不倫の疑惑
まにゅあ
第1話
夜の電車は空いていた。
同じ車両には十人ほどの乗客がいた。舟を漕いでいる人が大半だったが、俺の向かいのロングシートに座る男は違っていた。
歳は三十代前半くらい。上下ともに黒の服を身に着け、長い脚を組み、カバーのかかった文庫本に目を落としている。端正な顔立ちで、モデル雑誌の表紙になっても不思議ではないほど、読書する姿はサマになっていた。
電車がガタン、ゴトンと音を立てて走る。半開の車窓から秋の夜風が吹き込んでくる。
向かいの男がやおら顔を上げた。視線が交わる。男の瞳は驚くほど透き通っていた。けれど、深くて底が見えない湖のように、どこか得体が知れなかった。
電車が速度を落として、自宅の最寄り駅に停車する。俺は腰を浮かせて席を立った。向かいの男も席を立つ。同じ駅で降りるようだ。
「ん?」
先ほどまで男が座っていた席に、スマホが置き忘れてあることに気づく。
「スマホ、忘れてますよ」
声をかけるが、彼は気づかずに電車を降りてしまった。
ちっ、面倒な。
俺は急いでスマホを拾って、閉まる電車の扉に体を滑り込ませた。
危険な降車はおやめください――車掌のアナウンスがホームに響く。
うるせえよ、こっちは他人のためにスマホ拾ってやったんだよ。
俺は胸の内で車掌に中指を立てながら、降り立ったホームで息を整えた。
顔を上げると、先ほどの男の背中が改札の手前に見えた。歩調はゆっくりだ。走れば十分に追いつける。
後を追おうとしたところで、握りしめていた男のスマホの画面が目に入った。ロック画面が表示されている。先ほどスマホを手に取ったときに、スリープモードが解除されたのだろう。
何気なくロック画面の壁紙に目をやった。
束の間、頭が真っ白になった。
壁紙は一枚の写真だった。先ほどの男と一人の女性のツーショット写真である。
だが、その女性というのが問題だった。
「どうして、
写真に写っていたのは、俺の妻だった。
流れるような黒髪に、西洋人にも劣らぬ高い鼻、目元にある特徴的な泣き黒子。
見間違うはずもない。どこからどう見ても、彼女だった。
写真の冴子は、満面の笑みを浮かべている。彼女の笑顔を見たのはいつぶりだろうか。結婚した当初はよく笑っていた冴子も、いつからかすっかり笑わなくなった。今年で結婚三年目。冴子も結婚生活に不満を感じ始めているのだろう。
不倫、という言葉が脳裏をよぎる。
写真の背景はぼやけているが、どこかの公園だろうか。光の具合から日中に撮影したらしい。俺が汗水流して働いている間に、冴子は他の男とお楽しみ中だったってわけか。怒りが沸々と湧いてくる。
画面から顔を上げれば、男は改札を出ようとしているところだった。
俺は足音をできるだけ立てないように気をつけながら、人通りの少ないホームを走った。改札を出て、左右に目をやる。街灯の下を歩く男の背中が見えた。極力気配を消しながら男の後を追った。今は少しでも男の情報が欲しかった。
けれど、尾行はうまくいかなかった。
男はホームを出て五分としないうちに背後を振り返り、俺のほうへと近づいてきたのだ。
俺は足を止め、警戒しつつ男の出方を窺った。
「ありがとうございます」
目の前にやってきた男は開口一番にそう言った。落ち着き払った渋い声だった。
尾行していたことを咎められると思っていただけに、男の言葉は予想外だった。
「それ、届けにきてくれたのですよね?」
男は俺の右手にあるスマホを指差す。
「……あ、ああ」
尾行に夢中で、拾ったスマホのことをすっかり忘れていた。
男にスマホを返す。
「ありがとうございました。それでは失礼します」
一礼して去ろうとする男の背に「あの!」と声をかけた。
「何でしょう?」
男が振り返った。静かな眼差しを浮かべている。
内心を見透かされているような気分になり、俺は一瞬気圧されたが、
「名前を訊いても?」
男について何か一つでも情報を得たかった。咄嗟に頭に浮かんだ質問がそれだった。
男は俺の目をじっと見てから言った。
「
「……
霧島は一つ頷くと、再び前を向いて、暗い夜道へと姿を消した。
帰宅すると、居間で冴子がテレビを観ていた。美肌のつくり方をテーマにした美容番組で、冴子が男受けを狙っているのは明らかだった。以前はお笑い番組ばかり観ていて、美容番組など一切興味を示していなかったのに。
冴子は頭にバスタオルを巻いてソファに座っていた。風呂上がりなのだろう。
入浴したばかりにもかかわらず、冴子から誘惑するような甘い香水の匂いが漂ってきた。一日中フェロモンを発しないと生きていけないのか、こいつは。結婚した当初はそんなことなかったのに、とんだビッチになってしまった。
「今日も遅かったわね」
冴子が顔だけで振り返る。
時刻は二十三時を過ぎていた。
俺は冴子と目を合わさずにスーツのネクタイを緩めながら、
「仕事が忙しかったんだ」
俺の返事に、冴子が不満げに鼻を鳴らした。
「最近そればっかりじゃない」
「仕方がないだろ。仕事なんだ。家でごろごろしているお前とは……」
そこまで言ったところで、霧島のことを思い出した。昼間に撮られたツーショット写真。冴子は俺が家にいない間、外に出掛けて楽しい時間を過ごしているのだ。誰のおかげで生活できていると思っているんだ。
「冴子、家のことはちゃんとしてるんだろうな?」
「何よ、急に」
「いいから答えろ!」
冴子は主婦だった。外で仕事をしていない。
「言われなくてもしてるわよ。家事ってあなたが思っているよりもよほど大変なのよ」
男と遊びに出かけているくせに、何が大変だ。反吐が出る。
「俺は風呂に入ったら寝る。お前もさっさと寝ろ」
寝室は一年前から別々だ。
俺は妻の返事を聞くことなく、居間を後にした。
居間の扉を音が鳴るほどに強く閉めるのも忘れなかった。
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