ビンタ令息の平手打ちを食らった令嬢の選択

アソビのココロ

第1話

 パシッ。


「えっ……」


 一瞬何が起こったかわからなかったけれども、すぐに理解した。

 頬を張られたのだ。

 婚約者であるエルトン・アクロイド伯爵令息に。


 唐突にだった。

 何かきっかけがあったわけじゃない、と思う。

 わたしに至らない点があっただろうか?

 エルトン様はいつも俯いているし、前髪で目を隠しているのでもう一つ表情が読みづらいのだ。


「あの、エルトン様?」

「ああ、パッツィーすまない。しかし申し訳ないが、これ以上は何も言えない」


 ふむ?

 エルトン様はいつ会っても冷静な観察者のようなところがあった。

 同時に焦っていたような。

 現在はそうした雰囲気は抜け、むしろホッとしているみたい。


 平手打ちという行為に罪悪感は少々あるが、後悔はないようだ。

 これは何かわたしの知らない事情がある。

 わたしのカンは当たるのだ。


 思い出したのは『ビンタ令息』という、エルトン様の悪名だ。

 エルトン様は過去二回婚約を解消しており、その原因がお相手に平手打ちしたからだという噂がある。

 だからマーシュ男爵家などという格下の家のわたしなんかに婚約の申し込みが来たんだと思う。

 いや、学院でのわたしの成績が優秀だからどうか? とは言われたけれども、そんなお世辞を真に受けてはいけないのが貴族社会だ。


 エルトン様が心配そうだ。

 前髪の隙間から見えるエルトン様の表情に、やはり以前の切羽詰まった感じはない。

 チラチラこちらを見てくる。


「パッツィー」

「はい、何でしょう?」


 しかしエルトン様に動揺は見られる。

 『ビンタ令息』の噂は本当で、わたしのカンによればそのせいで過去二度婚約解消に至ったのは間違いないな。

 では何故平手打ちなどという行為に及ぶのだろう?


 エルトン様と初めて顔合わせしたのは一ヶ月前。

 エルトン様の方が学院で一学年上ということもあり、存在は知っていたものの、それまでほとんど関係はなかった。


 顔合わせの時から、エルトン様は困ったような顔をされていた。

 前髪を伸ばした俯き加減の様子から、表情がよくわかったわけではない。

 あくまで印象が、だが。

 そう、印象的だったからよく覚えている。


 ……あれは家格の低いわたしを侮っていたわけでも、もちろんわたしに一目惚れしたとかでもない。

 優しさからくる憐憫の感情だ。

 どういうことだろう?


「いきなり殴ったのは僕の過失だ。非を鳴らしてくれていいんだぞ?」


 初顔合わせを含めて、今日で会うのは四回目だ。

 その後も同じだった。

 エルトン様はわたしに優しさのこもった憐憫の感情を向けてくるのだ。

 同時に徐々に焦りを募らせていたような?

 気になってはいた。


 父様はこの婚約を断ってもいいと言っていた。

 アクロイド伯爵家の家格は高いが、エルトン様には『ビンタ令息』の噂があるからと。

 しかし実際に顔合わせしてみて、エルトン様は情の深い人だと思った。

 犬の話をしていた時でも、庭を歩いていてさりげなく風除けになってくださった時も。

 わたしは自分のカンを信じることにしている。

 エルトン様と婚約した。


「婚約を解消したいならそう言ってくれ」


 エルトン様の声が小さくなっている。

 でもわたしは気付いた。

 ……わたしに向けていた憐憫の感情が消えている?


 何かわたしに問題があって、それはビンタとともに失われた。

 現在は婚約解消を提示されるのではないかという、わかりやすい不安に置き換わっている。

 と考えると話は通じるな。


「いえ、お気になさらず」

「えっ? そ、そうか」


 明らかに安堵した表情だ。

 いや、まだエルトン様の不安は抜けきっていないか?

