第11話 迷案
トイレから教室に戻ると、当然澪はいなかった。俺が先に帰っていてくれと言ったから、素直に先に教室を出たのだろう。
ズボンに入れていたスマホを確認すると、澪からメッセージが届いていた。
【無理させちゃったかな…やっぱり除菌しないと難しかった?】
言葉の後に、たぬきのキャラクターのしょんぼりとしたスタンプが押されていた。
俺はそのメッセージに、大丈夫だよ、と返信する。
【せっかく手伝ってくれたのに、礼も言わないで悪かった。本当に、急にトイレに行きたくなっただけで、除菌したい衝動に駆られたわけじゃ決してない】
そうメッセージを送って、俺は自分の座席まで戻ってくる。
先程まで澪が着ていた俺のブレザーが、俺の椅子に掛けてあった。
それを俺は羽織り、腕を通す。ふんわりと甘い香りがした。よくハンドクリームかなんかでもあるような苺みたいな、さくらんぼみたいな甘い匂い。澪のシャンプーの匂いだろうか。はたまたボディクリームの匂いなのだろうか。そんな甘い香りと一緒に、少しだけ澪の温もりが残っているような気がした。
俺ははっとして、慌てて帰り支度を進める。
何考えてんだ俺。
鞄を肩に掛けて、教室を出る。廊下に出ると、丁度吹奏楽部の練習が始まったのか、合奏の音が聴こえ始めた。元気な金管楽器の音がする。
そんな普段はあまり興味のない吹奏楽の音に神経を集中させながら、昇降口まで早足にやってきた。すると。
「涼?」
「皐月?」
声のした方へと振り返ると、ジャージ姿の皐月が自販機の前に立っていた。
「どうした?」
「いや、それはこっちのセリフだろ。皐月こそ、こんなところで何してるんだ」
「何って、俺は部活の休憩中」
ああ、確か、バスケ部だったか?
「今外周から戻って、休憩してるとこ。すげー疲れたわ」
「そうか」
皐月は不思議そうに首を傾げると、俺の顔色を窺う。
「涼、大丈夫か?なんかあった?」
皐月は馬鹿だが、人の感情の機微には聡い奴だ。特に付き合いの長い俺では、パターンが読まれており少しの視線の動きで皐月には何があったか把握される。
「いや、別に…」と小さく答えたのだが、「澪?」と訊かれてしまった。
こういう時も気が付かない馬鹿でいてくれよ…。
「いや、その、」
どう答えたらいいのだろうか。澪との「潔癖症さよなら大作戦」は、二人だけの秘密だ。ましてやその「潔癖症」克服の練習の際に起きた出来事を、皐月に説明できるはずもない。
俺が返答に詰まっていると、皐月は少し困ったように浅くため息をついた。
「ま、何があったか知らんけど、澪ちんと仲良くしろよ。あいつは涼のことすげー大事に想ってるからさ」
「じゃ、俺練習戻るわ」そう言って皐月は深くは訊かず、さっさと体育館へと行ってしまった。
「涼のことすげー大事に想ってるからさ」か。
そんなこと、俺だって理解しているのだ。俺だって、澪や皐月を大事に想っている。すごく大事な友人だ。
だからこそ。だからこそ、そんな大事な友人に抱いてしまった感情に、俺は戸惑っているのだ。
次の日の放課後。澪は昨日と同じように俺の席へとやってきた。
「涼、今日はどうする?」
その問い掛けに、俺は視線を合わせずに返答する。
「あー、悪い。今日はお休みで頼む」
澪はどう解釈したのか「そうだよね!急に進めても、心身に負担掛かっちゃうもんね、またにしよ!」といつも通りの明るい声色でそう口にした。顔は見ていないが、多分いつもと変わらないだろう。
「じゃあ、…また」
「おう」
澪はそそくさと自分の席の方に歩いて行った。
「ふう…」
謎に詰めていた息を浅く吐き出す。なんとなく今は、あまり克服リストを進めたい気にはなれなかった。というより、澪と二人きりの状況を今は避けた方がいいような気がしていた。
昨日の今日で、どうして俺はあんな感情を抱いてしまったのか、まだ答えが出ていなかったからだ。
ぼんやりとした気持ちのまま、ふらふらと家に帰って、「そうだ、明日は水曜日だ」と、北白河さんとの勉強会の約束を思い出す。
ベッドに寝転びながら、明日の放課後も「潔癖症さよなら大作戦」は進められない旨を、澪にメッセージアプリで伝える。
するとすぐに、
【OK!私も明日は部活あるから、またにしよ!】
と返事がきた。
澪がいつも通りなことに酷く安堵する。当然だ。おかしいのは、俺だけなのだから。
「はぁ……」
部屋の天井の木目を見つめながら、昨日の自分を思い出す。
俺は「潔癖症」だ。
人と触れ合う感覚ってどんなんなんだろうなーと、思うことはあれど、自分から触れたい、ましてや抱きしめたいなどと思ったことは、生まれてこの方ただの一度もなかった。高校生にもなって、自分の感情に驚く日が来ようとは。
どうしてあの時澪に触れたいと漠然と思ったのかについては、いくら考えてもよく分からなかった。
澪との「潔癖症さよなら大作戦」のおかげ、なのだろうか?
