第1話 空から降ってきたウサギ


 険しい山道を、全速力で突っ走る。


 風を切る感触。心臓が繰り返し跳ねる。

 草木がほとんど生えていない岩肌を蹴り、砂利を巻き上げ、少年は逃亡していた。


 少年の名は、シアン・イルアス。年は十七、青色の髪と瞳が特徴だった。


 ――あークソ! ついてねえなオレ!


 口内で悪態を吐く。前方に気を配りながら、同時に背後から追ってくる『敵』にも常に意識を向けている。


 シアンを追ってくるのは一言で言うと、汚らしい男だった。ぼさぼさ髪にひげ面、泥だらけの手足。銀色のセーターのような服を着ているが、それもあちこちに染みが付いている。


 リウ・ディートウィーアという名の、凶悪な賞金首だ。旅人を見つけては襲い殺害するという辻斬りのような男だった。


「――――」


 ヒュン、という風切り音。聞こえた時点で、地面を蹴って左に飛ぶ。直後、シアンのすぐ近くにあった岩が音を立てて砕け散った。


 進行方向を変えていなければ、シアンの上半身が同じ結果になっていただろう。後方から、リウの楽しそうな息遣いが聞こえてくる。


「はっ、うまく避けるじゃねえか。なかなか汚い逃げ足だ」


「それは褒めてんのか、貶してんのか!?」


「褒めてんだよ。悪くないぜ、てめえ」


 関心したように言って、リウは腕を振る。再び風切り音が鳴り、咄嗟に屈んだシアンの頭上を何かが閃いた。


 鞭のような軌道を描くそれは、束ねられた硬質のワイヤーだった。リウが着ている銀色の洋服の、手首部分から伸びている。


 ワイヤーは、一瞬で縮み服の中に収納されていった。リウが腕を振るう度に伸び、また縮む。


 リウが着ているのは、正確にはセーターではない。硬質のワイヤーが束ねられ、服の形をしているだけのものだ。繊維のように重なり合ったそれぞれのワイヤーは、リウの意思によって自由に伸び縮みする。


 ……リウの服は、『ストレイ』と呼ばれるものだ。


 ストレイとは世界各地で発見・発掘される、人々の技術では全く解析できない未知の技術で作られた道具だ。大半は使用者の思考を読み取って効果を発揮し、その力は物理法則すら無視してしまう。


 遥か昔、まだ世界に人がいなかった時代に、神の手からこぼれ現世に迷い込んできたとされている。故に、『迷い子ストレイ』の名で呼ばれていた。


 ――リウの得物は、ワイヤーで構成された服型ストレイ『硬線衣ルーズアーマー』……それぞれのワイヤーの長さも動きも使用者の自由に操作できるんだったか……。


 敵に関する記憶を頼りに、シアンは状況を分析する。


「……、」


 懐から、一枚の硬貨を取り出す。リウには見えない角度から、指で真横に弾き飛ばす。

 硬貨が岩に当たり、キィン……ッという甲高い音が響いた。


「ああ……!?」


 リウの視線が、一瞬だけ音の方へと逸れる。その一瞬のうちに、シアンは音と真逆の方へと走る。すなわち、リウの死角へと。


「なっ――!?」


 リウが視線を戻した時にはもう遅い。シアンの姿は、影も形もなくなっている。

 周囲に目を走らせるが、見つからない。完全に見失っていた。


 リウの口元が、ひくりとつり上がる。楽しそうに、肩を震わせる。


「はっ、なかなか小汚い技を見せてくれるじゃねえかクソガキが」


 ――いや、小汚いのはお前の方だろうが……。


 独特の言葉のチョイスを見せるリウを岩陰から盗み見て、シアンは嘆息する。


 敵の意識を誘導し、死角に逃げ込み潜伏する。音や気配を限界まで遮断し、決して敵に見つからないようにする。この手の隠密行動に関しては、昔からシアンの得意分野だった。


 ――我ながら地味な特技だとは思うけどよ……しかし、こっからどうするか。


 シアンとリウがいるのは、人気ひとけのない山の中腹にある比較的地面がなだらかになっている場所だ。いくつもの岩が乱立しており、シアンはその内の一つに身を隠していた。数歩離れた位置には崖が存在し、落ちれば転落死は確実だ。


 リウが手あたり次第に岩の後ろを探り始めれば、いずれ見つかる。かと言って警戒されているこの状況では、下手にこちらから攻撃するのも危険だ。


 一応シアンにも、攻撃に使えるストレイがあるにはあるのだが……。


「……ん?」




 ――――突如、リウ目掛けて人が降ってきた。




「ぐ……っ!?」


 まるで隕石でも落下してきたかのような、凄まじい威力のドロップキックだった。リウはワイヤーで覆われた腕で防いていたが、ある程度の衝撃は内側まで届いたようだ。


 たーん、と。ドロップキックを行った人物はリウの腕から軽やかにジャンプし、一回転して着地した。とても人間業とは思えないような蹴りを放った直後だというのに、動きに乱れは微塵もなかった。


「まさかガードされるとは思わなかったぞ。ボクの蹴りの練度もまだまだだな」


「――――、」


 岩陰から覗き見ていたシアンは、その姿を見て目を見開いた。


 美しい少女だった。

 年はおそらく十六、七ぐらい。あどけなさの残る目鼻立ちでありながら、深紅の瞳やきりりとした表情が力強さを感じさせる。羽織っている緑色のコートは前が開いていて、その内側ではラフなシャツと丈の短いズボンが覗いていた。


 だが何よりも目を引いたのは、少女の顔立ちや服装などではない。


 肩まである真っ白な髪に覆われた頭頂部。そこには、どう考えてもウサギのものとしか思えない耳が生えていた。


 ――あいつ……ユキア・シャーレイ、か?


 現れた少女を、直接見るのは初めてだ。だが、存在自体はシアンも聞いたことがあった。


 曰く。

 その少女は、人間ではなくストレイなのだと。

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