 ……淑女としてはしたないとかもしれないが、少し突っ込んでみるか。


「エルトン様は婚約解消した過去がありますよね?」


 ビクッとしたように見える。

 が、覚悟は決まっているようだ。


「ある」

「お相手の頬を叩いたことが原因ですか?」

「ああ、間違いない」

「まず言っておきますが、わたしはエルトン様と婚約解消などとは考えておりません」


 エルトン様が顔を上げる。

 硬さが取れ、瞳に光が宿る。

 ああ、やはりエルトン様はいい人だ。


「一つ確認させていただいてよろしいでしょうか?」

「うむ」

「エルトン様はわたしの頬を張る必要があったとしか思えません。何らかの事情があって、理由を話すことができない。そういう理解でよろしいですか?」

「その通りだ! ああ、パッツィー! 君は何と素晴らしいんだ!」


 エルトン様に抱きしめられる。

 こんなに情熱的な人だったのか。


「僕をわかってくれる人が現れると思わなかった。今日は人生最高の日だ!」


 大げさですね。

 でも淑女をビンタしておいて理由を話せないでは、許せる人はいなかったのでしょうね。

 理由なんか知らなくてもいい。

 エルトン様にとっては嫌われようが悪評が立とうが、やらねばならぬ行為だったのだ。

 エルトン様が本当にいい人だとわかって、何だか嬉しくなってくる。

 カンを信じてよかった。


          ◇


 ――――――――――エルトン・アクロイド伯爵令息視点。


 五年前だったか、寝室にいた僕の前に神だか悪魔だかが現れた。

 見慣れない、強いて言えば聖職者に似た装いの、貼り付けたような作り笑顔の男だった。

 異常な存在感で一目で只者でないとわかるのに、不思議と驚きはなかった。

 そいつは言った。


『力が欲しいかね?』


 怪しいやつだ。

 うまい話に飛びついてバカを見るおとぎ話くらい知っているからな。

 僕だって当然警戒する。


『力を求めた時の代償は何だ?』

『特にない。ああ、特殊な力を持っていることを他人に話すのはやめてくれ。それだけ』

『……どんな力だ?』

『はっきり言ってしまうのはつまらないな。君を不快にさせるものが見える力、とでも言っておこうか』

『見えるだけか?』

『いいね。じゃあその不快さを取り除く力をセットであげよう』


 取り立ててデメリットはないように思えた。

 あのニヤついた顔を信じたのはバカだったと、後になって思ったものだが。


『力をもらおう』


 僕に取引を持ち掛けた超自然の存在は嫌らしい笑みを浮かべた。


『……これで君は能力持ちになった。使い方は自分で覚えてくれ。さらばだ』


 やつは消え去った。

 自分がもらった力はすぐわかった。

 一定距離以内に近付き人と目を合わせた時、人に取り憑いた『悪いもの』が見えるようになったのだ。

 『悪いもの』は不運や病魔等の卵のこと。

 孵化してしまえば手の打ちようがないことは、母を亡くしたことで思い知った。


 見えるだけでどうにもできないのか?

 いや、僕は取り除く力も持っているはず。

 随分後になってからだが、『悪いもの』を卵である内なら手で叩いて潰せることがわかった。


 『悪いもの』は、人の頭に重なるように存在している。

 一番弱い力で滅しようと思うと、対象者の顔を横からひっぱたく形になるのだ。

 所謂ビンタ、こんなの迂闊に使えないじゃないか。

 おまけに僕の持っている力は人に言えない条件付きだ。

 僕は『悪いもの』を放置する罪悪感とビンタの現実的なリスクの間で煩悶することになる。


 一年後くらいにもう一度現れたやつに聞いてみたことがあった。


『もし能力について他人に話したらどうなるんだ?』


 力を失うんだったらそれでいいと思った。

 やつは見るに堪えない醜悪な笑顔で言った。


『その話した人間に『悪いもの』が次から次へと集まってしまうね。おそらく除去しきれずに孵化し、苦しんだ末に死んじゃうよ』


 お、恐ろしい。

 絶対に話せないじゃないか。

 やつは悪魔に違いない。


 近距離で人と目を合わせれば、『悪いもの』が見えてしまうことがある。

 見えてしまうことも、その解決手段も僕の精神に負担をかけた。

 確かに能力自体にはデメリットがない。

 しかし何と意地の悪い能力だろう?

 僕は自然と目を伏せるようになった……せめて『悪いもの』を見ないように。


 そんな僕にも縁談の来る年齢になる。

 奇しくも最初に婚約者となった令嬢は『悪いもの』憑きだった。

 ……放っておけば二年以内に大きな事故に巻き込まれるだろう。

 ……彼女が僕を信じてくれるなら『悪いもの』を除去できる。


 ビンタしたら婚約破棄された。

 覚悟はしてたけどへこんだ。


 二人目の婚約者も同様だった。

 でも放っておくこともできないもんな。

 顔に虫が止まっていたからと言い訳してみたけどムダだった。


 構わない。

 彼女達が幸せな未来に向かえるならそれで。

 僕は泣くけど。


 うすら寒い笑顔を浮かべるあいつは何なんだ。

 何故僕にこんな力を寄越したんだ。

 おそらく遠くから見物して笑うつもりなんだろうな。

 悪魔とはそういうものだ。


 三人目の婚約者はパッツィー・マーシュ男爵令嬢か。

 可愛らしくて、とてもしっかりした令嬢という印象を持った。

 そしてまたしても『悪いもの』憑き。


 ……いい関係を築いてから祓うのならあるいは、と最初様子を見ていた。

 が、『悪いもの』の成長が早い。

 孵化までの猶予がない。

 このままだと三ヶ月でパッツィーは死ぬ。 

 パシッと彼女の頬を張った。


 ……よし、『悪いもの』はなくなった。

 婚約は解消となるだろうが、パッツィーには未来がある。

 せめて幸せになってくれるといいな。


 しかしパッツィーの反応は意外なものだった。


『いえ、お気になさらず』

『わたしはエルトン様と婚約解消などとは考えておりません』

『エルトン様はわたしの頬を張る必要があったとしか思えません。何らかの事情があって、理由を話すことができない。そういう理解でよろしいですか?』


 パッツィーの学院での成績がいいことは知っていた。

 が、考えていた以上に聡明な令嬢だった。

 俺はコクコク頷いた。

 ああ、こんな優れた令嬢が僕の婚約者だなんて!

