第17話 間接キスと恋心

 呆然自失としている俺を余所に、澪は同じフォークで引き続きモンブランを食べ始めた。

「フルーツタルトも美味しかったけど、やっぱり私はモンブランの方が好きかも」

 にこにこと美味しそうにモンブランを食べ進めていく澪。俺が口を付けたフォークを何とも思っていないのか、澪はモンブランを食べ終えると、そのフォークに付いたクリームすら綺麗に舐めとった。

「ごちそーさま!」

 何だか頭がくらくらしてきた。何故そうも平然と他人と食べ物をシェアできるのだろうか。嫌だとか汚いだとか、全く思わないのだろうか。

「涼?大丈夫?」

 さっきまで傍若無人っぷりを披露していた澪だが、急に眉を下げると心配そうに俺の顔を覗き込んできた。

「え?何?」

「もし気持ち悪かったり、口ゆすぎたかったら洗面台トイレの横にあるから」

「え…?」

「嫌でしょ?人と同じフォークを使うの。涼のフォークは私が使っちゃったから、新しいの持ってくるよ」

 そこで馬鹿な俺はようやく気が付いた。そうか。「潔癖症さよなら大作戦」リストの六つめ、


・飲み物や食べ物を人とシェアする


を、澪は実行したのだ。かなり強引だった気もするが…。

 そして俺はそれを、少しの抵抗感はあれど受け入れてしまった。

「あ、れ…?」

 自分には無理だと思っていたことが、また一つすんなりとうまくいってしまった。何故だ?今まで絶対にできなかったことが、どうしてこうもすんなりうまくいくんだ?

 俺の戸惑いに気が付いた澪が、ぽつりと呟く。

「あれ?涼、もしかして嫌じゃなかった?」

「えっ、いや、なんと言うか…」

「そうなんだぁ…」

 澪は目を細めると、零れんばかりの笑顔を見せた。

「涼、私との間接キス、嫌じゃないんだぁー」

「か!?間接キス!?!?」

「間接キスでしょ?私が口を付けたフォークを使ったんだから」

「ぐ…っ」

 間接キス……に入るのか、これは……。

「間接キスよりもっとすごいことかもしれないけど。お互いの唾液交換しちゃったわけだし」

「なっ!?だっ!?!?」

 澪の口から飛び出した言葉に、俺はますますパニックに陥る。

「ねえ、…このまま本当にキスしちゃう?」

 耳元でそんなことを言われて、俺の心臓は大きく跳ねた。

「しちゃってもいいんじゃないかな、って思ったんだけど。キスも間接キスも同じでしょ?」

「同じな訳ないだろ!!」

 何を言ってるんだこいつは!?澪だって本当に俺とキスしたいわけじゃないだろう。なのに何故こんな冗談を言うのだろうか。男心を弄んでいるのか?

 澪の突飛すぎる言動に、今日は振り回されっぱなしだ。

「なあんて冗談冗談!」と言って笑う澪は、やっぱりいつもの澪だった。

 くっそ一体なんなんだ!?

 俺が頭を抱えていると、「よし!今日も大成功!」と言いながら、澪は克服リストに斜線を引いた。


・友達の家に行く/友達を家に上げる  →一旦成功!そのうち涼の部屋に行く!

・飲み物や食べ物を人とシェアする → 大成功!!!



 それからはいつも通り。ケーキを食べ終わった俺達は、ゲームをして過ごした。

 当然のことながらゲームに集中なんかできなくて、対戦ゲームは俺の全敗だった。いつもだったら俺の方が強いのに。

 澪に「潔癖症」の克服を手伝ってもらい始めてから、何だか澪の様子がおかしいような気がする。澪は冗談でもキスしようなんて言うやつじゃなかったし、俺の心を揺さぶるようなことは全然言ってこなかった。そもそも俺が精神的ストレスから「潔癖症」になってしまったから、もしかしたら言動にはいつも配慮していてくれたのかもしれない。