少しずつ他人に触れること、触れられることに、過度なストレスを感じなくなってきているのだろうか。
確かにほんの少しずつではあるが、ここのところ除菌する回数も減らせてきているような気もする…。
まぁ、今考えたところで答えは出ない。「潔癖症」を克服できたら、もしかしたらその答えもなにかしら出るのかもしれない。
ひとまずこのことは、一旦頭の片隅にでも追いやっておこう。
次の日。北白河さんと勉強会の約束をした水曜日の放課後。
俺は特に教室で彼女に声を掛けることなく、図書室に向かった。
前回は教室で声を掛けて変にクラスの注目を浴びてしまった。けれど、今日は事前に場所を決めていたし、声を掛けずとも北白河さんはそのうちやってくるだろう。
図書室は今日も二、三人の生徒がいるだけで、とても空いていた。俺は前回使った自習スペースへとやってくると、鞄を置きかけて、「あ…」と少し固まってしまう。
いつもならまず机と椅子を除菌するのだが、せっかく少しずつ除菌に頼らないよう練習をしている。今日もその通りに頑張ってみるべきだろうか…。
そう思案している間にも、図書室の扉がスライドして、北白河さんが来てしまった。今日は随分と早い。彼女はすぐにこちらへとやってきた。
「藤沢くん、お待たせしました」
そう微笑みながら、これまた前回と同じように俺の左隣へと腰を下ろす。
彼女は鞄から除菌ウェットティッシュを取り出すと、俺の目の前と自分の目の前の机を綺麗に拭き始めた。いつぞやの生徒が残していった消しゴムのカスが、綺麗に拭き取られていく。
前回も持ってきてくれていた、大きめの除菌ボトルを机の真ん中に置くと、「今日も良かったら使ってください」と、自分も一度シュッと手指を除菌した。
俺はその流れるような一連の動作を見て、やっぱりこの人、所作が綺麗だな…などとしょうもない感想を抱いていた。
いやいやそうではない。北白河さんは俺に気を遣って綺麗にしてくれたのだ。
「気を遣わせて悪い…」
そう申し訳なく彼女に声を掛ける。しかし彼女はこれまた気さくな笑みを浮かべる。
「全然です!前も言いましたけど、ストレスなくゆっくり勉強できる環境の方がいいですから」
う、眩しすぎる…。
その笑顔と優しさが眩しすぎて、俺なんかのために気を遣わせてしまったことが、更に申し訳なくなった。
今日は机の除菌も止めてみるか、と思っていたのだが、北白河さんが綺麗に拭いてくださったので、その綺麗な机を有難く使わせていただく。因みに椅子は除菌せずにそのまま座ってみた。ちょっと、うーん、んぐぐ、と抵抗感はあったものの、除菌せずに我慢することに成功した。除菌による心の安寧は、もう卒業しなくてはいけないのだ。
自分の鞄から筆記用具を出しながら、「今日、俺何教えたらいいんだ?」と尋ねると、「あ、今日は…」と言葉を紡ぎかけた彼女は、はっと何かを思い出したように俺を見た。
「藤沢くん、先週出た世界史の課題ってもう終わってますか?」
「ん?課題?なんだっけ…」
「世界の偉人を一人調べて、レポートにまとめる課題です」
「ああ、あれか」
先週末の世界史の授業で、宿題として出されたものだ。でもあの課題は。
「あれって提出期限、ゴールデンウィーク明けじゃなかったか?」
確かゴールデンウィーク中の課題として出されたものの一つだったように思う。面倒だがどこかの日に図書館でも行くか、と考えていた。
「そうなんですけど、ゴールデンウィーク中は遊びたいじゃないですか。だから今日は、それをやっつけちゃおうかな、と」
俺は照れくさそうにしている北白河さんの表情をまじまじと見つめてしまった。
ゴールデンウィーク中は遊びたい。なんて、可愛らしい言葉が出てくるとは思わなかった。なんだか彼女のイメージとは違う、少し幼さを感じる表現に微笑ましくなる。
「そうだな、終わらせておくか」
「はい!」
俺も彼女の提案に乗って、休み期間に突入する前に課題をやっつけることにした。
まずはどの偉人について調べるか決めなきゃだな。
「北白河さんは、もう誰にするのか決めてるのか?」
そう質問すると、「はい!」とにこやかに返事をしてくれる。
「私は、サラサーテにします」
「さらさーて?」
「パブロ・デ・サラサーテ、です」
「あー聞いたことあるな。クラシックの作曲家か?」
なんとなくうろ覚えの回答をすると、北白河さんは一瞬目を丸くしてからすぐに拍手までして喜んでくれた。
「藤沢くんすごい!よく知ってますね!」
あまりに大袈裟な褒め方に、こっ恥ずかしくなる俺。
「いや、いつだったか、テレビで見た知識しかないけど」とごにょごにょと返答する。
「サラサーテ、好きなのか?」
「はい!今ちょうど彼の楽曲を練習していて、」
「サラサーテはスペインのヴァイオリニストだよな。てことは、北白河さんはヴァイオリンが弾けるのか?」
