第37話

 翌日、額に感じる唇の感触で目が覚めた。

 うっすらと目を開けると、目の前には端整な男の顔がある。

「おはよう、起きられるか?」

 昨夜のことを思い出し、聖が頬を染めると、今度は唇へのキスが贈られた。

「朝から……」

「昨夜だって散々しただろうに。愛しい相手には、いつだって触れたいものだろう?」

 堂々と言われて、恥ずかしがる暇もなかった。

 昨夜は、逆上せて熱に浮かされていたせいか、普段なら口にしないようなことまで言っていた。

(うわ……恥ずかしい)

 着ていたローブはベッドの横に落ちてしまったようで、聖はなにも身につけていなかった。物音で気づいたのだろう。部屋の扉がノックされる。

「聖女様、お目覚めですか?」

「あ~えっと……」

 天蓋のカーテンは下ろしていたが、オーウェンと自分はまだ裸だし、ローブを取るにはカーテンを開けねばならない。

 すると侍女は、正しく空気を読んだのか、淡々とした声色で「お目覚めになりましたら、ベルを鳴らしてくださいませ」そう言って、部屋を離れていった。貴族の侍女として働いているなら、こういう事態にも慣れているのかもしれないが、聖としては他人にあれこれ想像されるのが恥ずかしくてたまらないのだ。

 聖は肩から力を抜くと、気づいたオーウェンがくっと喉で声を立てて笑う。

「これにも、慣れてもらわねばな」

「慣れないよ! 恥ずかしいもん。それより着るもの取って」

 聖が言うと、オーウェンは恥ずかしげもなく裸を晒して床に落ちたローブを取った。

 肩にかけられたのは、オーウェンが昨夜来ていたシャツだ。

 聖にはだいぶ大きく、引きずるような長さで、さらにきつく胸元を引き寄せなければとんでもなく恥ずかしいことになってしまう。

「いいな、それ」

 この世界においても、彼シャツは男性に好まれるらしい。そんなことを考えながらオーウェンを睨むと、そろそろと控えめなノックが繰り返された。

「聖女様、殿下……申し訳ありませんが、そろそろお支度を」

「わかった、すぐ済ませる」

 ここには遊びにきているわけではない。出かける準備をしなければならないのだ。

 オーウェンは、甘ったるい笑みを精悍な顔つきに変え、着替えを済ませた。

 聖もまた、下着を身につけ、すっぽりと寝衣を被るとベルで侍女を呼ぶ。

 侍女に着替えを手伝ってもらい、部屋で朝食を摂った。

 支度を調えて部屋を出ると、聖女部隊の面々にやや恨みがましいというか、羨ましい視線を向けられたのは致し方ないだろう。彼らは恋人募集中らしい。

 出発の時間になり、馬車に乗り込み集落へ向かった。数ヶ月ですっかり慣れてしまった光景に胸を痛ませながらも、馬車を集落の端に停めて森に入る。

(誰かが命を落とす前に、なんとかできればいいんだけど)

 聖一人にできることなど限られている。だからこそ、聖が派遣されるのは、より余裕がなく危険な領地のはずだ。

 聖は常に守られているが、危険なのはオーウェンを初めとした聖女部隊である。オーウェンにも誰にも怪我をしてほしくない。聖は毎回祈るような気持ちでいる。

 人が足を踏み入れた形跡がなく、周囲には木々が生い茂っており、昼なのに薄暗い。皆、肌を刺すような瘴気を感じるのか口数が少なくなってくる。

 オーウェンたちは、常に周りを警戒し、瘴気にやられた魔獣を斃していく。先頭を走るエンベルトが、真っ赤な目をした熊に向かい剣を振るった。

 だが、あたる直前にスピードを上げて突進してきたせいで、熊の体毛だけをわずかに掠めただけで斃すには至らなかった。オーウェンが一歩前に出て土魔法で熊の身体を真下から貫いた直後、すぐ近くからうなり声が聞こえてくる。

「ちっ、しつこいな……セイ! 絶対に前に出るなよ!」

「わかったっ」

 熊は一頭だけではなく、奥から次々と出てくる。

 舌打ちをしたオーウェンは剣を片手にさらに前に出ると、土魔法を使いながら数を減らし、近づいてくる熊の頭めがけて剣を横に振った。首を切られた熊は巨大な身体を痙攣させると、どしんと大きな音を立てて絶命する。

 しかし、ほっとしたのも束の間、さらに二頭の熊が木の上から飛び降りてくる。熊は聖のすぐ横にいるディーナの身体を鋭い爪で切り裂いた。

「セイ様っ……もっと、下がってっ」

 どうやら敬語を使う余裕もないらしい。ディーナは風魔法を使い魔獣の身体を切り裂いた。斃したかに思えたが、すぐさま二頭目の魔獣が素早いスピードで爪を振るうため、初動が遅れてしまう。

(こんなに魔獣が多いなんて……っ)

 これほどの数がいながら今まで人里に下りてきたのが大した数でなかったのが不思議だ。弱い魔獣を食い、強いものが生き残る、そんな弱肉強食の生態系がこの森で完結していたのかもしれない。

(今まで瘴気が発生したところは、どこも町からわりと近かった……ここは、道も整備されていないし、人が通った形跡がない。気づかない間にずいぶん長く瘴気を溜めてしまっていたのかも……)

 自分がもっと早くに来れば、と後悔したところで、できることはなにもない。それが悔しい。

 少しずつ足を進めていると、生い茂る木の向こう側にいやな気配を感じた。慣れたくはないが、瘴気の発生地点だとわかる。百メートルほど先に大木が立っており、そこから真っ黒な靄が噴きだすように空気中に散乱している。

「オーウェン! 場所がわかった!」

 聖が叫ぶと、オーウェンが「どこだ!」と怒鳴った。聖が目印となる木を告げると、オーウェンは魔獣に斬りかかりながら、誰よりも先に足を進めた。

(魔石で瘴気が祓えるか、まだわからないのに!)

