プロローグ 旅への誘い

 帝都キング通りの一角。古い本屋の向かいの家に、貴重な古代エルフ語翻訳家バレンシアと彼女の夫リフマンは暮らしていた。白い外壁に黒い屋根。他の家々と同じく、夫妻の住処も帝都の伝統的な建築様式で建てられていた。帝国内の他の町では煉瓦や木製の家々が並んでいたが、ここ帝都では新しいものも古いものも含めて厳密な建築法に沿って建てられており、エルフの時代から変わらない景観を保っていた。


「まったく……また寝てる」


 厨房に入ると毛むくじゃらとオークの二人の使用人はぐっすり寝ていた。お客の為に用意しておいた菓子はテーブルの上に破片となって散らばってるし、炎の上で沸騰しきったポットが唸っている。


 バレンシアは小さなため息をつくと、使用人達を起こさないようにゆっくりと歩き、棚からカップと茶を取り出し、お茶を淹れた。


 テーブルに置いてある箱を漁るが、何もない。菓子は全て使用人の胃袋に入ってしまったようだ。


 バレンシアは茶が入ったカップをおぼんに載せ、居間に向かった。廊下に出ると御婦人の高い声と夫の乾いた愛想笑いが聞こえてきた。


 谷間の間で光るミスリルのペンダント、ブロンドの髪、透き通った肌、くっきりとした青い瞳、整った顔立ち。壁に掛けられた鏡に写るバレンシアは美しく可愛げがあった。彼女は前で笑顔を作り、居間に入る前に大きく息を吸った。


「お茶を淹れましたよ」


 バレンシアが入ってくると婦人の話を聞いていたリフマンは“助かった”という表情でバレンシアを見た。


 短く整えた髭に誠実さが溢れた顔。太った婦人と痩せ細った紳士の向かいに座るリフマンは、二つの戦争と三つの紛争に従軍経験のある帝国軍の元軍人だ。


「どうぞ、大佐」


「ありがとう」


 カップが来ても無反応な妻と違って、男はテーブルにお茶が目の前に置かれるとバレンシアに笑みを見せた。平均的なパラント人に比べて彼は老けている。老化が止まるのが遅かったのだろう。パラント人はエルフのように不死だが、いつ老化が治まるのかは個人差がある。


「良い香りだ。君が淹れたのか?」


「はい、ロスリン大佐」バレンシアは慎ましく微笑んだ。「御口にあうかはわかりませんが」


「いや、実に美味いよ」ロスリンは一口茶を啜ると、そう言った。「歌やエルフ文字の読み書きができるだけじゃなく、お茶を淹れるのも上手いとはね」


「ええ、まるで一流の使用人並の手際だわ」婦人はカップを啜り、そう言った。「私にはとても真似できないわ。使用人にやらせる仕事を自らこなすなんて」


 バレンシアは微かに微笑んだ。いくらゴブリンでも婦人の言葉が嫌味なのは分かる。彼女は黙って夫の隣に座った。


「ちょっと苦いわね」婦人は顔をひきつらせてみせ、カップを置いた。「私と主人は数十人の使用人を抱えててね。何から何まで彼らがやってくれるの。お茶の時間には専門の使用人が淹れた最高級のお茶が出てくるのよ、美味しいドラゴン・サンドなんかと一緒にね。お茶の時間に軽食が出てこないなんて、ありえないわ。でしょ? あなた」


「……どうかな? 帝国と我が国では文化が違うから」紳士はそう言うと、バレンシアを見た。「文化といえば、君も博物館勤務時代は良く苦労しただろう? 文化的違いってやつに」


「ええ、まぁあ」と、バレンシアは笑った。


 カデルと帝国は多くの点で違っていた。カデルの人々は帝国と違って入浴の際に湯船を使わないし、未だに奴隷制が合法だし、男女の間で明確な差と壁があった。男はいくら望んでも酒場や宿屋の店員にはなれなかったし、女はいくら素質があっても男の職業に就くことはできなかった。バレンシアがエルフ語翻訳の学者として博物館に招かれた際には多くの反発があり、彼女は在籍時代その対処に苦労した。


「君もな、少佐」ロスリンはリフマンを見た。「私と君は良く部下達の揉め事を収めるために奮闘したよな」


「ええ、そして良くぶつかりも」


「そうだったな」ロスリンは笑い、茶を飲んだ。「あの当時が懐かしいよ」


「ええ、まったくです」リフマンは笑った。



 三人の話が進むのとは対称的に、婦人の口数は圧倒的に少なくなっていき、最後には全く喋らなくなった。




「君達二人なら今回の出来事に飛びつくんじゃないかと思ってね。挨拶がてら来てみたんだ」


 大佐は帰る前に新聞を置いていった。新聞には『エルフの遺跡発見される! 博物館が調査隊のメンバーを募集!』との見出しが大きく書かれていた。


 カデル王都博物館調査隊。オンティニウス家夫妻は大冒険に巻き込まれようと──飛び込んでいこうと──していた。




 

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