第5話:誰がための魔力薬


 この街一番と誰もが太鼓判を押す薬屋は、Sランク探索者である魔術師イレーネの実家だった。


 イレーネの父親は、もともと性格に少々の気難しさを含んではいたものの、薬を調合する製薬術に長ける腕の良い調合師だった。


 イレーネがまだ幼かった頃に母親が事故で他界したことにより、男手ひとつで、しかし何不自由なく片親の寂しさを感じさせることなくイレーネを育て上げてきた。


 そんな愛娘が探索者になりたいと言った際、父親は当然のように猛反対したが、娘はそれに反発。


 魔術師としての才能に恵まれていたイレーネは実績と名声を積み上げることで半ば無理矢理に父親の猛反対を押し退ける状況を作り上げたのだ。


 探索者になることは認めない。とはいえ、父親と娘の関係が険悪になったわけではまったくなかった。


 娘はちゃんと日々を強くたくましく生き抜いてくれていた。無事に明日を迎えてくれていた。

 薬屋を営む父親のために製薬に必要な希少な素材をも難なく取ってきてくれていた。


 探索者としてのちからも名声も人望も、どこまでもどこまでも高めていく。


 父親である自分すら見上げなければならないくらいに、娘が高く高く遠い存在へと登っていく。


──そんな日々が続くにつれて、イレーネの父親は、油断してしまっていたのだ。


 イレーネなら大丈夫なんだ、と。さすがは自分の、自慢の娘なんだから、と。


……父親のなかで、娘が探索者であり続けることへの反発心が、いつしか心のどこかで薄れてしまっていたのだ。



──そのせいで、娘が姿で帰ってくることになるなんて、いったいどこの父親が想像するというのか。



「──……薬を……売っていただけ、ないでしょうか……っ?」


 イレーネの父親が娘の死を知らされてからも店を閉じなかったのは、娘と築き上げてきたこの薬屋まで失うのが怖かったからだ。


 だが今までのように探索者娘殺し共に薬を売ることに対して、イレーネの父親は不本意さと不愉快さしか抱かなくなってしまっていた。

 

 探索者用の薬はどれも強力なため、当然値段も一般人用のそれとは比べようもないほど高い。


 薬の材料となる素材の仕入れは探索者の活動により得られること。一般人だけの需要のみでは確実に赤字になること。


 薬屋という商売は、探索者無しでは立ち行かないほどの依存関係であることに、イレーネの父親は内心はらわたが煮え繰り返りそうな思いだった。



「……お、お願い……します……っ、薬を……魔力薬を、売ってください……」


 店にやってきた客がまた探索者なのかと思えば、薄汚く汚れたままのローブを纏った小僧──探索者娘殺しのカイルだった。



「──お前ッ!! どの面を下げてここに来たッ?! お前のような薄汚い娘殺しがうちの店の敷居を跨ぐだけじゃなく薬を売ってほしいだとッ?! どれだけ恥知らずなんだどれだけ性根が腐っているんだッ?!」


 魔力薬は、魔術の使用などで消費した魔力を少量ずつだが回復させることができる魔術師の必需品だ。


 娘を死なせておいてまだ探索者を続けていたのかと思うと虫酸が走る。

 カイルがひどくやつれているのは一瞥しただけでも分かった。そのまま苦しみながら死ねばいい。


「出て行けッ!!」と思わず手近にあった空き瓶を投げつければ、穢らしい小僧の額に直撃し、割れた瓶が額に薄い傷をつくった。


「──ッ、わ……っ?!」


 驚いた拍子に尻餅をついたそいつは、逃げ出すこともなく床に這いつくばって額を床に擦り付けるように頭を下げてきた。



「お……願い、しますっ、魔力薬を……売ってください……っ」


「黙れッ!! そんな薄汚い格好で店に這いつくばれば薬を売ってもらえるなんて思ったら大間違いだッ!! お前のために売る薬なんて一滴たりとも無いッ!! 」



「──聖女のためなんですッ!! 聖女は……ミリアムは、僕のせいで大怪我をして、あなたの薬が無いとすぐにも……っ、死んでしまうんですッ! だからどうか……お願い、します……ッ!!」



──薄汚く汚れた身なりのまま床に這いつくばる餓鬼が悲鳴のように声を上げて懇願する。


 その姿に、イレーネの父親は自身の心の奥底から言葉では言い表せないほどの怒り──殺意が込み上げてくるのがわかる。



 ミリアム、聖女ミリアムか。娘と仲が良かったパーティーメンバーの子だ。あの子は娘にも良くしてくれた。そんなあの子まで、こいつのせいで……ッ。


「……聖女の名前を出せば、売ってくれるとでも思ったのか……なんて下劣な奴なんだ……ッ、なんて卑しい奴なんだッ?! こんな奴に娘も、聖女も……っ、酷い目に……遭わされたのか……ッ!!」