 それにしたって最近おかしいのは澪だけじゃない。

 俺自身も何かおかしいと、薄々感じていた。

 そう思ったのは、ブレザーを澪に貸した時からだ。

 俺は澪を抱きしめたい、触れたいと思った。何故そのような感情が生まれてしまったのか全く分からない。他人に触れたいだなんて、生まれてこの方一度も思ったことがない。幼なじみにまで手を出したくなるほど、欲求不満なのだろうかと地味にショックも受けた。しかし考えても考えてもはっきりとした答えは出なかった。

 「潔癖症」がうまく克服の方向に向かっているのかもしれない。しかし触れたいと思ったのは澪だけで、当然他の人に触れたいなどと思う訳もなかった。美人でスタイルのいい椿姫さんにさえ、俺は触れたいとは思っていない。そもそも友人に触れたいなどと思うものなのだろうか。それすらも分からない。何故、澪だけなのだろう?

「澪、俺、そろそろ…」

「え?あ、もう帰る?」

 今日もそうだが、何だか最近澪と二人きりはよくない気がしている。なんかそんな気がする、には従っておいた方がいいというのが俺の見解だ。第六感が働いている可能性もあるしな。

「悪いな、澪」

「あ、ううん!私が急に呼んじゃったんだし、今日も克服リスト頑張ったんだから、ゆっくり休んでね」

「ん。ありがとな」

 俺は澪の部屋を出ようと、ドアに手を掛ける。

「みお…」

 彼女に声を掛けようと振り返ると、見送りに来てくれようとしたのか澪が真後ろに立っていた。俺にぶつかりそうになった澪は、俺に触れることのないよう慌てて一歩後ろに下がった。瞬間、足を滑らせる。後ろにはケーキのお皿やお茶の乗ったローテーブル。

「きゃっ…」

「っっ!!!」

 身体が勝手に動いていた。澪の頭を抱えるように、俺はそのまま倒れ込む。

「いってぇ…」

 床に打ち付けた膝がじんじんと痛んだ。はっとして澪の安否を確認する。

「澪、大丈夫か!?」

「んっ…だいじょうぶ…」

 俺の腕の下で、澪が身じろぎをする。

 ほっとしたのも束の間、お互いの視線があまりに近いところで絡み合い、ようやく自分の状況を把握した。

 澪は俺に押し倒されたようになっていて、俺はその澪に覆い被さっていた。

 慌ててその場を離れようとした俺は、下にいる澪の表情を見て、動けなくなってしまった。

 澪は驚いたような表情のまま、頬を上気させ、目を潤ませていた。仰向けになっていても分かる膨らんだ胸が大きく上下する。さっき隣に座っている時にも感じた、あの桃のような香りがまた俺の鼻腔をくすぐった。

 その瞬間、何も考えられなくなった。このまま澪を抱きしめてしまいたい衝動が、俺を大きく襲った。

 心臓が走った後のようにどくどくとうるさい。身体中が熱を持って暑く感じる。

 柔らかそうな澪の四肢や、胸、その艶やかな唇に触れてみたい。

「りょお……」

 潤んだ瞳で見つめられて、俺は衝動からの逃げ道を失った。

 触れたい、撫でたい、もっと近くで感じたい。

 澪に、触りたい。

 経験したことのない衝動が、俺を突き動かす。

 その時だけは、「潔癖症」のことなんて考えられなくて、彼女が嫌がるのではないかなんてことすら、考えられなくなっていた。

「澪……」

 俺と澪の唇が重なる……その寸前、


 ピリリリリリリリリリ!!!!!


