揚げ弁当と缶コーヒーを買って、自室へ戻る最中であった。彼の頭の中はミカンのことで一杯で、良く周囲を観察していなかったのである。気を付けていなかった。それで、彼の前から来た人間にぶつかってしまって、手にした開いた缶コーヒーの中身をぶちまけてしまった訳である。
「あっ、これは、どうもごめんなさい!」
と、つい言葉を出して、相手の顔を見た。そして、矢崎は心底、驚愕した。それは淳子、その人だったのである。淳子は、自分の白いワンピースが珈琲で汚れてしまったにも関わらずに、爽やかな笑顔で、
「いいんです。それより、お怪我ありませんですか?大丈夫ですか?」
と、よろける矢崎の身体を必死に支えてくれて、助け起こしてくれたのである。
「でも、あなたのドレスがー」
「これならいいんです。洗えば済むことでしょうからね、気になさらないでくださいね!」
と、さっさと、小走りに自分のマンションの方角へと去っていったのである。
驚いた。まさか、こんな形で淳子と出会えるなんて偶然とは不思議なものだと矢崎は思った。しかし、である。ここで、矢崎の狡猾な頭は鋭敏に働いていた。これで、どうやら、淳子のところへ赴いて謝意を込めて、ミカンを差し出す理由が出来たというものである。これは、運がいい。実にいい。
それで、さっそく矢崎は、ビルの自室で急いで掻き込むように昼食の唐揚げを飲み込むと、ミカンを入れたレジ袋を片手に、一路、淳子の自宅の扉を叩いた。
「はーい。今、参ります!」
と、明るい声がして、しばらくすると、扉の内側から鍵を開ける音がして、中から、淳子があどけない顔つきで出てきたが、矢崎を見てとても驚いた表情になった。
「あら、さっきのかたね。でも、このうち、どうしてご存じなの?」
「ははは、実はね。悪いとは分かりながらも、一言、謝りたくて君のあとをつけてきたんだよ。本当に悪かった」
「珈琲のことなら、いいのよ。もうすんだことだし。そうね、よかったら、休んでいく?」
「いや、それじゃ、あまりにも僕が、厚かましいよ。本当にさっきは悪かったよ。ごめんなさい。これ、お詫びの代わりにどうぞ!」
と、勢い良くミカンの袋を、淳子の鼻先に差し出した。淳子は、チラリと中身を覗き込んで、
「悪いわね。本当にありがとう。遠慮なく頂いておくわ、ありがとうね」
そう言うと、何度も淳子は部屋へ上がるように矢崎に執拗に勧めたが、矢崎は巧みに断ると、その場を後にした。
帰り道で、矢崎は我知らず、鼻唄を歌っていた。気分がいいのだろう。そして、自室に戻ると、慌てるかのように、双眼鏡を手にして、裏窓に寄せたベッドに寝転がって、向かいの窓を覗き込んだ。不思議なことに、今まで一度も、淳子は窓から除かれていることに気づいていないらしい。
今も、テレビの前においたテーブルで、矢﨑から貰ったミカンを早速、食べにかかっているようだった。
そして、4個目のミカンに白い腕を伸ばした頃であろうか、徐々に淳子の目蓋が重くなってきているのが、双眼鏡の中から見えた。
「そろそろだな‥‥‥‥‥‥‥」
やがて、淳子はこんこんと眠り始めた。淳子は、テーブルに突っ伏して、よだれを垂れ流していた。眠った。
それを見定めて、矢崎は行動を起こした。慎重に自室を後にすると、冷たいリノリウムの廊下を歩いてから階段をゆっくりとした足取りで降りると、外に出た。いつもと変わらぬ昼下がりである。表の歩道には、買い物に行く奥さん連中が闊歩している。子供たちも黒いランドセルを背負って走っていく。何も変わっていない。
ピンクのマンションの扉を抜ける時には少々狼狽した。誰かに目撃されはしないかという可能性である。大丈夫であった。
エレベーターで2階に降りて、またもや先刻の暗い廊下を忍びわたる。危ない、危ない。
そして、淳子の部屋の扉まで来た瞬間に、矢崎はとんでもない事実に気づいた。鍵である。淳子は、内側から部屋の鍵を掛けていた。それならば、この話はおじゃんである。部屋に忍び込めないのだから、仕方がない。そう、諦めつつ、矢崎が力なく扉のノブを回すと、呆気なく扉は外側に開いた。
鍵は掛かっていなかった。それで気を良くした矢崎は、静かに、淳子の部屋へ侵入した。
小さな部屋が二つあった。台所と、さっきの居間である。何も知らぬ純情な淳子は、昏昏と眠っている。テーブルに座る淳子の後ろ姿は色気があって、男心を奮い立たせた。このままなら、数時間は眠り込んでいるだろう。その間は、俺の好きに出来るぞ、と矢崎は考えてから、ゆっくりと淳子の身体に近づいた。そして、矢崎は、息を殺して、ゆっくりと淳子の衣服を脱がせに掛かった。差ほど時間も掛からずに、淳子は、真っ白な身体になった。茶色のカーペットの上で大の字になって生まれたままの姿になっている。茶髪が乱れて、肩の曲線に掛かっている。セクシーだった。
その時である。淳子の裸体をボンヤリと眺めていた矢崎に、突如、殺人衝動が芽生えてきたのだ。「殺れ、殺れ」と、誰かが耳許で囁いているような気がしてならない。不思議な感覚であった。
やがて、矢崎は、淳子の豊満な丸い乳房を掴んでみた。やわらかい。さらに矢崎は、淳子の両足をぐいと広げて、股間の女性器に顔を近づけてみた。何やらチーズのような臭い匂いがプンと鼻を刺した。
「こんなもの、雌ブタさ、殺ってしまえよ!殺れよ!」
その声がした瞬間に、矢崎の両手はすでに淳子の白くて細い首に掛かっていた。グイグイと締め上げていく。もう、矢崎自身、自分でも訳が分からなかった。ただ、ちからを込めて締め上げていく。そして、そうしていると、突如、淳子の瞳がパックリと開いた。そして、驚きと怒りの混ざったような眼差しで矢崎を見ていた。そう、この瞬間、加害者と被害者の視線がピタリと合ったのである。淳子は、まだ息をしていたのだ。それで矢崎は、さらに満身の力を込めて淳子を絞殺していくのであった。やがて静かに時が過ぎて、突然に淳子の身体がぶらんと重くなって床に落ちた。絶命したのだ。それが矢崎の確信であった。淳子は死んだ。
「僕の可愛いお人形さんの淳子ちゃんだね」
と、矢崎は、淳子の生暖かい身体を抱き上げて鼻唄を歌った。そして、矢崎自らも全裸になった。二人の夢の舞台が始まったのだ。人はそれを「死姦趣味」と呼ぶ。動かない淳子の肢体で、SEXに及んだ訳である。そして、事を終えると、矢崎は放心の心境で、しばらくその場に呆けていた。
全ては終わったのだ。あの日、コンビニの横で螺旋階段を始めて昇った日。それからの日々。全てが済んでしまって、今、小さな骸が彼の前で横たわっている。
「今夜の晩飯、何を喰おうかな?」
しかし、矢崎はすでに頭で、そんなことを考えていたのであった。
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