第207話【SIDE:陽平】

 その夜、晶が訪ねてくるまで、俺は悶々としていた。  

 

『よ。忘れ物』

『あ……悪い』

 

 投げてよこされたスマホに、目を丸くした。晶のバッグに間違えて入っていたらしい。

 

 ――……成己が、何か言って来てるはずだ!

 

 逸る気持ちで、履歴を確認すれば、成己からの連絡はなかった。――電話も、メッセージも一切。

 話し合うつもりは無い、と言われた気がして、スマホを持つ手が震えた。

 

 ――『陽平と喧嘩してるのが寂しいなーって……』

 

 そう言って、笑っていたくせに。なんで、何も言って来ない。

 あの男の為なら、俺のことはどうでもいいってことか……?

 たまらなくなり、乱暴にスマホを放ると、晶が不思議そうに首を傾げた。

 

『陽平?』

『ああ……何でもない』

『……ばーか』

 

 知らぬふりをすると、晶は笑って俺の頭を抱いた。

 芳醇なフェロモンに包まれて、ふっと意識が軽くなる。腹の奥に熱が疼きだし、慌てて押しのけようとするも……晶はますます抱擁を深くした。

 

『甘えろよ。弟だろ』

 

 そう言って、子猫のように体を擦り合わせてきた。――じんと脳が痺れ、気分が酩酊し始める。

 俺のフェロモンが晶の発情を落ち着かせられると気づいたのは、共にいるようになって直ぐの事だった。以来、晶の体が騒めくと、こうして香りを重ね合うことで、宥めてやるのが習慣になっている。

 そして、その行為はアルファの俺にも一定の効果があった。俺にだけ、心を許す晶の姿は、自尊心をくすぐる。

 

『成己くんはさ、なんで気づかないのかな。お前がどれだけ、彼を想っているか……』

『……!』

『お前みたいな奴が婚約者なら……どんなに幸せかって思うのに』

 

 晶は優しい言葉で、俺を甘やかした。――こうしているときだけは、素直になれると言って。これが晶の本音だと思うと、誇らしさが湧きあがった。

 同時に、成己への落胆は深くなる。

 

 ――……成己がわからない。あいつは、あんな奴だっけ。

 

 もっと柔らかくて、優しい奴だと思っていたのに。「婚約しよう」と言ったとき、涙を流していたのは、何だったんだろうか。

 どうにも空しくなり、痩身をかき抱いた時――ひと際、香りが強くなった。

 

『陽平……』

『晶?』

 

 晶の黒い瞳が潤んでいることに気づく。まずい――そう思ったときには、唇が重なっていた。

 

 

 

 

 ベッドだったのも、まずかったのだろう。気がつけば、俺たちは縺れるように、互いの服を脱がせていた。晶の唇が急かすように、俺の下腹に触れた時に、頭の芯が弾けて。

 後はもう、熱に浮かされるまま、晶の体に溺れていた。

 

『陽平、来て……』

 

 初めての事だったが、晶が全て導いてくれた。しどけなく投げ出された体を、どう扱えば喜ぶのか……望まれるままに動けば、あいつは素直に反応し、乱れた。

 

『ああ、もっと……!』

 

 あまりに淫らで、我慢がないと言えるほどで、普段の晶とはかけ離れた姿に、驚かされる。

 けれど――とてつもなく、自己肯定感が高まった。自分は、オメガを喜ばせられるアルファなのだと……成己と抱き合ったことが無かった俺は、知らなかったんだ。優越感と征服感で頭が真っ白になり、何度達してもやめられそうになかった。

 

『陽平、好き。もっとちょうだい……』

 

 晶は、俺を離すまいとしがみついた。かつて、「顔も見たくない」と罵った俺を、必死になって求めている。

 

 ――俺は必要とされている。

 

 白い肌からは、絶えずフェロモンが香った。熟した果実や薔薇のように甘く、官能的で……理性さえ酔わされるようだ。嫌なことも辛いことも無くなって、”それ”しか考えられない。

 確かに、こんなものを嗅げば、我慢出来るはずがない――そんな風に思った。

 

『晶……!』

 

 白い体をかき抱き、奥に熱をぶちまけた。胸の奥のわだかまりが、解き放たれて――頭の芯が落ち着いていく。

 そうして、我に返った。

 

『あ……』

 

 晶は、朱に染まる全身を投げ出し、甘い息を吐いていた。しどけなく開いたままの脚の間から、行為のなごりが溢れ出し、シーツを汚す。

 

 ――やってしまった。

 

 全身の倦怠感を感じながら、妙に冴えた頭でそう考えた。晶に当てられてしまうなんて、なんてことをしたのか。これでは、信頼関係は無茶苦茶だ。

 ドクンドクンと心臓が激しく鼓動する。ようやく、成己の顔が浮かんだ。悲し気なはしばみ色の目が逸らされ……腹の底が冷たくなる。

 

 ――ちがう、俺は……!

 

 激しく頭を振ると、しゃくりあげる声が聞こえてきた。

 見れば、晶が激しく嗚咽している。さっきまでの陶然とした気配はどこかへ消えて、悔し気に体をかきむしっていた。

 

『嘘だ。俺は……お前とまで、こんなことになるなんて!』

 

 晶は、本意では無かったらしい。弟の俺と抱き合った事に絶望し、「死にたい」と泣き喚いた。

 求められたと思ったのは、全て勘違いだったんだ。――自惚れていた自分が恥ずかしく、居たたまれなかった。一瞬、晶をぶん殴りたい衝動に駆られ、自分にぞっとする。

 俺が晶を追い詰めたのに、なんてことを。

 

『もう、殺して……うあぁぁ!』

『晶……頼む、そんなこと言わないでくれ』

 

 俺は、必死に晶を宥めた。――俺とお前に間違いは起こらなかった。これは、セックスではなく治療行為なのであって、俺たちは何も変わらない、と何度も言い聞かせた。

 こじつけじゃない。晶の心を守るためだ。それに、俺だって……晶を助けるためにしたことなんだ。でないと、晶は発情で苦しむことになり、襲われる危険だってある。

 効果は覿面だった。……次第に、晶は落ち着きを取り戻し、泣き止んだ。

 

『そっか……これは治療みたいなもの、だよな』

『ああ。やましいことじゃない』

『ふふ……そうだな。セックスなんかじゃない。お前は、成己くんのことが好きなんだから……』

 

 晶はかぼそく呟いて、悲しそうに笑った。いじらしい様に、強張っていた感情が解けていく。――晶を守らなければと言う思いが、新たに胸に兆すのを感じた。

 


 

 それからだ――俺たちが、体を重ねるようになったのは。

 一度吹っ切れると、晶は積極的に俺に挑んできた。最初のとき「死にたい」と言ったのを、悪いと思ったのかもしれなかった。

 

『なあ、覚えとけよ。俺はお前だから……良いと思うんだぞ』

『……ああ』

『あの人の前で、こんなことしないんだからな……』

 

 その言葉を証明するように、ゆっくりと腰を落とし、乱れて見せる。――それが、俺への信頼の表れだと言うように。

  

『俺を思ってもない奴に抱かれると、死にたくなる』

 

 婚約者との情事を嘆く晶は、俺しか頼れない。そして俺は……そんな晶の助けになりたいだけだ。

 だから――俺たちは、間違っていない。

 そう思っていた。

 

 


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