いいね、がいっぱい
青空あかな
第1話
某年七月下旬、照りつける太陽の下で一人の男が山道を登っていた。
男の名は吉田弘。
週刊神河の文芸部に務める記者だ。
人間の体温をも超えるほどの高温と、全身に纏わりつくぬるりとした湿気により、出張先のホテルで整えた髪も額に張り付いていた。
「あっつ……」
叫ぶように鳴く蝉の中、吉田は汗を拭う。
数分も歩いたところで暑さに耐え兼ね立ち止まり、ペットボトルの水を飲んだ。
生温い水は嚥下に逆らうような感触を持って食道を伝い、内臓へと降りていく。
残暑の熱が伝染った水は、お世辞にもうまいとは言えなかった。
だが、飲まないわけにはいかない。
大事な取材前に、熱中症にでもなったらそれこそ笑えない。
喉を震わせぬるい水を飲み、道端の小さな岩に腰かけた。
じっとりとした熱を臀部に感じながら、吉田は汗を拭う。
泣き喚く蝉の声。
ふと、彼は思う。
まるで、助けを求めているみたいだな……。
普段ならそんなことは思わない。
気のせいか、周囲の温度が下がった気がする。
……いや、きっと、この後控えている取材を考えたせいだ。
そう自分に言い聞かせ、吉田は山道を登り出した。
目指す先はこの道の上にある。
宅石精神病院――そこが彼の目的地だった。
毎年、この時期になると週刊神河では怪談の特集を組む。
主に文芸部の人間が担当しており、今年は吉田の番だった。
どうやってアポを取り付けたのかわからないが、編集長より宅石精神病院での取材を命じられたのだ。
取材対象者は小林初美。
元は化粧品会社でOLを務めていたらしいが、とある理由により退職。
会社員時代の不気味な経験により、幻覚が見えるようになってしまったと聞いている。
要するに、彼女から聞いた話で怪談を書け、ということだ。
吉田は憂鬱な気持ちで山道を登る。
元より、彼は病院が嫌いだった。
幼少期から独特な雰囲気を感じ取っており、なるべく近寄らない生活を心掛けている。
仕事だから仕方がない……吉田は念じるように言い聞かせ、とうとう山道を登り切った。
目の前に現れたのは灰色の薄汚れた建造物。
屋根から伝うように染みているのは雨……だろうか。
横に伸びた長方形は、病院としてはおかしくもなんともない。
ただ一つ、際立つ無機質さを除いては。
昼間だというのに、閉館した美術館を思わせる不気味な空気。
周囲は木立に囲まれ、葉と葉の接触する音がざらざらと響く。
おそらく、自然と人工物との対比のせいで、自分はそう感じているに違いない。
吉田は思う。
泣き喚く蝉の声。
顔を撫でる風は火照った身体を冷やす。
運動不足の身に辛い道のりが終わったというのに、吉田は素直に喜べなかった。
暗い気持ちを抱いたまま、病院の受付へと歩を進める。
「こんにちは、週刊神河の吉田弘と申しますが……」
「あぁ、こんにちは。話は伺っておりますよ。今、担当の者を呼びますね」
初老の男性は受話器を取り、どこかへ電話をかけ始めた。
人工的な冷気がぴたりと肌に張り付く。
先程まで暑い空間にいたためか、やけに鮮明に感じられた。
まるで……目に見えぬ何者かに触られているような。
涼しくなったはずなのに、体内を巡る血は熱くなる。
これは、自分が病院嫌いだから緊張しているのだ……。
吉田は思う。
泣き喚く蝉の声はもう聞こえない。
「お待たせしました、看護師の平島と申します」
蝉の代わりに、真後ろから女の声が身体を貫いた。
吉田は軋むように振り向く。
白いスクラブを着た女性が、にこりと笑いながら立っていた。
薄化粧をした妙齢の看護師だ。
蛍光灯の灯りに照らされ、短く切った黒い髪の毛がずいぶんと黒く見えた。
「あ……ぇっと……」
突然の訪れに、吉田は気圧される。
看護師は多忙なイメージだ。
いくらアポを取っているとはいえ、こんなすぐ応対に出て来られるのだろうか。
わずかな疑問を感じはしたが、吉田は迅速に社会人としての行動に移った。
「週刊神河の吉田と申します。よろしくお願いします」
名刺を差し出す。
だが、平島は受け取らなかった。
吉田がぼんやりしているのを見て、彼女は決まりが悪そうに言う。
「申し訳ございません、無くしちゃうとまずいので……。ほら、こういう場所ですから」
「あ、いや、全然大丈夫です」
出鼻をくじかれた気分で、吉田は名刺をしまった。
たまにこういうことがある。
入社して間もない頃は気にすることも多かったが、今となっては特段気にならない。
「では、ご案内します。こちらへどうぞ」
「はい」
背中に誰かの視線を感じつつ平島の後を追う。
きっと、視線の正体は受付にいた初老の男性だ。
そうに違いないのに、不思議と確かめる勇気は出なかった。
灰色がかった白い廊下は薄暗く、他の人間とも出会わない。
精神病院とは、こういうのが普通なのだろうか?
