教室の本の虫、つついてみたら「愛しい妹」になりました。

玄瀬れい

第一章 体育祭編

第1話 ヘアゴム

 教室に1人。なつかしい感覚。中学に入ってからは初めてだ。いつも一人でいることに間違いはない。でも少なくとも人がいないなんてことはなかった。そういえばトイレに向かう前、教室を飛び出て行った男子達はみんな、手にハチマキを持っていた。あのハチマキは直近に控える体育祭のハチマキだった。いつも教室にいる女子達もことごとくいないし、もしかしたら、いや多分クラス競技の練習をしてるんだ。熱心だよなあ。いやいや関心してる場合じゃない。本にかじりついてるとはいえ、最低限の情報を知るために、人の話はよく聞いているつもりだし、盗み聞きだって心得ている。心得ざるを得なかったのが事実だけど。それでも誘いはおろか噂も聞かなかった。僕がトイレとを往復する間に決まったのか。

「わあ!」

 突如とつじょ後ろから肩を触られた。僕の顔をのぞき込んできたその声の主は、確か橋本さん…だった。印象にあるのは年度初めの自己紹介で唯一拍手をしてくれた人だからだ。なぜあんなにも静まりかえったのか、肝心な内容の方は覚えてないけど。

「いつもそうしてるけど、本、好き?」

 僕は肩を触られたとき驚いて乱れた髪を直しながら首を小さく縦に振った。僕の反応を見ると橋本さんは背後に回り、いきなり僕の髪をつかんできた。気弱な僕は抵抗できない。けど、思いの外、橋本さんはすぐに手を放してくれた。

「どう? 見やすくなった?」

 怖くて閉じていた目をあけると、視界はさっきまでと打って変わって広く明るくなっていた。

「本読むならその方が良いよ。しかも似合うじゃん」

 どうやら僕の長髪を結んでくれたらしい。

『似合う』

 その単純な褒め言葉が僕にはとても嬉しかった。

「じゃ、じゃあ、行くね。お邪魔しちゃってごめんなさい」

 橋本さんは皆のもとへ行くようだ。ハチマキを手に外へ走り出す彼女を引き止めることは出来なかった。長らく人としゃべってこなかった上に動揺しているからだと思う。それでも精一杯、走り去る彼女の背中に、首を横に振った。僕は彼女が出て行って少しして彼女が結んでくれた髪を解いた。外に行くのを諦めたわけじゃない。それに関してははなからない。落ち着かなかったわけじゃない。皆が戻ってきた後のことを想像するととても耐えられなかったからだ。

 ほどなくして、僕は席替えでたまたま橋本さんの隣の席になった。僕はあの日から毎日、本の影から橋本さんを観察していた。好奇心と警戒心だ。いや、圧倒的に後者の方が強い。理由は分からないけど関わるのが面倒に感じられた。でも、こうなってはそうもいかないだろう。そこで席替えの次の日、すなわち今日。僕は普段よりも早く起きて、自分で髪を結んだ。長髪にしておきながら、あの日から自分でしっかり髪を結ぶことはなかった。しかしながら、上手にできたと思う。学校についてからも、いつもと違う髪型なんて、いつもなら周りの目ばかり気にしてしまうんだろうけど、不思議と今日は耐えられた。彼女はいつもチャイムぎりぎりの時間に登校してくる。僕はそれまで平然を装おうと本を広げ文に集中した。頭の中に内容が入ってこなくて苛立っているとチャイムと同時に声が聞こえた。

 キーンコーンカーンコーン。

「せーふ!」

「アウトだぞ」

 そのやり取りに、はっと顔を上げ声の方へ目をやった。やはり彼女だった。そのときが来たのだ。彼女は先生に小言を言われながら僕の右隣にある自分の席に来た。朝礼が終わると、すぐに僕の方を見てくれた。

「可愛いじゃん」

 顔が熱くなってやっと、僕は自分がこの言葉を期待していたことに気づいた。

「それに私とお揃いだね!」

 気づいていなかった。橋本さんの髪型はいつも決まっていてセミロング。変えることは滅多にない。でも、今日は僕と同じ三つ編みだ。これでは橋本さんと僕が示し合わせたように見えてしまう。それも僕とだと、どんな噂が立つかわからない。気づけば顔の熱は冷めていて、無意識に橋本さんからこの前の休み時間借りたままだったヘアゴムに手が伸びていた。

「なんでよ。なんで外すの?」

 手をかけると、彼女は気まずそうに僕の手を上から掴んでそう言った。

「返さなくて良いから、そのヘアゴム」

僕はこの言葉の真意を掴めなかった。当分、人と話してこなかったから仕方がないんだと心の中で自分を誤魔化ごまかし、髪はそのままで一日を過ごすことにした。

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