 柔らかく微笑む聖女ミリアムの顔がイレーネの父親の脳裏に浮かんでくる。


 それと同時に、聖女に寄り添う娘の、イレーネの楽しげに笑う笑顔が花開き、色鮮やかに父親の記憶を呼び起こして彩ってしまう。


 生前の娘とその仲間の眩いばかりの笑顔に心が温かく満たされていくのを感じながら。


「……お前たちさえ……ッ、お前さえ居なければ……ッ!!」



──イレーネの父親は、床に伏したカイルの頭を踏みつけた。



「──ッ、ゔっ!!」


 イレーネの父親は、床に這いつくばって頭を下げる少年の頭蓋を踏み砕くつもりで踏みつけた。


──だが、少年の頭部は潰れることはなく、小さな呻き声をあげただけで済んでしまったことでさらに苛立ちが募る。

 

「このッ、私がッ、娘を死なせた探索者の面を、見たいとでもッ、思うのかッ?!」


 やつれきった少年といえど、探索者としての強靭な肉体が災いしているのか。


 痛みは感じても、何度踏みつけられたところで苦痛に耐えうるカイルの姿に、イレーネの父親の心は憎悪を湧き上がらせて止むことはない。


「──っ、ぐ……っ、ぅッ……ゔッ!!」



 床に平伏してただ薬を乞う少年に、躊躇うことなく加虐の限りを尽くす人物は、カイルにとって当然見ず知らずの人物ではないのだ。



──カイルは知っている。


 Sランク探索者の集うパーティーといえど薬は欠かせない。


 イレーネの父親が営むこの薬屋は『冠絶かんぜつ足跡そくせき』が──カイルがパーティーに加入する以前からずっと長く、長い旅路に寄り添ってきた薬屋だ。


 カイルが『冠絶かんぜつ足跡そくせき』に加入して初めてイレーネの父親と顔を合わせたときの表情を。


 探索者と名乗るには幼すぎる少年への驚きと不安と、それでもそんなものよりもずっと深い心配をカイルに向けてくれたその優しげな表情を。


 イレーネが探索者として活動することを最後まで認めることはなかったけれど、パーティーメンバーが薬屋から発つときにはいつだって「必ず無事に帰って来い」とつぶやいていたイレーネの父親の背中を。


──カイルはそれを知っている。



「──どうしてッ、お前が、ノコノコと、帰ってッ、来たんだッ?!」



──不器用ながらもずっと、『冠絶かんぜつ足跡そくせき』の歩みをずっとずっと見守ってくれていた優しい父親の姿を。


──カイルはちゃんと、知っているのだ。



「……どうしてっ、イレーネが……生きて……ッ、いないのに……ッ!!」


 床に額を擦り付けるように伏した頭部を土足で踏みにじられても、腹を蹴り上げられても、胸ぐらを掴まれて頬を殴り飛ばされても。


「……ぅ゛っ、あ゛……ッ!!」


……カイルは、無慈悲に振るわれる暴力に自分の身を晒し続けていた。


 それは成人男性の、一般人であるイレーネの父親の暴力に抗うことができないほどカイルが憔悴しきっていたからではない。



「……ごめ……なさい、ごめん……なさいっ、僕が……生きて……いて……ごめんなさい……っ」



──ただ、カイルは知っているからだ。


 いついのちが絶たれるかも分からない危険が付きまとう探索者という存在になった娘の身を、いつだって案じていたひとりの父親の優しさを。


 唯一の肉親である娘の死という、受け入れがたく拒み続けていた現実が訪れてしまった悲しみと絶望を。


 娘とともに在りながら、娘を助けることもできずに生きながらえた存在がいるということへの怒りと憎しみを。


 最愛の娘が心からいのちを預けるほどの仲であったパーティーメンバーに対して、情け容赦も躊躇いも罪悪感のひとつもなく、憎悪の限りを叩き込んでしまうほどに、イレーネの父親の心を壊してしまったということを。



