第179話

――ぴちゃ……


 お湯をすくって、肩にかける。じんわりと熱がしみて、深い吐息が漏れた。


「はあ……」


 ……あったかい。広々とした湯船で、どこまでも体が伸びてっちゃいそう。浴室は、大きな窓から昼の光が差し込んで、とても明るい。

 ぼくは、お湯の中で揺蕩う自分の体を見下ろした。


「……う~」


 ぱちゃん、と顔をお湯に沈める。ぶくぶくと息を吐いて、金魚になった気持でいると……さっきのことが頭に浮かんでくる。


――すっごい、ドキドキした……


 着物を脱がせてもらったときの、宏兄の目。――すごく熱かった。たくさん、キスしてくれるときみたいに……。


「うう~」


 恥ずかしくて悶える。パシャパシャとお湯が跳ねた。


「でも、宏兄も、ドキドキしてくれてるのかな。そやったら、いいな……」


 きゅ、と両肩を抱く。

 胸が苦しいくらい、高鳴ってた。これからのこと、すごく不安で、緊張してる。でも――同じくらい、期待してる自分がいて。


――こんな気持ち、はじめて。どうしちゃったんやろ……?


 なんだか恥ずかしい。宏兄が知ったら、はしたないって、思われるかな。


「……宏兄」


 ……でも、もっと側に居たくて。――抱きしめて欲しい。本当は、陽平から庇ってくれたときから、ずっとそうしてほしかった。

 ぼん、と頬が燃え上がる。


「……あかんっ。のぼせちゃう!」


 迷いを振り切るように、お風呂から上がった。

 ふかふかのタオルで、火照った体から水滴を拭い、髪を包んだ。

 人生初めてのバスローブを、素肌に羽織る。しっとりとして、安心感のある重みに、目が丸くなる。


「わあ……!」


 バスローブって、こういう感じやったんや。

 映画やドラマの登場人物になったようで、わくわくする。

 髪を乾かして、外に出ると――



「宏兄!」


 リビングのソファで、宏兄が腰掛けていた。まだ、お買い物かと思ってたから、どきりとする。

 宏兄は、大きなソファに悠々と、新聞を読んでいて。

 なんだか、すごく大人の男性に見えて、ドキドキしたん。


「おう。成」


 宏兄は、すぐにぼくに気づいて、新聞をぽいと放り出す。

 ぼくはハッとして、スリッパをぱたぱた言わせて、駆け寄った。


「ご、ごめんね! のんびりしちゃった」

「何言ってるんだ、ゆっくりしてくれ……それに俺も、今戻ってきたとこだぞ」


 宏兄は大らかに笑って、じっと目を細めた。眩しいものを見るように。

 ぼくは照れくさくて、もじもじと俯いた。


「あったまったか?」

「うんっ、すごく……」


 頷くと、宏兄は立ち上がった。ぼくの髪に触れるか、触れないか……大きな手が近づいてくる。

 どきりとして、肩を竦めると――宏兄は言う。


「髪、洗ったんだな」

「う、うん。お風呂やから」


 え。違うのかな? おろおろしていると、宏兄はくすりと笑った。


「いや、いつもと違う香りが新鮮でさ。バスローブ姿、可愛いな」

「……えへ。初バスローブ、快適ですっ」


 嬉しくて、ぱっと手を広げる。


「あはは。良かったなぁ。じゃあ、俺もさっぱりしてくるかな」

「うん、ゆっくりしてきて! お風呂、すごく良かったよ。眺めもよくてね」


 ふざけて、背中をお風呂まで押して行くと、宏兄はくすぐったそうに肩を震わせる。


「そうか、そうか。あ……新しい下着と服。クローゼットにあるから」

「わ、ありがとう」

「俺としては、そのままでいいけどな」


 えっ。


 ぼくは、ぎしりと固まる。宏兄は、横目にほほ笑んで、お風呂場に入っていった。









 どう言う意味ですか、宏兄さん……!


