クリスマスケーキとクリスマスツリー
大田康湖
第1話 夏夜の場合
あたしがシャワーを浴びて出てくると、彼の姿はなかった。姿だけじゃない。コートもカバンもだ。テーブルの上にリボンの付いた紙袋だけが残っている。あわててスマホを取り上げると、彼からのショートメールが来ていた。
『娘が熱を出したので帰らせてくれ。ホテル代は払っといた』
あたしはスマホをベッドの上に投げつけると、彼からのクリスマスプレゼントが入った紙袋を開いた。リクエストしたエルメスのコインケースだ。
「高校生がエルメスとは早すぎるんじゃないか」と彼は言ったが、大手企業の支店長をしているという彼にとってはお小遣いで十分出せる額だろう。それを分かっておねだりしたのだが、10歳の娘には勝てなかった。そんなに娘が可愛いのなら、どうしてマッチングアプリなんかに登録したのだろう。でなきゃ、あたしが彼と付き合うことなんかなかったのに。
あたしは体に巻き付けたタオルを解くと、着替えて部屋を出た。
あたしがホテルから外に出るのと入れ違いに、若い男女が腕を組んで入ってきた。
「良かった、部屋空いてるってさ」
女の子が男の子に呼びかけている。あたしのように、今日来なかったカップルがいるのだろう。
ホテルから出ると、渋谷の街はクリスマスに沸き立っていた。ランブリングストリートの狭い通りをあたしと同じくらいの年頃の男女がわらわら歩いている。通りのライブハウスではクリスマスライブの真っ最中なのだろう。黒いドアの向こうに着飾った若者たちが吸い込まれていく。
あたしは渋谷駅へと続く道玄坂を人にもまれながら下った。「夕食はいらない」と母に言った手前、このまま帰るのも惨めだ。大体、娘が父と同じ年の男と付き合っているなんて知りたくもないだろう。
信号の近くのコンビニ前では、サンタ服姿の若い男が似合わない白髭を付けてクリスマスケーキを売っている。
『昔は女の子が25歳を過ぎて結婚してないと「クリスマスを過ぎたケーキ」』と言われたんだってさ』
『なにそれ』
さっきここを通った時に彼とした会話を思い出す。
「ケーキ買ってってよ。冷蔵庫に入れれば明日まで持つよ」
必死に呼ばわるサンタ男の声が耳に突き刺さる。やはりあたしにエルメスは早かったんだ。質屋にでも売って彼のことは忘れよう。
あたしは彼に「さよなら」とメールすると、ケーキとサンタ男を救うため自分の財布を出した。
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