その俺の言葉に、彼女はますます目を輝かせる。
「すごいです藤沢くん!名探偵みたいです!」
純粋すぎる真っ黒な瞳に見つめられて、照れくさいを通り越して、羞恥で居心地が悪くなってきた。ていうか、こっちに身を乗り出しすぎだろ。近い。触れたらどうする。
彼女も俺に近付きすぎていたことに気が付いたのか、ぱっと距離を置く。
「す、すみません。触れられるの、苦手なのに」
「いや、大丈夫」
確かに苦手は苦手だが、俺が一番辛いのは、貴方に汚いとか臭いとか思われることだ。
北白河さんは顔を真っ赤にして俯く。
「あの、私クラシックが大好きで、ヴァイオリンを習っているんですけど、なかなかそういう話をできる人がいなくて。藤沢くんがサラサーテを知ってくれていたのが、すごく嬉しかったんです」
「知ってるって言っても、ほんとに名前くらいだけど」
「それでもいいんです!…では、私、本探してきますね」
彼女は慌てて立ち上がると、本棚の方へと行ってしまった。
拙いやり取りではあるが、俺としてはなかなかコミュニケーションが取れた方ではないだろうか。よしよし。
北白河さんが良い子だから、というのが大きいと思うが、コミュニケーションも少しずつ自信を付けていきたいところだ。
「さて」
椅子に深く腰掛けながら、腕を組む。
俺は誰を調べたもんかなぁ。
世界史の課題の偉人調べ。基本誰でもいいことになっている。俺はこれと言って深く知りたい人なんていない。そもそも亡くなっている人を深く知ってどうするのだ。これから仲良くなれそうなクラスメイトを調べた方がよっぽど有意義な気がする。
「まぁ、誰でもいいか」
ふと目をやった本棚に「罪と罰」が置いてあったので、俺はドストエフスキーを調べることにした。
レポートに使えそうな資料を本棚から探して、二、三冊を抱えて席に戻ってくると、先程までかなり集中してレポートに取り組んでいた北白河さんが机に伏せていた。
隣に腰を下ろすと、北白河さんの小さな寝息が聞こえてきた。
彼女の机にはもうすでに五枚のレポート用紙が、文字でびっしりと埋まっていた。早いな。
集中して取り組んでいて、疲れてしまったのだろうか。今日は体育の授業もあったしな。
女子の寝顔を勝手に見るのは失礼にあたるらしいので(澪談)、彼女の顔はあまり見ないようにしつつ、なるべく物音を立てないよう課題に取り組む。
しかし迂闊なことに、消しゴムを落としてしまう俺。
消しゴムを落としたところで、ポテ…くらいのなんてことない音なのだが、起こしてしまったのではないかと少し焦った。
落とした消しゴムが、これまた北白河さんの脚の近くにあり、俺は触れないよう、且つ、気配を気取られぬよう、そーっと消しゴムへと手を伸ばす。
スカートから覗く真っ黒なタイツ脚を眼前にし、少し動揺してしまったのは内緒だ。
消しゴムを無事回収し、再びレポートに取り掛かる。
うーん、ともぞもぞと動いた北白河さんは、なんだか少し寒そうだった。
何か肩に掛けられるものがあればいいのだが、そんなもの当然図書室にはない。
女の子だから、もしかしたら鞄にブランケットなど入れているのかもしれないが、勝手に触るわけにもいかない。そもそも触るのは苦手だ。
どうしたもんか…と暫し考えて、俺は「あ」と、自分でも驚く名案を思い付いてしまう。
俺のブレザーを掛けてあげれば良いのでは?
着ていたブレザーを脱ぐ俺。
しかしそれはあまりに迷案であることにも、もちろんすぐに気が付く。
いやいや嫌だろ、俺のブレザーなんて。
他人に自分のブレザーを掛けるのにも、抵抗がある…。
だが、一昨日の放課後、俺はまさに、澪とこのシチュエーションの練習をしたのだ。
『涼は全然汚くないよ、私、涼の匂い好きだもん』
澪は俺の「潔癖症」克服のためにそう言ってくれていたが、北白河さんがそうとは限らない。品のいい彼女のことだ、他人のブレザーを汚いと思うかもしれない。
人に自分の物を貸すのは苦手だ。
けれど、彼女、北白河さんには、ブレザーを貸してあげてもいいかな、という気になった。
澪と「潔癖症」の克服をはじめて、心境の変化があったのだろうか、と他人事のように考える。
以前の俺なら、他人にブレザーを貸そうなんて、絶対に思わなかった。
しかし目の前で寒そうにしている北白河さんが少し可哀想で、俺なんかのブレザーでなんとかなるのなら、貸してあげてもいいかな、と思ってしまった。
「……………」
俺は脱いだブレザーを片手に、尚も迷い続けた。
大丈夫。彼女なら俺を汚いと罵ったりはしないだろう。嫌でも、やんわり断ってくれるに違いない。大丈夫だ。
俺は心を決めて、北白河さんの肩にブレザーを掛けてあげることにした。
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