第25話

 第六章



 真っ白な世界に聖はいた。

 ここしばらく見ることのなかった夢だ。この細い繋がりがなかったら、元の世界に帰る方法を探しもせず、とっくに諦めていたかもしれない。

 夢での景色は変わり、季節は夏になっていた。そこにいなくとも、湿度を含んだ重い空気が窓の隙間から入り込み、蝉の鳴き声が聞こえてくるような感覚がしてくる。

 学校の休み時間だろうか。陽一は複数人の女子と真剣な顔をしてなにかを話していた。彼が女子と話すのは非常に珍しい。

 体育会系らしく硬派な面を持つ陽一は、聖以外の女子とは距離を置いていた。怖がらせてしまう、という理由もあっただろうが、恋人である聖は安心したものだ。

 それなのに今は、顔がくっつくほどに身を寄せて、スマートフォンを覗き込んでいるではないか。

(オーウェンに好きだって言った私に、嫉妬する権利なんてないけど……)

 なにを見ているのだろう。聖が机の上を見たいと望むと、カメラがズームアップするように画像が切り替わる。

 スマートフォンには入学式のあとに友人たちと教室で撮った写真が映しだされていた。四人で手を繋いで撮った写真もある。それを見て、懐かしさと共に違和感を覚える。

(なんで……うそでしょうっ)

 この白い世界の中で聖は意識だけの存在だ。それなのに自分の身体がぶるぶると震えるのがわかる。

(うそ、このとき一緒に写真を撮ったはず。それなのになんで私が映ってないの?)

 友人三人と手を繋いで撮ったのをよく覚えている。聖が帰った後、三人だけで写真を撮り直したのだろうか。そんなはずはない。仲のいい女子三人と一緒に帰ったのだから。

 いつも一緒に帰っている陽一はそのときばかりは遠慮したのか、一人で先に帰った。聖は友人の一人にカメラを向けられ、ポテトを摘まんでいる写真を撮った。それなのに、友人の写真データには聖が映っているものが一枚もなかった。

 まるで、吉川聖なんて人間が最初から存在しなかったように。

(でも、でも……陽ちゃんは、私のことを探してくれてるじゃないっ)

 しばらくスマートフォンを見て、なにかを確かめようとしていた陽一は諦めたのか肩を落として自席に戻っていった。友人たちは首を捻り、また楽しそうに話を始める。

 すると、陽一は日記帳のようなものを取りだし、そこになにかを書き始めた。音は聞こえないが、この空間では見たいものを見られる。

 聖は陽一の手元を覗き込み、息を呑んだ。

 そこには今日の日付のあとに、こう書いてあった。

『やはり誰も違和感に気づいていない。俺はいったい、誰を探しているんだろう。誰かがいないと感じるのに、誰を探せばいいのか見当もつかない。ずっと近くにいたような気がするのに、覚えていないなんて』

 陽一はそう書き記すとノートを閉じて鞄にしまう。

 ずっとなにかがおかしいと思っていた。教室の雰囲気も、実家の雰囲気も。そのなにかの正体をようやく掴む。

(そうだ……陽ちゃん以外、誰も私を探してなかった。お父さんもお母さんも、普通に道場にいた。笑ってた。それに……陽ちゃんも、私を覚えていない?)

 両親は愛情深く、聖が行方不明にでもなろうものなら、仕事などそっちのけで探すような人たちだ。友人たちはそこまでではなくとも、心配はしてくれるはずである。

(元の世界では、誰も……私を覚えていない)

 それでは、元の世界の聖は死んだようなものではないか。もしも元の世界に帰れても、両親さえ自分を覚えていないのだから。

 そもそも今の聖は吉川聖の外見をしていない。自分が聖だと訴えたところで、陽一だって信じないかもしれない。

(もとの私の身体って、どうなっちゃったの……っていうか、本当に私は吉川聖なの?)

 夢で元の世界の未来を見ているのだから、死んで生まれ変わったわけじゃないと思い込んでいたが、本当にそう言えるだろうか。

 自分の足下がガラガラと崩れていく感覚がして、真っ白な世界がぷつりと途切れた。息苦しさで目が覚める。


 ***


「セイ……? セイっ!」

「ん……」

 温かいなにかにぎゅっと包まれるような感覚がして目を開けると、眼前に自分を心配そうに見つめる男の瞳があった。

「……オーウェン」

「うなされていた」

 オーウェンは聖の頬を拭い、髪を撫でる。どうやら寝ながら泣いていたらしい。気を失う前にすっからかんだった魔力が少しだけ回復している。

 周囲にはオーウェンと同じように案じる視線を向ける聖女部隊の隊員たちがいる。皆、揃って武装しているのは、ここが東にある森の中だからだ。

 聖は瘴気を祓い、魔力を使い果たした後、いつもと同じく気を失ってしまったのだ。

 オーウェンが聖を抱き留め、木々が開けた場所で一休みしているところだった。

 先ほどの夢のせいか、全身が重く立ち上がる気力がまるで湧かない。

 自分はこんな場所でどうして聖女なんて役割を押しつけられているのだろう。

 王族が聖をこちらの世界に呼ばなければ、ずっとあちらの世界で今でもなにも変わらず過ごしていたはずなのに。

「セイ? 具合が悪いのか?」

「……オーウェン」

 自分でも驚くほど発した声は低かった。

 それなのに自分を見るオーウェンの目はいつだって優しい。

 その優しさが今は苦しかった。好きな気持ちは本当なのに、この人も自分を召喚した人なのだと考えると、恨んでしまいそうになる。

「どうした?」

「私ね……夢を見てたの、この世界に来てからずっと。元の世界の夢」

「あぁ、恋人の夢だろう?」

「違うの、あれは……私がいなくなった後の未来の夢」

 ぽつりぽつりと夢で見ていた景色を話す。そうして話していくうちに、オーウェンの顔色が悪くなっていくが、それでも構わず言葉を続けた。

「誰も、私を覚えてない。元の世界に私がいた形跡がまるでない。両親や恋人ですら、なんとなく喪失感を覚えてるだけで、誰がいないのかわかっていなかった。ねぇ、どうしてなのか、オーウェンは知ってる?」

 聖が聞くと、オーウェンは息を呑み、なにも答えず唇を引き結ぶ。

「もしかして、私を元の世界に帰してくれるってうそ? 私が聖女として働かないと困るから、味方のふりをしていただけなの?」

 オーウェンがぎくりと肩を強張らせる。それが答えだった。惹かれていると言ったのも、抱き締めたのも、キスをしたのも、全部。聖女としての自分を欲しているからだ。

「はは、あはは……そっか、そうなんだ……バカだね、私」

 悲しみともつかぬ怒りが込み上げてきて、叫びだしたい思いに駆られるが、口から漏れる言葉は震えていた。聖は肩で息をしながらきつく拳を握りしめる。手のひらに爪が刺さり、血が滲んでも痛みは感じなかった。

 優しくされて絆されて、好意を持ったのは自分だ。オーウェンを信じたのも自分。彼からは侮蔑の感情を感じなかったから。だから、信じてしまった。

 事実、オーウェンは聖を見下してなどいない。ただ、利用していただけで。

「私が今、違う外見なのって、やっぱり元の身体が死んじゃってるから?」

 聖は自分が泣いていることにも気づかず、淡々と言葉を発した。

 周囲で警戒している聖女部隊の隊員たちが張り詰めた雰囲気の自分たちをハラハラしながら見守っているのはわかっていたが、一度発した言葉は止められない。

 オーウェンはなにかを覚悟したような目をして、口を開く。

「……そうだ。元の世界の恋人や家族にセイの記憶がないのも、召喚の儀式の影響だ」

 オーウェンもまた、感情のこもらない目をして淡々と返す。

「じゃあ、帰す方法なんて最初からなかったんだね」

「あぁ……騙していて、すまなかった」

 オーウェンが堪忍したように頷いた。

 彼の謝罪は聖の冷え切った心には届かない。求めに応じて危険を覚悟の上で森に行ったのは、元の世界に帰りたかったからだ。なにもかもを失って、それでもまだこの世界の聖女として振る舞えるかと言われたら──。

「帰る」

「帰るって……どこに」

 オーウェンは立ち上がったセイに手を伸ばしかけ、諦めたようにその手を下ろした。

「どこって、私が帰る場所なんて王城しかないんでしょ」

 険のある皮肉が次から次へと口を衝いて出る。それを謝る気は起きなかった。

 なにも信じられない。この世界の人がどうなってもよかった。

 むしろ、自分をこんな目に遭わせた王族が困ればいいとさえ思う。そうすれば行き場のない怒りも発散できるだろうか。これからどうすればいいか、今はなにも考えられない。

 帰れないのなら、このままいなくなってしまった方がいいかもしれない。自暴自棄な考えが浮かんできて苦笑が漏れる。なにもかもを王族に世話になっている今、ほっぽり出されたら、おそらく一日を待たずして自分が困るだろうことは明白だ。

(あぁ、そっか……私は、王城で軟禁されてたんだ……)

 ここから出ていき、聖女の仕事を放棄されたら困るから。住む場所に食事、豪華なドレスに宝飾品を与えられた。けれど、この世界の貨幣は持たされていない。

「セイ、たしかに俺はうそをついていた。でもセイに対しての気持ちはうそじゃない。それだけは……信じてほしい」

 オーウェンの目にはたしかな愛情を籠もっているように見えた。けれど、今はそんな自分の感覚を信じる気にはなれない。

 聖は転移陣のある街まで歩く間、一言も口を利かなかった。心を許しかけている彼からの裏切りは、聖の心に黒いしみを一つ落としたのだ。

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