第6話 第六章

2ヶ月がたち、旅館は閉鎖することになった。ばたばたとした日々が過ぎ、旅館は売りにだされ、仲居さんや板さんは皆新しい職場へと去って行った。

 古くからいた女中がヌウに言った。

「ヌウさん、若旦那、いなくなっちゃったし、この旅館も閉めるんだってさ。少しだけど退職金もでるし、私は田舎に戻って次の仕事を探すけど、ヌウさんはどうすんの?」

「おらか?おらは…どうしたらいいだ?」

「私と一緒に、田舎にくるかい?」

「田舎…山はあるか?」

「あるさ。小さな山だけど、綺麗な山だよ。きっと、ヌウさんも、嫁さんも気にいるよ。」

「そっか。」

「退職金も少し出るし、一度家に帰って、嫁さんと相談してから、よかったらおいでよ。これ、私の住所。田舎だけど、ヌウさんの仕事くらい見つかるよ。」

 女中のくれた小さな紙辺を受取り、ヌウは手を振りながら女中を見送った。馴染んだ人と別れるのは寂しいものだった。


 玄関の上がり口に若旦那が―心の臓を患って以来すっかり弱ってしまっていた―が、青白い顔をして腰掛けていた。若旦那は旅館を閉めると決め、他県に住む長男の家出暮らすことを決め、ヌウとの別れを決めた。

『すっかり年をとってしまったよ。』とさびしげに笑って、決めたことを告げる若旦那はヌウが今まで見たこともないほど老け込んで見えた。


「田舎に来ないかといわれただ」ヌウは手のひらの中の、紙辺を眺めながら言った。

若旦那はヌウに手招きをすると、自分の横に座るよう仕草をした。

ヌウは黙って若旦那の横に座った。

がらんとした旅館の玄関先

暗いトンネルのように延びた廊下

煤けた天井

シンッと静まり返った旅館の中から、今にも仲居さんの元気な笑い声や、板さんの軽快な包丁の音、お客さんの楽しそうな笑い声が聞こえてきそうだった。

二人で薄暗い玄関先に腰掛、開け放たれた戸から外を眺める。

四角く切り取られたような明るい空間が、異次元の世界のように広がっていた。

「ヌウさん、山に帰ったらどうだろう。」

唐突に若旦那が言った。

「山?」

若旦那は苦しそうにうなづく。

「ああ。旅館はもう他の人に譲ることにしてしまったし、ここにはヌウさんの居場所はないし、私の居場所もなくなった。

この町にヌウさんが、のんびり幸せに暮らせる場所があるようには思えなくてね。中井さんの言う田舎も山が近くていいかもしれないけど、人里だしね。

それよりは山に帰って暮らすほうがヌウさんにとっていいことじゃないかって、ずっと考えていたんだよ。

まずは仲居さんや板さんたちの身の振り方を決め手からヌウさんのこを相談したいと思っていたんだが…こんな体で思うように身動きも出来ないうちに、私の方が先にこの町を去ることになってしまったよ。

ヌウさんを見送ってから、息子達のところへ行こうとおもってたんだが…自分のことを自分できめることが出来ないなんて、窮屈だね。人間ってやつは。

いつも誰かと関って生きている。

関らずに生きることは難しいけど、関って生きるのも、また難しいね。」

「難しいのは嫌いだ。若旦那は幸せでねえのか?行きたくねえのか?」

「いや、幸せだよ。ヌウさんと一緒にいられたからね。これから一緒にいられないのは辛いな。」

「おらも辛い」

「一緒に、ヌウさんと一緒に暮らしたかったんだけど…ごめんね」

「なんで謝る?」

「ん。昔のことさ。昔の。」

「昔?」

「ああ、昔。私が結婚したときのことを覚えてるかい?」

ヌウは思い出していた。

 すっごいご馳走が出て、旅館はとっても華やいでいた。珍しくお上さんがニコニコと笑っていたな。ヌウも皆から薦められてお酒を飲んだのを思い出した。歌って踊って、ヌウが踊ると、子供達も一緒に踊って、楽しくにぎやかな一日だった。村の祭りとも違う華やかな宴席だった。

 「あのあと」と若旦那が少し気まずそうに、話し続けた。

 「私の奥さんになった人が、生まれてすぐの長男を連れて家を出て行ったね。『ヌウさんが怖いから』って…」

 「申し訳ねぇ。おらがここにいたばっかりに。

 おらがあの時この旅館を出て行ってたら、若女将さんも坊ちゃん達もまだここで暮らしてたかもしんね。若旦那に寂しい思いさせちまった。」

ヌウは目をしょぼしょぼさせながら言った。

ヌウはここが好きだった。暖かいぬくもりがあるこの旅館が好きだった。代々の女将さんは怖かったけど、決してヌウを邪魔者扱いせず、旅館を盛り立てていく仲間として、いやそれ以上の存在―家族のような―として大切にしてくれていた。