「「!!!?!?!」」

 部屋中に大きな電子音が鳴り響いた。音の出所は俺のズボンのケツポケットに入れていたスマホだった。普段はほとんど鳴ることのないスマホが、珍しく着信を告げていた。

 はっと我に返った俺は澪の上から退くと、スマホを落としそうになりながらも慌てて電話に出た。

「も!もしもし!?」

『おー、涼?』

 電話の主は皐月だった。

『明日部活休みだからさー、一緒にゲームしね?狩りに行きたいマップあるんだよなー、素材集めの周回もしたいし!強化したい武器めっちゃあってさ』

 のんびりとした皐月の声が耳に届くと、俺は一気に冷静さを取り戻した。

「あ、ああ!いいぞ」

『さんきゅー!じゃ、よろしく!』

 そう言ってさっさと電話を切ろうとした皐月に、のそりと起き上がった澪の声が重なる。

「皐月くん……」

『ひっ!』

 電話から漏れた声や、会話の内容から相手が皐月だとすぐにわかったのだろう。

 澪は電話の向こうに向かって話し掛ける。澪の何故か怒気をはらんだ声色に皐月が情けない声を出す。

 俺は通話をそっとスピーカーに切り替えた。

『りょ、涼、澪と一緒にいたのかよ…は、早く言ってくれよなぁ…それじゃあ俺はこれで…』

「待って」

 再び電話を切ろうとした皐月に、澪はそうはさせないと鬼気迫る低音で呼び止める。

『な、なんだよ、澪』

 何故かめちゃめちゃに怒っている澪に、電話の向こうの皐月はたじたじである。

「皐月くんのっ、ばあああああかっっ!!!!!」

 そう俺のスマホに精一杯叫んだ澪は、勝手に通話を切った。

 耳元で大声を出されたであろう皐月の安否が心配なところではあるが、澪がこんなに怒ったところを見たことがなかった俺は、皐月同様ビビり散らかしていた。

 や、やっぱり喧嘩していたのだろうか…。ここのところ澪は様子がおかしかったし。それとも先程の一件で、俺が怒らせてしまったのだろうか。いや絶対そうに違いない。

「涼」

 ヒヤリと呼び止められて、俺はシャキッと背筋を伸ばした。

「はい!」

 どんな罵声と拒絶の言葉が飛んでくるのかと身構えていたのだが、澪はいつもの優しい声色に戻ってこう言った。

「さっきは、…その、…ありがと」

「へ?」

「私が足滑らせちゃったから…。涼、膝痛くなかった?」

「お、俺は大丈夫」

「そっか」

 先程の体勢を思い出してしまった俺は、自分の顔に熱が集まっていくのを感じた。

 くっそ!何してんださっきの俺!最悪だ…。自分をコントロールできないなんて、その辺の強姦と一緒じゃないか。怖い思いをさせたのではないか。嫌な気持ちにさせたのではないかと、罪悪感が次々と湧いてくる。

「澪、さっきはごめ、…」

 そう謝ろうと澪の顔を見ると、澪は信じられないくらいに真っ赤になっていた。りんご…いやゆでだこ…高熱でもあるんじゃないかというくらいに顔を真っ赤にしている。

「み、澪?大丈夫か?」

「だ!大丈夫だよ!?私はなんともないし!?」

 いや、転んだ怪我とかではなく、顔が尋常じゃないくらいに真っ赤なんだが。

「じゃ、じゃあまたね!涼。ごめん、今日はここでお見送りにするね!」

 澪は恥ずかしそうに自分の顔を手で覆い隠しながらそう言った。

「あ、お、おう。それじゃあ、また…」

「う、うん!また…」


 俺は自分家の玄関に入ると、服が汚れることも厭わずそのままその場にしゃがみ込んだ。

「なんだよ、これ…」

 なんだかやたらと心臓はうるさいし、落ち着かない。

 俺に押し倒されていた時の澪の表情。それが網膜に焼き付いて離れない。

 驚いたような、照れたような、それでいて何かを期待しているような目。上気した頬に、少し荒い呼吸。甘い桃の香り。別れ際に見せた真っ赤な顔。そのどれもが愛おしいと感じる。

 可愛い、愛しい、抱きしめたい、触れたい、大切にしたい。でも壊したい。

 あの時湧いてきた感情が、また俺の脳内を支配する。

 澪は小さい頃から一緒にいてくれた友人だ。優しくて明るくて、「潔癖症」に悩んでいる俺に、わざわざ協力してくれるようなものすごいお人好しだ。澪と一緒にいると楽しいし、気が楽で、落ち着く。

 でもきっとこれは。

 こんな感情、友人に抱いていいものではない。そんなこと、馬鹿な俺にだってわかる。この感情は友人の域を出てしまった。名前を付けるのは容易いものだった。


「俺、澪のこと好きだったのか…」


 何十年も一緒にいて、今更そんなことに気が付くなんて、俺は相当鈍い人間だ。



 大切な友人が一人減ってしまった。

 その大切な友人は、片想い相手の幼なじみの女の子、に肩書が変わってしまったのだ。

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