……その責任が自分にある、ということを。


──カイルは、知っているのだから。



「……ごめん、なさい……っ、ごめんな……さいっ、ぼく……ゲホッ、ゲホっ……うッ、ぐ……ぁ゛」


 カイルの身体に大きな傷は付いていない。全身を打ちのめされる痛みがいつまで続いたとしても、身体は耐えられる。


──けれどその代償といわんばかりに、カイルの心はひび割れていく。欠けていく。砕けていく。


 それがカイルには堪え難いほどに痛くて、苦しい。


 向けられた憎悪と暴力の限りに、カイルの精神は耐えられない。



「謝ればッ、許されると、思うのかッ?! お前なんかの謝罪で、娘が帰ってくるわけがッ、ないのにッ!!」


 気難しくても不器用でも、父親なりの優しさを示していたイレーネの父親の心を変えてしまった罰を、カイルはその身のすべてで受け入れるしかなかった。


 拷問のように続く苦痛と悲しみのなかで、カイルは自身に向けられた憎悪に抗うという気力を、かけらも持ち合わせてはいないのだから。


──それでも。



「……どうか、助け……て、くださ……い」



──それでも。



「……助けて、ください……っ」



──少年は、願う。



「──……は? お前っ……お前ッ、娘を死なせておきながら──?!」



──少年は、ただひたすらに願った。



「──ミリ、アム……を、助けて……ください……っ、ぼくは……どうなっても……いいから……ミリアム……だけは……」



──たとえ何と引き換えにしても、願わずにはいられない。



「──……は?……ミリ、アム……? イレーネを、娘を……助けてくれなかったお前が……? 私にここまで、痛めつけられたお前が……?」



──カイルは、自らのいのちを投げ出すようにこいねがう。



「──お願いッ、します……っ!!」


 唯一無事に生き残った自分が、生き残ったパーティーメンバーであるミリアムという今にも消えてしまいそうな儚いいのちを繋ぐためだけに。



「──ミリアムを、助けてください」



──カイルは、自らのいのちを差し出すようにこいねがう。



「──あぁああ゛あぁあぁあああ゛ッ!!」


 イレーネの父親が頭を抱えながら咆哮を上げる。ついに怒りで気が狂いそうになっていた。


「──ッ?!」


 イレーネの父親の渾身のちからを込めた死力の、殺意に満ちた蹴りがカイルの腹に抉り込まれた。


「──うぐッ、え゛……ぁ゛ッ!!」


 さすがのカイルも腹の底から込み上げたものを口から吐き出した。


 カイルの口から吐き出された血反吐が薬屋の床に飛び散ったことすら構わず、イレーネの父親が狂ったようにカイルの全身を痛めつけくる。


「──ミリアムミリアムミリアムミリアムッ!! お願いしますッ?! 助けてほしいッ?! 薬がほしいッ?! 僕はどうなってもいいッ?! どうしてだッどうしてッ?! どうしてそうまでするお前がイレーネを助けてくれなかったッ?! どうしてお前が死ななかったんだッ?!」


「……さない、ごめん……なさいっ……ごめん゛ッ、ぐッ……ゔッ、あ゛……ッ!!」



──それからどれだけの時間がたったのか。


 頭を下げ這いつくばったまま動かなかったカイルを、イレーネの父親は我を忘れて怒りと憎悪と殺意に身を任せて足で踏みつけて蹴り続けていた。



「……ミリア、ム……ため、くす……り……」


 聖女のために。ただひたすら、カイルは血反吐を吐きながら懇願していた。そんなことがイレーネへの償いになるとでも思っているのか。


 一心不乱に暴力を振るい続けていたせいで、イレーネの父親は息が荒れて乱れてしまう。

 脳まで酸素が充分に行き渡っていないのか頭痛までしてくる始末だった。


「──帰れ……っ、聖女のためだといつまでも……よくもそんな嘘がつけるな……っ!」


「おねがい……ミ、リアム……くす、り……っ」


 絶え絶えの呼吸に血反吐が混ざり咳き込みながら。血反吐に塗れて、痛みに悶え苦しんでも。


──それでも文字通りに、死んでも動かないといわんばかりの少年の姿を、イレーネの父親は心の底から気持ちが悪いと思った。



「……なら、金額は通常の十倍払え。 払えなければ売ってやる気はない」



「……っ、あり……がとう、ござ……ます……っ」


 カイルは這いつくばったまま財布を取り出すと、提示した金額を震える手で躊躇いなく並べてくる。娘を利用して稼いだ薄汚い金だ。


「魔力薬だな、ひとつだけ売ってやるが聖女のためだ。 わかったら二度とその醜い姿を見せるな」


 そうしてイレーネの父親が薬を用意している間、カイルは自分に投げつけられて床に飛び散った瓶の破片を拾い集めて、暴力を受けている間に飛び散った血を丹念に拭き取っていた。


「ありが……とう、ございます。 本当に、ありがとう、ございます……っ、これ……で、聖女も、楽になると思い、ます……」


「……二度と私に、イレーネに関わるな」



 もう二度と来ないと思ったのに。それからも毎日毎日、そいつは醜い姿を見せて現れた。


 だから毎日毎日毎日口汚く罵ってやった、毎日毎日毎日毎日暴力の限りを尽くして毎日毎日毎日毎日毎日そいつに憎悪をぶつけてやった。


──毎日毎日毎日毎日毎日毎日。



 それでもそいつは、ただただ薄汚く汚れた十倍の金銭を躊躇いなく置いていった。

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