 聖女部隊の面々は、陣形を決して崩さないようにしてくれているが、次から次へと襲いかかる魔獣で手一杯でオーウェンを追うどころではない。

 このままではオーウェンが危ない。聖は焦りながらも少しずつ瘴気の吹き溜まりを目指して足を進める。

「もうっ! 何頭いるの!」

 ディーナが血で汚れた顔を拭い、震える手で剣を振るう。瘴気のせいもあるだろうが、疲労で筋肉が痙攣しているのだろう。

 先ほどからオーウェン以外の聖女部隊の隊員たちが魔法を使っていない。魔力はすでにほとんど残ってないのかもしれない。

 瘴気の吹き溜まりに近づくにつれ、魔獣の数は増していき、一人が五頭を相手にしなければならなくなった。聖を守りながら戦うのは難しいだろう。

 前を走るオーウェンが五頭以上の熊に囲まれた。

「オーウェン! ディーナ、カミラ、行くよ!」

 聖はオーウェンの後を追い走り出す。

「は!? セイ様!?」

 ディーナが焦ったような声を出すが、魔獣に背を向けるわけにはいかず、聖を追ってこられない。

 聖は脚を振り上げ、熊を倒した。オーウェンから借りたナイフで熊の首を切ると、切り口が燃えるようにどろどろと溶けていく。

「う……っ」

 肉を切る感覚が手に伝わってくると気持ち悪さに嘔吐きそうになる。幸い、瘴気にやられた魔獣は身体ごと作り替えられているようで血しぶきは上がらない。

 昨夜、聖はオーウェンに願った。自分も戦わせてほしいと。守られるばかりではいやだと。オーウェンはそれを呑み、聖にナイフをくれたのだ。

 ナイフは、火魔法を込めた魔石を使用した魔道具だった。まだ試作段階で、十回程度しか火魔法の効果はないと言うが、それでも十分だ。

 木の上から熊が飛び降り、鋭い爪を斜めに振るった。

「オーウェン! 危ない!」

 聖は背後から熊の背を思いっきり蹴ると、首をめがけてナイフを深く刺す。だが、一頭を斃し一瞬気が抜けていたのか、真下から迫る魔獣に気づかなかった。

 真っ黒な猪が地面から跳躍し鋭い牙を見せながら大きな口を開けてこちらに迫ってくる。

「……っ」

 避けられないと目を瞑ると、力強い腕に抱き留められた。目を開けて見ると、自分を抱き締めるオーウェンの腕が見る見るうちに真っ赤に染まっていく。

 聖はオーウェンの腕に食らいついたままの魔獣の首をナイフで切る。

「セイ! なにがあっても目は瞑るな!」

「わ、わかった!」

 止血をしたいが、その前に瘴気の吹き溜まりをなんとかしなければ。周囲を警戒しながらようやく吹き溜まりの地点に辿り着く。

「オーウェン、魔石を!」

 オーウェンがポケットに入れた魔石を取りだすのを見つめながら、もし失敗したときに自分が代わりに瘴気を祓えるように両手を組んだ。

(どうか……っ)

 オーウェンが魔石を使用したのか、辺り一面が真っ白に輝く。

 あまりの眩しさに目を瞑ると、淀んだ空気が徐々に静謐な空気に変わっていくのを感じる。魔石で瘴気を祓うことに成功したようだ。

「よかった……よかったぁ」

 聖がへたり込みそうになると、いつもなら支えてくれる腕がないことに気づく。

 魔石を持ったままのオーウェンのもとへ行くと、彼は呼吸を荒くしながら、ひどい汗を掻いていた。

「は……はっ……」

「オーウェン? オーウェン!? しっかりして」

 オーウェンの腕からは大量の血が流れでていた。腕だけではない、よく見ると満身創痍で、脚や胴からも出血がある。もしかしたら傷つけてはいけない血管を切ってしまったのかもしれない。そんないやな予感に苛まれて、動けなくなりそうだった。

(私にも……回復魔法が使えたらよかった! でも、無い物ねだりしても仕方ない!)

 聖は唇を噛みしめながらなんとか自分を奮い立たせると、ローブを破り、オーウェンの腕に巻きつけて止血した。

「エンベルト! カミラ、ディーナ! すぐに町に向かうよ!」

「セイ様? 殿下!」

 カミラがぎょっとした様子で駆け寄ってくる。

「オーウェンが怪我をしたの! すぐに治療しなきゃ」

「わかりました! すぐに薬を持ってきます」

 止血をし、切り傷に効果のあるという薬草を身体中に貼りつけ、意識のないオーウェンを町に運んだのだった。

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