「うう……」


 初めてのウォークインクローゼットやけど、感動する心の余白がないっ。

 パンクしそうな頭で、ぼくは衣装棚を漁った。すでにタグの切られた服と、下着が丁寧に納められてる。


「……」


 ぼくは、新しい下着を手に取る。

 着てきたものは、ランドリーに出してくれるそうで……実はいま、何も履いてないん。

 下着無しは落ち着かないから、凄くありがたい。


――俺としては、そのままでいいけどな。


 顔が、ぼっと熱る。

 ぎゅう、と下着を握りしめて、へたり込む。


「ど、どうしたら。でも、裸でいるのも恥ずかしいし……」


 というか、シンプルに意味が気になる。やっぱり、"そう言うこと"なの?

 どっどっ、と早鐘を打つ心臓が、飛び出してきそう。


「じゃあ、履いたら……なんか拒否したみたいになるかな? でも、万一開けたら、恥ずかしいし……」

 

 うんうん悩んでいると、大きな姿見が目に入る。映ってるのは――下着を握りしめて、難しい顔をしてるぼくで。


「ひえ」


 シュールな絵面に、ちょっと恥ずかしくなる。

 ぼくはおずおずと、小さな座椅子に腰をかけた。……シャワーの音が聞こえてくる。

 この隣が洗面所だから、近くに宏兄が。

 落ち着かなくて、視線を巡らすと……眩い白が目に飛び込んできた。


「……あっ、やっこさん」



――お義母さんの、お着物。


 壁面のハンガーフックに、大きく腕を伸ばした格好で、着物が干されていた。帯や長じゅばんも。


「……わあ」


 近づいて見ると、しわなく伸ばされた布地が淡い照明の光を受け、しっとりと光ってる。


「お義母さんがしてあったみたい。……宏兄も、着物着るんかなあ」


 そんなことを、ふと思う。

 顔を寄せると、かすかに森の香りがした。たくさん、抱きしめて貰ったからかも……

 きゅう、と胸が震える。


「――どうした?」

「ひゃあ!?」


 しっとりと熱を孕んだ、芳しい木々が香る。いつの間にやってきたのか、宏兄が後ろに立っていた。


「も、もう出たん?」

「もうってこともないぞ。何かあったか?」


 大きな笑みを浮かべ、宏兄が言う。ぼくと同じ、バスローブを纏ってる。湯上がりの浅黒い肌を直視できなくて、着物に向き直った。


「う、ううん! 綺麗にしてくれて、ありがとう。ごめんね、脱ぎっぱなしで」

「いいよ、これくらい」


 何でもないみたいに言う宏兄に、少し尋ねてみる。


「えと。宏兄って、着物着るの?」

「ん?」

「なんか、慣れてはるなあと思って」

「ああ……子供の頃、母さんの趣味でな。性に合わないから、家を出てからは全然だが」

「そうなん? ……初めて知った」


 ぼくは、目を真ん丸にする。長い付き合いなのに、知らなかったなんて。

 そう思って、はっとする。


――ぼくって……宏兄のこと、知ってるつもりで。全然、知らないんや。


 結婚することになるまで……宏兄のご家族にも会ったことなかったし。

 お兄さんが結婚してたことも、今日、来られなかったお姉さんの、事情のことも――宏兄と過ごした十五年の間に、起こったことなのに。


――宏兄は、家のことあまり話さなくて。たぶん、ぼくの家族がいないの、気にして……


 わかってたのに。

 宏兄は、夢の話も、好きなものも……宏兄のことは話してくれるから。

 今、眼の前にいる宏兄だけ知れていればいいって、言い訳して。――本当は、ぼくが傷つきたくなかっただけなのに。


『……あんまり、仲良くなったら辛いよ』


 優しい声が甦り、胸が軋む。これは忠告やった。――ぼくが、いつか苦しまないように。

 だから、宏兄が言わないでくれることに、甘えてた。

 ……ずるい。

 すると、そっと背を抱き寄せられた。


「成、どうした?」

「宏兄……」


 あたたかい腕に抱かれて、長い息が漏れる。泣きたくなって、ぎゅっと腰に抱きついた。

 宏兄は、本当に優しい。

 子供の頃から、ずっと変わらない。


「宏兄……!」


 優しく背を撫でてくれる大きな手は、お兄ちゃんの……ううん、ぼくの旦那さんのものやった。


――そうや。今は、もう違う……


 ぼくは、宏兄の顔を見上げた。


「あのね、宏兄」

「うん?」


 優しい目が、見下ろしてくれる。ぼくは、勇気を得て……ぎゅっと背を抱いた。


「ぼく、宏兄のこと、もっと知りたい……!」



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