第6話 届く!届く!
幻獣は滅多に番(つがい)を得ない。
だが幻獣王には、番がいた。
長く生きてから出会った番は赤子だった。それからずっと側にいたが、百年経っても背丈は自分の胸ほどもなく、騒がしく、それでいて執着をしてくる。煩わしい子供としか見えなかった。
人間の魔法使いを側に置くのが気に食わないと仔犬のように吠えていたが。
ある日突然姿を消した。
世界中を探って見つけた、番の気配を微かに残す次元の割れ目が唯一の痕跡。信じることができずに翌日また足を運べば、そこに次元を貫く小さな穴が開いていた。
そこからはあっという間の、世界危機の始まりだった。
己の番こそ危機の原因ではと疑い、その精算を罪のない少女に押しつける罪悪感。番を失って初めて知った心身を押し潰すような寂しさ。少女がこの世界にいて番がいないことを理不尽に感じてしまう己の身勝手さ。そのすべてに苦しんだ。
王として、番として、負うべき罪だ。
だが結局耐え切れなかったのだ。
王位を退いたことを言い訳に、自分だけが会いたい相手を求めようとしている。
少女は帰れず、二度と大切な人に会えなかったのに。
すまない。
すまない、すまないと、幻獣王だった彼女の魂は、削り取られるように光を撒き散らし小さくなりながら、次元の狭間を飛び続けた。
見える光はすべてあべこべに渦を巻いて見える。
近づいてきたと思うと離れていく。
時は歪み、引き延ばされ、均一ではない。
目を覚ますと、とても寒かった。お腹も空いていた。
だが起き上がろうともがいても、手足は空中をふにふにと押すばかり。ずっと薄闇なのは目が開かないせい。
そのまま、ゆるりと意識を失いかけた時。
不意に大きな温かいものが彼女を掬い上げた。
恐ろしくはない。懐かしい香りがする。
こじ開けた目に映るのは見知らぬ人間だが。
「にゃあにゃあにゃあにゃあん」(卑小な魔力、幻獣の証のない姿、だが、ああよく生きていてくれた!)
私の番!
それきり、彼女は小さな思考から膨大な記憶を失った。
大きな手が頭を撫でる。安心して、喉が鳴った。
「猫、お前と会ってから、よく王のことを思い出す。偉大な王だった。認めてもらいたくて子供っぽく駄々をこねる僕には立派すぎる方だった。それで僕は、僕より弱そうなあの子を全部僕のものにして、立派な雄性になれると思ったんだ」
さっと手が伸びた。ひどいなと引っかかれた手を押さえて笑う番に、彼女はつんと顎を上げた。
「でも、あの子はいなくなり、僕は取り残された。忘れていたうちはよかったのに、思い出して仕舞うとだめだった。寂しくて、惨めで、申し訳なくて、どんどん参ってた。でもこの頃、僕をよく知らないはずの人にも、変わったなって言われる。猫、僕は、執着する相手を間違えたんだろうか」
番が、物入れから赤い鞄を出してきた。布で手慣れたように磨いている。
隙を見てつついたら、小さな傷ができた。
「だめだ、猫。これはあの子のものだから、って、言ってもわからないか」
「にゃあ」
それから番は何日も無口だった。そして、あるとてもよい天気の日に、その赤い鞄を持って家を出た。彼女を抱いて。
その老いた女を見て、彼女の魂に衝撃が走った。
少女の母だ。亡くなる前に見た少女の顔とよく似ている。だが寂しげで丸い背中はまるで違って、胸が冷たくなった。
鞄を届けようと番が言う。
腹が立った。
捻じ曲がった次元、歪んだ時、遠く離れた二つの世界。届く保証のない荷物だ。何より、あちらでは百年が過ぎ、あの少女はもうすでに亡くなっている。
いい加減なことを!
――だが、この赤い鞄は、初代魔法伯が広めた学徒用の鞄によく似ている。いや、先ほど付けた己の爪痕が、あの日魔法伯の子が背負っていた初代ゆかりの赤い鞄にも、ありはしなかったか。
つまり。
つまり二つの世界を渡る時に、再び時間は歪むのだ。それを他ならぬ己が知っている!
それならば、記憶の残片も力も、助力は惜しまない。
届く!届く!と猫は鳴いた。
「ねえ猫。この二十年で溜まった僕のなけなしの魔力を込めれば、きっとこのランドセル、どこにいるのか分からないあの子に送ることができると思う。何故だか、そう思うんだ。そうしたら僕はもう僕の世界には帰れないし……王にも会えないけれど。猫、君がいてくれたら、それでもいい気がするんだ」
その夜、ランドセルはこの世界から消えた。
青年は猫を抱き締めながら、忘れかけた故郷の歌を口ずさんだ。
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