 思わず抱きしめてしまった。


『エルトン様、どうされたのですか?』


 人目も憚らず……人目ってパッツィーしかいなかったけど……泣いた。

 全て報われた気がした。

 パッツィーを救えてよかった。

 パッツィーに救われてよかった。


 その日の夜。

 寝室にやつが現れる確かな予感がした。

 本当の意味で運命の相手を得たターニングポイントだったから。


「おや、待ち構えていたのかい? 趣味が悪いね」

「どっちの趣味が悪いんだかな」


 秀麗で醜悪な、独特な笑み。

 もう二度と会いたくないものだが。


「もう二度と吾輩に会いたくないと思ってなかった?」

「思ってた」

「なのに吾輩を待ち焦がれていたとは。キュンとくるね」


 勝手にキュンとしてろ。

 こいつのペースに乗せられてはダメだ。


「しかし驚いたよ。吾輩の意図を読んでいたのかい?」

「いや、そうではないんだが」


 こいつに持たされた超常の力が、何となく役目を終えた気がしたからだ。

 じゃあこいつが現れるのではないか?

 ごく薄い根拠だったのに、何故か実現すると思えただけ。


「君にあげた力だけどね」

「うん」

「大分楽しませてもらったよ」

「ああ、わかってる」


 やはり僕が苦しんでいるのを愉悦の対象にしていたんだな。

 悪魔め。


「いや、吾輩は悪魔のような低俗な存在ではないんだがね」

「そうなのか?」

「ああ、吾輩は『道化』と呼ばれている」


 『道化』?

 ちょっと意味がわからないけれど。


「君は君の救える人を救った。御苦労様。このままその力を持ち続けるか、あるいは吾輩に返すか、選択することができる」

「ほう?」

「ちなみに吾輩が君の前に姿を現すのはこれが最後だ。よく考えて選択したまえ」

「質問はいいか?」

「何なりと」

「このまま力を持ち続けた時と返した時、それぞれのメリットデメリットを教えてくれ」

「特にない。力を持ち続けた時は現在と同じ。返した時はまだ力を持っていなかった時と同じだよ」

「記憶はどうなる?」

「記憶を弄る権限は吾輩にないんだ」


 ということは?


「では力を返した後、能力について他人に話したらどうなる?」

「どうもならないよ。『悪いもの』を見ることも干渉することもできなくなるからね。他人に話した時のペナルティも同時になくなる」

「では力を返す」

「きっとそう言うと思ったよ」


 『道化』は優しい笑みを僕に向けた。

 こいつこんな顔もできるんじゃないか。


「さらばだ。もう二度と会うことはない」


 『道化』が消えた。

 これでパッツィーにビンタの理由を話すことができる。

 何となく心が軽くなった。


          ◇


 ――――――――――パッツィー視点。


 次にエルトン様に会った時、不思議な話を告白された。

 『道化』という存在にもらった超常の力の話。

 わたしが三ヶ月後には死すべき運命だったというのは、ちょっと信じられなかったけれど、エルトン様は真剣だった。

 話は信じられなくても、エルトン様なら信じられる。

 いや、信じると決めた。


 エルトン様は人が変わり、見違えるように明るくなった。

 伏せがちだった顔を上げるようになり、垂らしていた前髪を切り、にこやかに微笑むようになった。

 あれ? エルトン様すごくイケメンなんだが。


 学院でもモテるようになったエルトン様。

 こうなるとアクロイド伯爵家とうちマーシュ男爵家の家格の差が気になる。

 でもエルトン様は常にわたしを優先してくれるのだ。

 長年の悩みから解き放たれたのはわたしのおかげだからと。


 ……エルトン様の話してくれた内容が本当なら、助けられたのはわたしの方なんだけどなあ。

 申し訳ない気になる。


 ただ家格差がある婚約なのに、わたしが嫉妬されないのは理由がある。

 エルトン様の『ビンタ令息』の噂が消えていないからだ。

 おかげで他人に邪魔されることなく、エルトン様とわたしはいい関係を育んでいる。

 ……わたしにとって都合が良過ぎないだろうか?


 エルトン様は『道化』のことを悪魔みたいなやつだと言う。

 でもわたしにとってはエルトン様と巡り会わせてくれた、神様のような方だ。

 エルトン様と同じく、『道化』にも感謝したい。


 ありがとうございます。

 幸せです。

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