第181話

 ぼくは、息を飲む。

 

「宏兄、それって……」

「悪い。怖かったな」

 

 宏兄は、ちょっとばつが悪そうに目を逸らす。大きな手で唇を覆っているから、見えなくなってしまったけど。

 

 ――さっきのって……アルファの牙。


 オメガに花の紋様があるように、アルファにも特殊な身体特徴があるねん。

 それが、「牙」。

 アルファの犬歯は、大きく発達しているんよ。

 そして、それは……アルファの本能が昂ったとき、さらに鋭く伸びて、獣の牙みたいになるんやって。――オメガの項を穿つために。


「わあ……」


 ぼくは、かああと全身が火照った。ドキドキと、心臓が早鐘を打っている。


――宏兄……!


 宏兄は表情豊かで、よく笑う人。けどね、ぼくに歯を見せることも、あまり無かったん。

 牙が伸びてなくても、アルファの犬歯は鋭いから。オメガのぼくを脅かさないよう……紳士的に振る舞ってくれていたんやと思う。

 せやのに。


「……宏兄っ」

「うお」


 がば、と飛びついた。勢い余って、タックルになって――宏兄を、押し倒してしまう。

 ぼふん、と二人してマットに倒れ込んだ。


「宏兄、宏兄っ」

「うん。……どうした?」


 馬鹿みたいに呼びながら、ぎゅう、と首にかじりつく。

 宏兄は驚いて、目を丸くしてる。


――宏兄……ぼくを、宏兄のオメガにしたいって、思ってくれたんや。


 胸が、きゅうって苦しい。

 ぼくは嬉しさのあまり、ぐりぐりと肩に頭を押し付けた。


「えへへ……」

「成?」


 宏兄は、ぼくのテンションに戸惑っているみたい。大きな手で、落ち着かせるように、背中を撫でてくれる。

 広い胸に凭れていると……宏兄の唇に、きらりと光るものが覗いた。

 どきん、と鼓動が跳ねる。


「……宏兄。見せてっ」

「ん?」


 ぼくは、ずいと身を乗り出した。大きな体に乗り上げて、そっと両頬を包む。

 宏兄は、僅かに目を見開く。


「……!」

「宏兄の牙、見たいっ。……見てもいい?」


 じっと見つめると……宏兄は少し苦笑した。穏やかな目で、頷いてくれる。


「いいよ。お前の好きなように」

「やった……! ありがとう」


 許されたのが嬉しくて、頬が緩んだ。ぼくは優しさに甘えて、宏兄の唇を親指でそっと引っ張った。


「わぁ……」


 思わず、感嘆の声が漏れる。

 上唇から覗く、長い牙。――すごく鋭くて、尖ってる。真珠みたいに綺麗なのに……鋼鉄も噛み切れそうや。

 

「すごい……こんな風に……」

「……怖いか?」

「ううん……!」


 ぶんぶん、首を振った。――ほんとうに、怖くなかった。

 授業でならったとき、どんなやろうって思ってた。

 怖いのかなって。痛いのかなって……でも。


 ――こんなに、心がときめくんや。


 初めて見た、アルファの牙。宏兄が……ぼくを、オメガにしたいって思ってくれた、証――


「うれしい……」


 じわ、と瞼が熱を持った。嬉しくて……宏兄が、ぼくの為に、こんな風にしてくれたことが。


『お前なんか、妻にしたがるアルファはいねえんだよ……!』


 切りつけられた傷が、熱く潤む。鋭い牙に、そっと触れた。――宏兄は、優しい目でぼくを見る。


「ぼくなんかに……」

「……お前だからだよ」


 喉が、ひくりと鳴る。

 ぽろりと涙がこぼれ落ちた。


――ぼくのこと、求めてくれたん? 子供っぽくて、やせっぽちで。そんなぼくなのに……?


 今だって。こうして……好きにさせてくれることも。

 全部、嬉しい。


「……宏兄っ」


 お腹の奥が、きゅうって甘く痺れる。息ができないくらい、切なくて――ぼくは、気づいたら身を屈めてた。


 ちゅ。


 宏兄の牙に、キスする。

 鋭く、硬い感触が唇に触れて――はっと我に返った。


「あ……!」


 宏兄と目が合って、頬が燃え上がる。


――ぼ、ぼく……なんてこと……!


 おろおろと顔を背けた。


「ご、ごめんなさい……!」


 なんてはしたない真似を。宏兄の顔が見られなくて、体から下りようとする。

 そのとき、ぎゅっと腰を抱かれ――くるん、と視界が回転した。


「えっ」


 ぽすん、と背中がマットに沈む。天井を背負った宏兄が、ぼくを見下ろしていた。


「なーる。もう満足したのか?」

「あ、あの……?」


 宏兄は、どこか面白がるような笑みを浮かべている。

 頬を撫でられて、肩が震えた。息苦しいほどドキドキして……


「――じゃあ、そろそろ俺の番」


 楽しそうな囁きのあと、言葉が奪われる。

 深く合わされた、唇のなか――溶けそうに舌が絡んだ。自分じゃ触れられないところまで、優しくさぐられて……


「ふ、う……っ」


 ぞくぞくって、背筋が何度もふるえた。


――すごいっ……きもちいいよう……


 甘い感覚に酔わされて、意識が薄れそうになり……ぼくは、必死にしがみついた。

 

「宏兄……」

「可愛い……もっと見せて」


 額の花に口づけられ、声が漏れる。宏兄の手は、ぼくの項を、肩を撫で……それから、バスローブの襟に滑り込んだ。


――あ……!


 花びらが開くように、襟が肩を落ちていく。――ぼくはびくりと慄いて、宏兄の腕にしがみついた。


「待って……っ」


 ぼくの体、宏兄に見られちゃう。

 ――気に入ってもらえなかったら。不安で、宏兄の袖を離せずにいると……そっと顎をすくわれた。


「……成、好きだよ」


 唇に、ふわりとキスされる。……ぼくの怯えごと、包むように、優しい感触。


「あっ……宏兄っ?」

「俺に見せてほしい……お前のことを、全部」


 額にも――熱る頬や、首筋にも。ふわふわと、花のようにキスが降ってくる。


 ――……あったかい……


 唇で、愛でられているみたい。

 そうされているうちに……おなかの奥から、甘い熱が溢れてくる。

 むき出しになった肩にくちづけられ、吐息が震えた。


「あ……」

「……怖くないから」


 ぎゅっと、抱きしめられる。大きな体に包まれて、守られているように思う。そして、優しい森の……宏兄の香り。


――宏兄なら……怖くない。

 

 大きな肩にしがみついて、ぼくは……こくりと頷いた。

 バスローブの紐に手がかかるのを感じても、もう怖くなかった。



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