吉田は疑問を抱いたまま歩く。
「吉田さん」
突然、平島が立ち止まった。
吉田は心臓が跳ね上がる感覚を覚えた。
彼女の前には扉がある。
平島は動かない。
「精神病院では、どんなドアにも鍵がかかっています。なぜだかわかりますか?」
「え……さ、さあ? 防犯のためですか?」
「患者さんが逃げ出さないためです」
平島は淡々と告げ、鍵を回した。
がちゃんという重い音の後、扉は開かれた。
また細長い廊下を歩く。
仄暗く、他に人間はいない。
一歩ごとに陰鬱な空気の重さが増すようだ。
見えぬ重圧に耐え兼ね、吉田は平島に問うた。
「あの、すみません」
「はい?」
平島が振り向く。
「さっきから誰もいないんですが、患者さんとかっていないんですか? 他の看護師さんとかお医者さんとか……」
「この時間ですと、患者さんはみんなお部屋の中ですね。疾患が疾患なので、外出できる時間が決まっているんです。看護師や医師はナースステーションにいると思いますよ。……会いに行きますか?」
「あ、いえ……大丈夫です」
廊下の両脇には、等間隔に扉がある。
平島の話だと、この中に患者たちはいるらしい。
扉は小窓がなく完全に閉じられているためか、視線や気配は感じなかった。
ナースステーションの存在もまた、ここからでは確認できない。
どこか……別の場所にあるのだろうか。
吉田の胸にはざわざわとした疑念が湧くが、患者や看護師たちの存在より気になることが彼にはあった。
「患者さんに取材しちゃって、本当に良いのでしょうか」
医療関係については素人なものの、やって良いことと悪いことはなんとなく想像つく。
特に、今回は過去のトラウマを聞くようなものだ。
取材を命じられてから、吉田はずっと気にかかっていた。
そのような心中を察したのか、平島は無機質に笑いながら説明する。
「まったく問題ありませんよ。過去の経験を人に話すのは、むしろ患者さんにとって良いことなんです。最近では治療の一環とも考えられていますね」
彼女は別におかしなことは言っていない。
そうと言われれば、そうなのだと思う。
だが、それらを確かめることができないのも、また事実だった。
三分ほど歩くと、扉の前に着いた。
灰色がかった白色の扉。
無論、ここも施錠されているはずだ。
思った通り、平島が鍵を差し込むと扉は開かれた。
「小林さん、取材の記者さんが来ましたよ」
「ああ……もうそんな時間なの」
椅子に俯きながら座っていた女性が顔を上げた。
髪は濃い茶色に染まっているが、化粧はしていない。
吉田は声を上げないよう必死に努めた。
「こ、こんにちは。週刊神河の、よ、吉田です」
「こんにちは。小林初美と言います」
小林初美と名乗った女性は丁寧に頭を下げる。
今度は名刺を出さなかった。
吉田が彼女の正面に座ると、がちゃんという施錠の重い音がした。
取材には平島も同席することになっている。
だから、今自分の後ろにいるのは平島。
そう決まっているはずなのに、吉田は振り向けなかった。
「こ、小林さん。さっそくですが、お話を伺ってもいいですか? その……過去に体験したという不思議な出来事です」
「ええ、もちろんです」
小林は、にこりと明るく笑い話し出す。
そう、初めて会ったときの平島のように。
「私、こう見えて承認欲求の強い人間なんです。記者さんはSNSとかやってます?」
「は、はい。一応は……」
吉田はたどたどしく返答する。
記者として形ばかりのアカウントは持っているが、ほとんど運用していない。
設定すら初期状態のままだ。
「昔、化粧品会社でOLをやってたんですけどね。いつもいつも、他人からの評価を気にする毎日でした。暇さえあればスマホを開いて、いいね……ほら、【♥】のアレです。今思えば、自分に自信がなかったんでしょうね」
吉田は答えない代わりに、メモを取ることで傾聴の姿勢を示す。
なるべく、小林の顔を見たくなかった。
