第288話

 ――この香り。陽平の……!?

 

 思ってから、「まさか」とすぐに打ち消す。

 ぼくは、庭の惨状を見回した。だって――こんな酷いこと、陽平がするだろうか? 

 陽平は、案外に繊細なやつだもの。彼が、わざわざ人の家にやってきて、こんな乱暴な真似をするなんて、想像もできない。

 

「……うっ」

 

 そう思うのに、鼻腔に薔薇の匂いがまとわりついてくる。

 四年間も、一緒に過ごしたアルファのフェロモンを……オメガのぼくが、間違うはずはなかった。

 

「……成、大丈夫か?」

「あっ……うん、全然!」

 

 電話を切った夫が、心配そうに見下ろしている。慌てて頷くと、宏ちゃんはぼくの手を引いて、歩き出す。

 

「セキュリティに連絡したら、すぐ調査に来てくれるそうだ。俺達は、ひとまず安全なところへ行こう」

「わかりました。……安全な所って?」

 

 下りてきたばかりの車に戻ってきて、ぼくはおろおろと尋ねる。宏ちゃんは、シートベルトを着けながら言った。

 

「俺の実家だ」

 

 

 


 

 一時間ほど、宏ちゃんが車を走らせて――ぼく達は、野江の邸宅に到着した。

 都会にあるとは思えないほど、静かで緑あふれる住宅街。広い道沿いに豪邸が並び……その中で、一際立派な邸が野江家、らしい。

 

「あわわ……」

 

 ぐるりと堅牢な塀で囲われた、要塞のような大豪邸に、ぼくはあんぐりと口を開けた。

 

 ――こ、こんな立派なお宅やなんて……名家、怖いようっ!

 

 宏ちゃんは、勝手知ったる様子でガードマンの人に合図をし、車で門を突破した。

 美しい庭木の並ぶ庭園の半ばにくると、車を降りる。待ち構えていた黒いお仕着せを着た人が、代わりに車に乗り込んで、どこかへ走り去ってゆく。

 

「宏ちゃん、車……」

「ああ、車庫に仕舞っといてもらうんだよ」

「ふあ……」

 

 何気なく言われて、まじまじと見慣れた夫の顔を見上げた。

 

「ん?」

「な、なんでもないよ~……初めてのお宅訪問で、緊張してるかも……」

「そうか。気楽な家だから、心配するな」

 

 それは絶対違う! と思ったけど、手を繋いでくれるのは有難かった。

 初秋の風の吹く庭園を歩き、立派な玄関のある洋館に辿り着く。小さな家が丸ごと入りそうな玄関に、足を踏み入れると――上品なお仕着せを着た老紳士が、出迎えに来られた。

 

「宏章様、おかえりなさいませ」

 

 宏ちゃんは親し気に笑い、片手を上げる。

 

「ただいま、じいちゃん。いきなり帰ってきて、ごめんな」

「いいえ、やっとお戻りくださって嬉しうございます! この老骨、もう坊ちゃまの顔を見ることもなく、死ぬることと思っていました。……おや、そちらのお可愛らしい方は、もしや?」

 

 眼鏡の下に、ハンカチをねじ込んでいた老紳士が、こちらを見る。

 ぼくは、ぴしっと背を伸ばした。

 

「この子は、成己だよ。俺の伴侶なんだ」

「初めまして、成己と申します。よろしくお願いいたしますっ」

 

 深く頭を下げると、老紳士は「ほほ」と好々爺然とした笑い声を上げはった。

 

「これは勿体ない。私は、こちらに長年お世話になっております、使用人頭の東と申します。宏章様のご伴侶に、生きているうちにお会いできるとは、望外の喜び」

「あ――ご丁寧に、ありがとうございますっ」

 

 温かく迎えて貰えて、感激してしまう。宏ちゃんが、ぼくの肩を抱いて笑う。

 

「じいちゃんは、あいかわらず大げさだなあ」

「何を。私のお育てした坊ちゃまですから、当然にございます」

 

 莞爾として、胸を張る東さんの顔は、どこか中谷先生に似ていて。宏ちゃんのことを、とても大切に想っているのが伝わって来たん。

 和やかなムードで笑い合っていると、低い声が割って入った。

 

「東さん。ポーチで和やかにされる前に、中に入って頂かないと」

「ああ、佐藤君」

 

 音もなく現れたのは、誕生会でお会いした佐藤さんのお父さんやったん。


「宏章様、成己様。いらっしゃいませ。災難に遭われましたね」


 宏ちゃんとぼくに端正な礼をし、佐藤さん(父)はスリッパを用意してくれた。

 

「いま、離れの方を準備させておりますので、まずは母屋の方へ」

「ありがとう。まず、母さんに挨拶したいんだけど、おいでですか」


 スリッパを履きながら、宏ちゃんが問う。


「はい。ご連絡を頂いてから、いまかいまかとご到着を待っておいでですよ」


 佐藤さん(父)がそう言わはったとき、ドタバタと雷のような足音が近づいて来た。




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