第252話【SIDE:宏章】

「……っ」

 

 小さな声がして、俺は目を開けた。腕の中に、身じろぐ気配がある。

 それから、ひゅうひゅうと、微かな風の音のような吐息が耳に届いてきた。

 

 ――成?

 

 そっと見下ろすと……腕の中の恋人は、苦し気にぎゅっと眉を寄せている。

 

「成……?」

「……ぅ」

 

 華奢な背を、優しく抱きしめた。

 呼びかけても、成は目を閉じたままだ。――眠っている。ただ、よくない夢を見ているらしい。間接照明に照らされ、ぼうと浮かんだ白い肌にはびっしょりと冷や汗が浮かんでいた。


 ――……起こすべきか?


 悩みながら、あやすように背を叩く。

 

「成。なる……」

「……うう……っ」

「大丈夫だよ」


 側にいるから……貝殻のような耳に、静かに囁いた。すると、成の手が縋るように俺のTシャツを掴んでくる。

 

「……にいちゃ……」

 

 伏せられた長い睫毛が濡れている。薄暗がりにも淡い色の唇が、小さく動いた。


 離さないで。


 象られた言葉に気づき、胸がずきりと痛くなる。

 

 ――また、あのときのことを……


 夢の中へも、お前を助けに行けたらいいのに。 

 せめて、肌からも思いが伝われと、ぴったり身を寄せる。

 冷たく濡れた首筋から、瑞々しい花の匂いが香った。清らかで、優しい成のフェロモン。――いっそ、さみしくなるほど。

 

「……」

 

 じっと、抱きしめているうちに……成の呼吸が安らかになり始める。寄っていた眉も、ほどけていた。

 

「すー……」

「……はぁ」

 

 穏やかな寝息に、ホッとする。


「おやすみ、成」


 よく眠れるように、華奢な体を抱え直した。

 ――このところ、成は悪夢に魘されている。

 目が覚めると忘れているのか……忘れたふりをしているのか、何も言わないけれど。


 ――怪我のショックのせいか? それとも……


 脳裏に浮かんだのは、『よかった』と呟いたときの、寂しそうな成の顔だった。


「……」


 じっと、眠る成を見つめる。……とても、かわいい。

 幼い頃、センターで遊び疲れて眠ってしまったときのように、安心しきった寝顔をしてる。


――だからこそ、余計に……


 成の左頬を覆う、大きな湿布と青痣が痛ましかった。

 馬鹿野郎の兄貴が、つけた傷だ。成は我慢強いから、「平気」と言っているが、食も細くなってしまっている。


「……ごめんな。痛い思いさせて」


 後悔に、胸がむちゃくちゃに掻き回される。


――俺が、あいつらに甘い顔をしたからだ。


 一生懸命、綾人くんを手助けする成が、かわいくて。

 何とか上手くいかせて、喜んで欲しかった。それなのに、かえってこんな酷い目に合わせちまうなんて。


――『宏ちゃん、綾人が笑ってくれたよ』


 心から嬉しそうな笑顔を思い出し、胸の奥からドロドロと怒りが沸き出す。


「いつも、なんで……お前ばかり尽くすんだ」


 傷に触れないよう、髪を撫でる。すると、


「……ひろちゃん……」


 成の顔が、ふわりと綻んだ。愛おしさに、胸が締め付けられる。


「俺だけはお前を守る。幸せにするからな」


 センターに運び込まれた夜――怪我の痛みに魘され……泣きながら、成はしがみついて来た。悲しい顔が、声が――過去、雨でずぶ濡れになりながら、必死に縋りついて来た幼い子供に重なる。


「離すわけない。お前は……あの時から、ずっと俺のものなんだから」


 ――喜びも、悲しみも、愛も全て。

 前髪をかきわけて、額の花にキスをした。




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