「ある日、派遣の女の子が会社に来たんです。地味だけどおっとりした女の子。確か……そう、福田さんという名前でした。福田さんは男性受けがいいというか、モテたんですよね。たまにいるじゃないですか、地味なのにモテる女性って」
「え、ええ……」
メモを取りながら、適当に相槌を打つ。
正直なところ、話の内容はどうでもよかった。
それより早くここから出たい。
二人しかいないような室内から。
「密かに憧れていた男性が彼女と結婚することが決まってしまって……私はさらにSNSへのめり込みました。いいね、を増やすことだけに。それ以来、目に入るもの全てに【♥】がついているように見えてしまうんです」
そこで、小林の話は止まった。
徐々に重苦しい沈黙が生まれる。
なぜか、呼吸をしても息が苦しい。
締め切った狭い室内に三人もいるからだ。
言い聞かせるように念じるが、息苦しさは解消されない。
沈黙に負け、吉田が顔を上げた瞬間、小林は告げた。
「記者さん。私もあなたのこと、いいね、しておきますね」
「は、はぁ……どうも……」
水中に滞留している死体が浮かび上がるように、小林はじんわりと微笑む。
吉田は薄気味悪さを誤魔化せず、わずかに視線を逸らしてしまった。
「でも、私は今幸せなんです」
「は、はい……」
いつの間にか、小林はペンを握っている。
太い黒のマジックペンだ。
子供が画用紙に絵を描くときに使う、きつい油性の臭いがするような……。
「いいね、がいっぱいだから」
そう言って、彼女は自分の左腕に【♥】を描いた。
「本日はどうもありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ遠くからありがとうございました」
取材が終わり、平島と別れの挨拶を交わす。
吉田は一刻も早く、この病院を立ち去りたかった。
後ろにある玄関口がやけに遠く感じる。
受付にいた初老の男性はいない。
「では、僕はこれで失礼します」
「ええ、さようなら」
平島は手を振りながら、笑顔で吉田を見送る。
足早に自動ドアを抜けると、二つの存在が出迎えた。
襦袢のようにねとりと身を纏う暑さ、泣き喚く蝉の声。
鬱陶しい高温や煩わしい騒音が、今となっては何よりも安心できた。
「編集長、戻りました」
週刊神河に帰社した吉田は、デスクにいる編集長の元へ向かう。
「で、取材はどうだった?」
編集長は原稿から目を離し、吉田を見る。
浜口伸也。
吉田が入社してから、ずっと編集長を務めている男だ。
初めて知り合いに会えた気がした。
吉田は内心ホッとしながら、宅石精神病院での一件を話す。
「こういったら何ですが、怖かったですね。小林初美さんも……なんというか、独特な人でした」
「小林初美……? 誰だよ、それは」
「……え?」
「つうか、なんで町祭りの取材が怖いんだ。お前、どこ行ってたんだよ」
浜口は訝しげに言った。
突如生まれた不穏な気配を打ち消すように、吉田はハッキリ話そうと思う。
だが、震えるような声しか出なかった。
「た、宅石精神病院ですよ」
「だからどこだよ」
話が噛み合わない。
「か、怪談の特集のため、山奥にある精神病院に取材へ行くように言ったじゃないですか」
「そんな取材命じてないぞ」
ポケットのスマートフォンからぴろんという音。
吉田が初めて聞く音色だった。
慌てて確認すると、吉田は凍りついた。
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ぴろんという音は止まない。
「おい、携帯うるせえな。社内ではマナーモードにしとけ」
「あ、あ……あ……」
吉田は何も言えない。
「お前、それ消しとけよ。みっともねえから……ちげーよ、携帯じゃねえって。それだよ、それ」
編集長は左腕を指した。
吉田が軋むように見ると、あのマークが目に飛び込んでくる。
【♥】
瞬きすると、二つに増えた。
いいね、がいっぱい 青空あかな @suosuo
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