第145話

「いい香り~」

 

 氷をたっぷり入れたグラスにコーヒーを注ぐと、ぱちぱちとはじける様な音がした。 夏らしくって、気もちが浮き立つ音やんね。

 ぼくは、頂き物のチョコレートと一緒に、グラスをお盆にのっけて、るんるんと書斎へ向かった。

 そーっと書斎のドアを開けると……深い森の匂いが、鼻をくすぐる。

 

「……ふあ」

 

 森林浴の気分で、お部屋に足を踏み入れると、甘い紙の匂いもした。

 

 ――なつかしい、図書室みたいや……

 

 じっさい、ほんまにそれくらいの規模やんねぇ。

 宏兄の書斎は、お部屋二つ分の真ん中の壁をぶち抜いてあって、とっても広い。壁中を覆うような、大きな本棚があって、様々な小説や資料、画集や図鑑までがぎっちりと並んでた。そこに収まらない書物は、床や、窓際の書き物机や、部屋の中央のミニデスクに山と積まれてる。

 

「そーっと……」

 

 本を踏まないように、抜き足差し足で奥に進むと……ソファにひっくり返って原稿用紙とにらめっこしてる、作家さんの姿があった。

 

 ――ふふ。題して、売れっ子作家さんの芸術活動の苦しみ……ってかんじやね。

 

 よっぽど集中してるのか、ぼくが入って来たのにも気づいてない。ぼくは忍び笑いしつつ、声をかけた。

 

「桜庭先生。ちょっと休憩なさってくださぁい」

「――はっ!」

 

 宏兄は、弾かれたように起き上がり、どたばたと居住まいを正す。きっちりと座り直し、穏やかな笑みを浮かべて言うた。

 

「ああ。ありがとう、成」

「ぶふっ」

 

 あからさまに取り繕う宏兄に、ぼくはふき出してしまう。

 

「宏兄、もう見ちゃってるから! そんな慌てんくてもいいよ」

「うっ、すまん……だらしないとこ見せちまって」

 

 宏兄が、恥ずかしそうに頭を掻く。

 ぼくはくすくす笑いながら、ソファに近寄った。側のテーブルに、お盆を置こうと思ったんやけど……原稿用紙と資料がどっさりで、スペースがない。

 

「ちょっと待ってくれっ」

 

 宏兄が、腕で資料を押しのけて作ってくれたスペースに、お盆を置く。

 

「ありがとう、宏兄」

「いやいや……散らかっててすまん。こないだ片付けてくれたのに」

「いいんよ! 掃除くらい、またするもん」

「成……! お前は優しいなあ」 


 ぼくはしょんぼりしてる宏兄を、ニコニコと見守る。

 

 ――宏兄ってば。ちょっと可愛いっ……!


 お部屋が散らかってるのも、ソファにひっくり返ってお仕事してるのも。

 無防備にしてくれてるのかなって、くすぐったい。


「ふふっ」


 ぼくは、なんだかわくわくしてきて、宏兄の肩をとんとんとつつく。

 

「宏章先生、休も。コーヒー持ってきてんっ」

 

 宏兄の隣に座って、少し汗をかいたグラスを渡した。恭しく受け取った宏兄は、美味しそうに飲んでくれてる。ぼくは、大きな体に寄り添って、上下に動く喉仏を見守った。


「……ああ、美味い。成はいいのか?」


 あんまり見ていたせいか、宏兄はちょっと落ち着かなさげやった。


「うんっ。ぼくはさっき飲んだから。あのね、これ……」


 チョコレートを勧めかけて、ハタと気付く。


――しまったぁ。手づかみのチョコレートにしちゃった。


 アナログな作家の宏兄は、資料も執筆もぜんぶ、素手なんやった。お仕事の合間につまんでもらうには、ハードルが高いおやつやったかも。

 反省していると、宏兄がひょいと手を伸ばす。


「チョコレートか?」

「あっ、待って!」


 ――手!

 ぼくは、慌ててお皿を取り上げた。空振りした宏兄は、目を丸くしている。


「どうした?」

「えと。手が汚れちゃうから、ぼくが渡すね」

「へ?」


 ぼくは、チョコレートを一つ摘まみあげた。


「はい、どうぞ」


 にっこり笑って、宏兄の口元に差し出してから――ハッとする。

 これ、「はいあーん」やない?! ぼくときたら、看病でもないのに、立派な大人になんてことを。

 ぽぽぽと頬が熱くなり、一気に体温が上がる。


「ごごご、ごめんね! あ、その、冷え性やから! チョコレートが溶けへんし、ええかなあって思って」


 動揺のあまり、意味不明なことを言ってしまう。

 宏兄は、何も言わへん。きっと、呆れてるんやと思うと、ますます顔が火照った。

 泣きたい気持ちで、チョコレートを引っ込めようとしたとき……手首を掴まれる。


「ひゃっ?」


 宏兄が――そっと目を伏せて、ぼくの摘まんだチョコレートを唇で挟んだ。


「あ……」


 ぼくはどきどきしながら、宏兄の薄い唇がチョコレートを飲みこむのを見守った。指先を、あたたかい吐息がやわく撫でて……びくりと肩が震えてしまう。


「美味いな」

「……ぁ、よかった……」


 のんびりと味の感想を言う宏兄と、目が合わせられない。

 だって……宏兄の唇を掠めた指先が、じくじくと火のように熱くて、落ち着かへんのやもん。

 どきどきって、破けそうな心臓を押さえていると、くすっと笑い声が聞こえた。


「なんだ。照れてるのか?」

「……だ、だって」


 からかわれて、ムッとして見上げると……宏兄の目が熱い光をたたえてる。

 ぼくは、頬がぼんと燃え上がった。こういう目の宏兄が、何を求めてるのか――この二日くらいで、教えられちゃったから。


「おいで、成」


 そっと腕を引かれて、宏兄のお膝に乗せられる。まず、ぎゅっと宝物みたいに抱きしめられるのが、合図。


「……宏兄っ」

「かわいい。真っ赤で……食っちまいたいくらい」

「やぁ。そんなん言わんといて」


 甘すぎる台詞に頭を振ると、宏兄は喉を鳴らして笑う。

 顎に指をかけられて、仰向かされた。宏兄の顔が、ゆっくり近づいて……ぼくは、涙でじんじんする瞼を、そっと閉じ――


 ピンポーン!


 そのタイミングで、玄関のインターホンが鳴り響いた。

 吃驚して目を開けると、宏兄は舌打ちでもしそうな顔をしてる。


「くそ、なんだ良いときに……」

「あ、あはは。あの、ぼく、見てくるね!」


 ぼくは、いっぺんに我に返って、体を離した。真っ赤な顔に風を送りながら、どたばたとドアへ向かう。


「待て、成。俺も行く」


 背中に感じる、宏兄の存在感にどきどきしながら、ぼくは階段を駆け下りて行き。ひょいとインターホンを覗き見て、目を丸くする。


『成己~! 開けてくれ~!』


 カメラ越しに、大きな笑顔を見せているのは、綾人やった。ぶんぶんと、目の前に居るように、元気に手を振っている。


「綾人?!」


 ぼくはロックを外しつつ、宏兄と顔を見合わせた。

 いったい、どうしたんやろう?

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