岩間の公約
藤柿
鯖のグリーンカレー煮
生徒会室は暗い。全体的に薄汚れている。端の方に斑点のある蛍光灯、至る所でペンキがこびり付いたリノリウムの床、フレームの錆びたパイプ椅子。窓からの光も野球部のネットや何らかの電線といった雑多なものを通してやっとそこの机へやって来る。もっとも皆、手元の書類を見るかパソコンを見るか、もしくは自分のスマホを見るので誰にも関係ないが。
部屋の真ん中の使い古した机の上は、紙とパソコンで埋まっている。それを囲むようにして三年生が座るので、我々下級生の机はない。いつの間にか定まった自分のパイプ椅子に座って、毎週火曜は定例会が始まるのを待ち、それから終わるのを待つ。
「総会の表紙なんですが、僕のクラスの藤垣さんに描いてもらえました」
そう言って原田はクリアファイルに入ったモノクロの絵を見せる。今まで表紙を担当していた副会長の山口先輩は「簡潔だけど写実的だね」と感想を言った。隣の勢谷さんも、そっと「写真みたい」と言う。校舎の側面が細い線で描かれた絵だ。並んだ教室の窓には、生徒や先生のシルエットが浮かんでいて、人物のディテールを描き込んでいないのに楽しげな学園風景が見える気がする。ただ、俺にとっては絵よりも作者の方の印象が余りにも強いのでそちらを考えてしまう。
藤垣さん、つまり一年F組の藤垣煕衣。俺や原田と同じクラスで、俺と同じ学級委員をやっている。いつもセーラー服を着て登校してくるし、それだけ見れば似合っているので恐らく女子だが、あれは辞書にないタイプの女子だ。特に俺の辞書に。好みの人が視界に入り、そうでない人は全く視界に入らないといった単純な公式で成り立っていた俺の人間関係に例外が発生してしまったのは、高校入学の次の日のことだ。
自己紹介の「入試の小説の問題、特にあの『鯖のグリーンカレー煮』とか読んでて笑っちゃいましたよー」ってのも大分衝撃的だが、それくらいはありふれた変人のやることかも知れない。いきなり全員の前でこんなことを言うんだから、クラスに一人は居る協調性のないやつなんだろうと思ったが、そうではなかった。真っ先に学級委員に志願したかと思えば、次の時間に一人でクラス全員分の役割決めを終えてしまった。台本も、先生の指示も無いのに人数と男女の割り振りから勝手に優先順位を決め、さっき貰ったばかりの新入生歓迎会資料と勘で全ての委員会・係の活動内容を説明した。最後にミスがないか全員の名前を読み上げて確認することも忘れずに、だ。
正直言って、苦手だ。どういう頭をしてるのかわからない。だが、役割上喋る機会は多いし、一学期の後半は席が近かったこともあって割と深い関係にある。夏休み中、いきなり部活を訪ねても、担当でもない文化祭のクラスの装飾を手伝ってくれたりするので、いい人だとも思う。それから、勉強も出来る。定期考査の合計点では勝ったことがない。しかし何か、今までにないようにして視界に入ってくる。だから苦手だ。
定例会が終わってすぐ、俺と原田は会計主任の平森先輩に呼び出された。用件は一つしか無い。明後日に立候補を締め切る生徒会役員選挙についてだ。平森先輩は我々の顔を見るなり話し始める。
「確かに岩間、君の方が仕事の覚えはいいし、毎回定例会にもちゃんと出席してる」
「出馬理由はともかく、君に副会長をやるだけの能力があるのも認めようと思う」
そこまで聞いて俺は、「ありがとうございます」と頭を下げる。平森先輩は続けて、
「それでもともと岩間に頼もうと思ってた次期会計主任は原田がやってくれるんだね?」
原田がそれに応じてから、立候補届に三人で署名し職員室に提出した。立候補者氏名には当然俺、岩間俊二の名前が入り、推薦人氏名には平森先輩と原田の名前が入る。これから二週間後の立会演説会と全校投票までの細かい日程を確認した後、我々は各々の雑務に戻った。
受験勉強のある三年生が早々に帰り、二人しか居ない二年生も肩身が狭いのか割と早く帰った。この日、一年生の中でも最後まで残ったのは原田と勢谷さんと俺で、原田は自転車で帰り、俺は最寄りの桃富駅から同じ方向の電車で帰る勢谷さんと学校を出た。
一年生の中で、俺はもっとも遅く生徒会に入った。うちの学校、県立桃富高校では副会長以下の生徒会庶務と会計は選挙を経ずに自由に執行部に入部出来る。一週間でバスケットボール部を退部し、他の一年生と一ヶ月以上遅れて入った俺は、夏休み辺りまでにやっと打ち解けられた。
勢谷さんは信号を待つ間、俺に訊いてきた。
「岩間くんってさ、結局副会長になるの?」
「さっき、平森先輩と原田と立候補してきた」
勢谷さんは、「梅野くんも出るの?」と続けてくる。
当たり前だ。何せ、俺がわざわざ平森先輩に任された会計主任を断ってまで副会長に立候補したのは、他でもない梅野が立候補したからだ。
「出るんじゃない? 先週の定例会辺りからずっと言ってるんだから」
とりあえず俺はそう返しておく。
すると勢谷さんは思いもしなかったことを訊いてきた。
「じゃあ、信任投票じゃなくなる訳だから演説で何言うか大事になるじゃん」
演説か・・・・・・。公約は一応考えてはいるが、競う相手が居なければありきたりなことを言って尺を埋めるだけの作業で、それに少し自分の考えを含ませればいい。それだって全校生徒の前でやるにはつらいものがあるんだが。
まあ、文章関係は文系の原田に聞けばいい。同じクラスだから話す機会は幾らでもあるし。
勢谷さんは、そんなことを思う俺をおいて更に重ねてきた。
「公約は演説会までに考えれば良いとしても、選挙ポスターとかは立候補してすぐ提出しなきゃいけないんじゃなかった?」
選挙ポスター? まあ、そりゃあ言われてみれば確かに中学の生徒会選挙にだってそういうものはあった。詳しい内容は覚えていないが、なんかカラフルな挿絵と、箇条書きの公約と、それから自分の似顔絵みたいなものが載せてあった気がする。
はて、どうしたものか。図工だとか美術の類いは全く出来ないので、代わりに描いてくれそうな人を頭の中の名刺入れで検索する。大袈裟に言わなくたって思い当たる節は限られてくるが、同じクラスでかつ同じ生徒会の河本は絵が描けると聞いたことがある。ただ、美少女専門らしいし、気軽に頼める間柄かと言われると一ヶ月の差が立ちはだかる。それに、河本は梅野とも分け隔てなく話す中立的立ち位置なので何かとやりづらいところもあるかもしれない。
そうして、また頭にもたげてくるのだ、藤垣さんが。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます