第3話
「……っ、ひ」
ありふれた毎日を特別に感じたことは一度もない。けれど、なにもかもをなくして初めて、それを特別だと認識するのだ。なくしたものは聖にとってあまりに大きいものだった。
目の前が真っ暗になり、息苦しい。膝を突き、喉に手を当てる。遠くで自分を呼ぶ声がする。そのままもう眠ってしまいたかった。なにもかもゼロに戻せたら、この世界で死ねば元の世界に帰れるのでは。そんな思いでまぶたを閉じようとする。
「セイ様っ! 息を吸ってください! お願いですから!」
身体をがくがくと揺さぶられる。だが、どうでもよかった。
聖がまぶたを閉じると、なにかが唇に触れて、口の中に大量の空気が注がれる。息を吸うことを拒絶した身体に強引に空気を注入され、あまりの苦しさに目を開く。
「げほっ……はっ、ふ」
無意識に息を止めていたようで、急に入ってきた空気に肺が悲鳴を上げる。
眼前にオーウェンの顔が映り、驚いて身を引くと、肩を押さえられていた手がそっと離れていき、宥めるように背中をとんとんと叩く。
オーウェンはその場に膝を突き、聖を支えている。彼からは、侮蔑の視線を感じない。心底聖を心配しているかのようだ。
けれど、この男が聖を案じるのも自分のいる国を救うため。聖女の力のためでしかない。使えるかどうかもわからないのに。
「お願いです……次の聖女を呼ぶ準備が整うまで、この国のために力を貸してくれませんか? これでも一国の王子だからほかの者より権限は多いんですよ。ですから、私があなたを帰すように陛下に進言します。それまでどうか辛抱していただけませんか?」
オーウェンが頭を下げる。上に立つ者がそう簡単に頭を下げてはいけないのでは。こんなときなのにどうでもいいことを考えた。
「私がいやだって言ったらどうするの? 縛りつけてでも魔法を使わせる?」
「そんなひどい真似をするはずがないでしょう」
「じゃあ脅す? 一文無しでほっぽり出されたくなかったら、俺の言うことを聞けって」
「しません、約束します」
オーウェンは痛ましい目をして首を横に振った。
(わかるよ……そんなひどい人じゃないって)
聖は昔から、他人の感情の機微に敏感だった。
人の隠している感情を察しやすく、一言二言話すだけで、好悪の判断がつく。危ないと思う相手からさりげなく距離を取り、身を守る術に長けていた。
話したこともないのに「なんだかいやだな」と感じる人が、のちのち問題行動を起こすような場面が小さい頃から度々あった。
最初から、オーウェンからは聖を労るような温かな感情しか伝わってこない。聖の人を見る目はたしかで、今まで間違いは一度もない。そんな自分の感覚こそを聖は信じている。
(ここで信じられるのは……オーウェンだけ)
オーウェンは「しない」と言ったが、異世界に転移させられて、着の身着のまま放り出されたら困るのは聖だ。そうやって脅せば聖は渋々従うしかなかったはずなのに、彼はそうしないと言う。それもまたオーウェンを信用できる理由だ。
「べつの聖女を呼んだら、本当に帰してくれる?」
聖を利用するだけ利用して放り出す可能性もある。口約束なんて一番信用ならない。それでも、彼が言うことはうそじゃないと確信があった。
「えぇ、必ず」
「わかった……そうしてくれるなら」
聖が右手の小指を差しだすと、オーウェンが首を傾げる。
「これは?」
「小指を出して。こうするの」
指切りげんまんなんてする年ではない。
ただ、その約束に縋りたくなるほど、今の聖の心は弱り切っていた。指切った、と小指を離すと、オーウェンは真剣な顔をして自分の小指を見つめる。
「うそついたら針千本とは……なかなかの拷問ですね」
「うん、だから……ちゃんと帰してね」
「わかりました、約束しましょう」
聖はため息を吐き、オーウェンから距離を取った。必死に縋りついたまま、いつのまにか彼の腕に抱き締められているような体勢だったのだ。
「オーウェン殿下、聖女様を部屋に案内してはいかがでしょう。ここは冷えます」
オーウェンと同じように腰に剣を携え、きらびやかな衣装に身を包んだ三十代くらいの男性が前に出て、丁寧な口調で言った。
男性は目を細めて笑みを浮かべている。しかし、聖を見る眼差しは冷ややかで侮蔑を含んでいる。先ほどから、自分とオーウェンを囲むように立っている十数人いる男たちからも、同じような雰囲気を感じていた。その中にはいやらしい目も複数ある。
(聖女様、なんて言ってるくせにね。本当は〝様〟付けでなんて呼びたくないって顔してるよ、バレバレ)
けれど、オーウェンからはそれを感じない。
どうやら、この場で聖に対して好感情を持っているのは、オーウェンだけのようだ。
「そうですね。セイ様、お話ししたいことがたくさんあります。暖かい場所に案内しますので、一緒に来ていただけますか?」
聖はオーウェンの言葉に頷いた。
オーウェンに手を差しだされるが、その手を掴むことを躊躇してしまう。
一度目は立ち上がるためだとわかっていたから無意識に掴んでしまったが、陽一以外の男性に自分から触れたくない。
「手は大丈夫。部屋ってどこ?」
「ご案内します」
オーウェンが苦笑しながらも手を引いてくれたことにほっとする。
開けられた扉の向こうには長い廊下が続いており、一言で言えば豪華絢爛の極みであった。石を掘って作られた柱が等間隔に並び、緻密な意匠を凝らしたタペストリーが壁に掛けられ、華やかさを増していた。
扉の外に出ると、突然、彼と同じような服を着た男性と女性数人が奧から前に出て、オーウェンと聖を守るように取り囲んだ。
「え、え、なに?」
「安心を。全員聖女部隊の者です。この者たちは……私を含めて、セイ様を守ることが仕事になります。あとで紹介しますが、できましたら顔を覚えてやってください」
「それは……うん、もちろんだけど」
先ほどの部屋は相当奥まった場所にあったようで、彼らと共に長い廊下をしばらく歩き、三階分くらい階段を上り、何度か角を曲がるとひときわ大きい扉が見えてくる。
「こちらです」
騎士の手で扉が左右に開かれる。騎士のうち一人が室内の安全を確認すると、どうぞと言うように手のひらを部屋の中へと向けられた。
「うちの道場より広い」
室内は、聖の家である道場がすっぽりと入ってしまうほどに広かった。置かれている家具はどれもヨーロッパの家具のようで自分がお姫様にでもなったような気分がする。
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