第239話【SIDE:???】

「若様、ご機嫌でいらっしゃいますね」

 

 鼻歌まじりにスマホを操作していたら、運転席の宍倉さんに尋ねられた。

 私は少し照れながら、頷く。

 

「はい。何といっても、ついに明日から生原稿展が始まりますからね!」

 

 本当に、この日の為に頑張ってきた。

 クソつまんない父の小言にも耐え、粛々と任務をこなし、友達にアリバイ作りも頼んだ。

 

 ――全ては、原稿展で、桜庭宏樹のサイン本を手に入れるために!

 

 グッと拳を握る。

 今年は、桜庭先生がたっぷりサインを書いてくれたって、軌跡社のホームページに告知されてたし。通いつめれば、一冊は手に入るハズ。

 宍倉さんは、目を丸くする。

 

「お忙しい身で、そんなに無理なさらなくても。若様のお立場なら、編集部に一冊取り置いて貰うこともできるのでは……」

「駄目ですよ、そんなの!!! 先生は神ですから! 私も神ファンとして、仁義は通したいんです」

「そういうものですか……」

「はい。それに、原稿展自体も楽しみなんですよ。今回も「編集Mの雑記帳」が掲載されるらしいんです。ホームページにサンプルが載ってたんですが、もうおかしくて」

 

 私は、思い出し笑いする。

 桜庭先生はミステリアスな作家だけど、雑記帳に出てくる先生は、チャーミングでマイペースな印象なんだよね。

 サンプルのエピソードは、六月下旬に桜庭先生の助手さんが休暇を取られ、Мさんが原稿の清書を任されたときの苦労話。

 

「桜庭先生の原稿は、助手さんしか解読できないって言われてるんですけど。是非、その原稿の解読チャレンジしてみたくて」

 

 熱く語る私に、宍倉さんは微笑ましそうな目をした。 

 

「では、少し遠回りをして帰られますか?」

「えっ?」

 

 ルームミラー越しに、宍倉さんの目が笑んでいてハッとする。ここからなら、遠回りのルートを取ると、軌跡社の前を通れるじゃないか。「ぜひ!」と鼻息荒く頷くと、宍倉さんはハンドルを切ってくれた。

 

 軌跡社の前につくと、私はいそいそと車を降りた。

 

「車を停めて参りますので、ごゆっくり」

「ありがとう、宍倉さん!」

 

 笑顔に手を振って、正面玄関まで小走りに近づいた。

 見かけは、昔ながらの小さなビルだけれど、ここであの作品たちが生み出されるのかと思うと、花壇の花さえもクリエイティブに見える。

 

「おお~」

 

 両開きのガラス扉には、「原稿展」のポスターが貼られていて、俄然テンションが上がった。――明日は、ここのどこで展示されるんだろう? お邪魔になってはいけないから、中に入ったりしないけど、少し見るくらいは許して欲しい。

 垣間見える社内には、所属クリエイターの作品のポスターがたっぷり貼られているみたい。

 

「あっ! 桜庭先生の新刊のポスター貼ってんじゃん! 本文の抜粋、相変わらずセンス最高だなあ」

 

 これが、明日は間近に見られるんだな。

 感激していると、駐車場に車が入って来た。……ワゴン車で、胴体にお店の名前が書いてあるから、仕出し弁当屋とかかもしれない。

 

「やべ、どかなきゃ」

 

 扉に張り付いてる学生服の子どもは、どう考えても不審だから。そそくさと離れると、車から降りてきた人が目に入った。

 

 ――あれ? あの人って……野江さんでは?

 

 あの並外れたタッパと顔面、間違いない。パーティで何度かご挨拶したことがある――たしか、次男の宏章さんだ。

 浮世離れした長髪にラフな格好は、とても出版社に用があるように見えないけど、進行方向はこっちだった。

 てか――めっちゃ、気まずいな、野江さんとか。

 私って言うより……私の家が、この人の奥方に一方的に失礼してることがあるんだよね。

 

 ――もう、やだ~! あいつの呪いが、こんなときまでさぁ!

 

 せっかくいい気分だったのに!

 でも、次期当主として、すたこら逃げるわけにも行かないんだよ。私は観念して、石段を駆け下りた。

 

「……あれ?」

「ご無沙汰しております、野江さん!」

 

 野江さんの前に躍り出て、頭を下げる。何はともあれ、目下からの挨拶は基本だし。

 

 ――てか、側に寄ったら、ますますでけぇなこの人……

 

 すると、野江さんはにこやかな笑みを浮かべて会釈した。

 派手な外見の威圧感が、さっと吹き飛ぶ。

 野江家では夫人方を抜くと、断然気さくそうなのが宏章さんなんだよね。だからって、油断して良いかって言うと、ありえないんだけど。

 

「やあ、こんにちは。意外な場所でお会いしましたね」 

「はいっ。こちらの原稿展が楽しみで、下見に参りまして。野江さんはお仕事ですか?」

 

 口にしてから、「しまった」と青ざめる。

 仕事のわけないじゃん! 野江の宏章さんて言うと、ろくに働かないでふらふらしてるで有名なのに。

 

「ははは。僕も似たようなもんですよ。お好きなんですか、ここの作品」

「そ、そうですか。はい、もう桜庭宏樹のファンで……」

 

 へどもど話しながら、嫌みに取られてないらしくホッとした。

 ついでに、野江さんが私に嫌悪感を持たれてない様子にも。……兄のしでかしたことが、当家全体のイメージダウンになってたらどうしようだし。

 

 ――……謝罪したいけど……用事みたいだし。私みたいなガキが、さらっと謝罪出来ることでもないし。改めての方が良いよね。

 

 そうと決まれば、退散だ。――私は頭を下げ、別れの言葉を述べる。

 

「お引止めして申し訳ありません。それでは、失礼いたします」

「ああ、こちらこそ……」

 

 そそくさとその場を去ろうとすると、後ろから声をかけられた。

 

「あ――待ってください」

「え?」

 

 ぴた、と立ち止まる。

 野江さんは、にこやかな笑みを浮かべて言った。

 

「少し、お時間を頂けますか?」

 

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