朝がくるまで (ラブレター・ヘルマン・ヘッセへ)
花ケモノ
朝がくるまで(ラブレター・ヘルマン・ヘッセへ)
青白い月光の下を、キャラバンは行く。
孤独のなりをした一人の旅人が居た。
水筒を乾いた唇にあてがい、傾けて、潤うはずなど無い少量の水分で己を満たしながら、旅人はそれとなく見ていた。キャラバンが立てる、わずかな砂煙を。
最後尾に付いて歩く。砂漠の人達は、砂粒の楼閣と生命を共にしていた。清貧を求めず、欲得を美徳に定めても、旅人がかつて欲するままに手にしていたものは、何も無い。時に、一椀の水すら手に入りかねる。
生死を別かつのが、たった一椀の水とは。
厳かで、崇高な理想だけを胸に抱き、かつて幼子の様に経に抱かれた旅人は、老いてみれば易からん。と悪魔のささやきに耳を借した。
踊れ。 朝がくるまで。
一夜の友は易く、優しかった。酒と色の陶酔は、すてきな麻酔を旅人に与えてくれた。
扱いに長けた若い情婦の床の中で、旅人は王さまになった。
葡萄酒の気泡の一粒に、自分の人生をなぞらえ、皆口々にこう唱えた。
うたかたの時に
こよい集い
踊り明かそう
夜明けまで
遊戯のただなかにさえ、わずかにも暖かな友情があり、時には情けさえあった。
浮世の卑しさの下で、懸命に生きる若い人を見た時、旅人は思った。
彼の心の安らかであることを。
彼女の肉体の健やかであることを、祈った。
己はかつて神より恩恵を受けし一人の親から産まれた。我らはそのようにして、皆神のみどり児である。
病害、貧困、そして母なる自然の淘汰に巻き込まれれば成す術は無い。
神は何故我々に生命を与えながら、
飢えをしのごうにも世間は卑しく、飢えれば本性が暴かれる。病苦の合間にさすひかりは安楽なれど時としてそれは死だ。我が子臨終の床に、今度は何を胸に抱けと母親にさとし、論じろと言うのか。
しかし俺は神を愛す。人を愛す。この世の、一切の善き心を。
旅人は産まれて初めて祈りを知った。
娑婆を己の煉獄と定め、旅人は身を投じた。
砂漠の夜は冷たい。一切無明の闇の中に、星は満天と輝き、細い三日月は白々と青く、一層景色を寒くしている。
キャラバンの先頭を行く、若い族長が言っていた。
冷血な月は夜の闇を裂く、獣の爪痕だと。
自分はかつて、あの爪痕の主の断末魔をさえ耳にした。
族長ともなれば些細なことでは揺るぎ無いもので、彼は今殺められんと悶え苦しむ獣声をさえ揺り篭枕にして眠るのだ。
砂漠の人は時として殺りくを厭わない。旅人がかつて慕い住んだ生まれ故郷も、大昔には大地に人の血肉を吸わせていた。
砂漠の人は一椀の水の為に人を殺し、旅人の一代か、二代前の故郷の人は国の定めに従って人を殺した。
ひときわ強い風が吹いて、砂の山が自ら一皮剥くように薄皮を下方へ大きく流した。
旅人は傾けて居た水筒を外套のベルトに差すと再びキャラバンの最後尾を目指して歩き出した。
砂漠の旅は止まらない。朝がくるまで。
あとがき
ヘッセの事を書きたかったのでも何でも無く、ただ私は、ヘッセの文章を読んでこれを言いたくなった。
朝がくるまで (ラブレター・ヘルマン・ヘッセへ) 花ケモノ @hanakemono
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