 「だ、だ、だけど、おらは、おらは…」ヌウのめから大粒の涙が出てきた。

若旦那があわてて言った。

 「ちがうよ。ちがうんだよ。ヌウおじちゃん!若女将は、ヌウさんが嫌で出て行ったんじゃないんだ。ほんとうだから。だから泣かないでおくれ」

 ヌウはしゃくりあげながら、なにか言ったが『ひゃっくひゃっく』とするばかりで言葉になっていなかった。

 若旦那が懐からハンカチを出してヌウに渡した。ヌウは顔を撫で回すように涙と鼻水を拭いた。

「ヌウおじちゃん。若女将は、大女将が苦手だったんだよ。大女将の厳しさについていけなかったんだね。それでちょっとだけ心が…苦しくなってしまって、このままじゃ病気になると思って、私が里に返したんだよ。若女将は『ヌウさんが怖い』と言ったけど、その向こうに大女将を見ていたんだと思うよ。若女将の精一杯の私への気遣いなんだ。悪く思わないでやてくれ。私も知ってて知らんふりしてた。大女将を、母さんを傷つけたくなかったんだ。」

若旦那は深く頭を垂れ、

「ヌウおじちゃん、辛い思いをさせて、申し訳ない。ごめんなさい」

ヌウはまたも、涙があふれてきた。それは哀しいとか悔しいとか出ない、自分を家族として扱ってくれた大女将や若旦那や、先代、先々代…いままでこの旅館で触れ合ってきた大勢の人たちの愛情を深く感じたからだった。

 「それに、若女将がいつか戻ってきたときのためにも、そのほうがよいとおもってた。結局戻ってこなかったけどね」

 若旦那は寂しげに笑った。

ここで過ごした沢山の時間をヌウは思い返していた。初めてヌウがここへきたとき、旅館は上へ下への大騒ぎだった。その当時の旦那が村はずれでしょんぼりしているヌウを見つけ、物好きにも声をかけてきた。たいした話もしなかったのだが、旦那はヌウを自分の旅

館で釜炊きをしながら暮らせばいいと誘ってくれたのだった。

それからの長い長い年月。ここはヌウの第二のふるさとになっていた。

ヌウは遠くを見るような目で、開け放たれた玄関の、先の、ずっと先にあるであろう山を見つめた。薄暗い玄関の中でそこだけが四角く明るかった。

「おらのことは心配ねえ。なんとでも生きていける。」

「ヌウさんは長く長く生きてて、私なんかと比べることが出来ないほど、いろんな事を見て、聞いて、感じてきたんだろうね。でも、人間の町は窮屈だよ。そんな風に自由に生きてきたヌウさんには、窮屈だよ。人間は。

ヌウさん、人として…体が人間になるなら、人として生きるのもいいかもしれない。しかし、ヌウさんはこれから先、何百年、何千年も生き続ける。

そうなったら、人間の掟に縛られて、生きるにはヌウさんには寿命がありすぎる。命には、命の居場所があるんだよ。私はそう思っているよ。」

「命の居場所…」

「ヌウさんは長く、長く生きるから、命のことをあまり考えることはないかもしれない。人間は短い命だからね。だからこそ、今ある時間を大切に生きていこうとするんだよ。

それが命の居場所だよ。私の居場所は、もう消えようとしている。この旅館と一緒にね。ヌウさんも、ヌウさんの命の居場所で、幸せに暮らして欲しいんだ

 だから、さ。

 山へ、お帰りよ。」

「山か…」

 ヌウは、冬支度に入ろうとしている山を思った。

赤や黄色にそまった木々の間を、冬のねぐらの準備に走りまわる、きつねやりす、うさぎなどを思い浮かべた。いずれ、雪が降り、真っ白で静寂に満ちた世界になり、その後には、新しい芽を吹き出した木々、雪解け水の冷たさ。

鳥のさえずり…そして、季節は巡る。

狐のおかみさんは、どうしているだろう。

「山は、もうすぐ雪がふるだ」

 ヌウが膝の上に於いた手の上に、若旦那の手が重なった。

 その手は随分と年をとって、皺々の手は薄くて冷たかったけど、ヌウには『ぽわっ』と暖かく感じた。この温もりはたのみの温もりに似ていた。

 ヌウは、若旦那が小さなたのみの姿に見えた。

「おら、人が好きだ。」

「人が好きか。」

「ああ、若旦那も好きだ」

「ありがとう。私もヌウおじちゃんが大好きだよ。」

 ヌウおじちゃん…小さい頃の若旦那は「ヌウ」と上手くいえずい、「にゅうおじちゃん」と呼んでいた。

 ふいに、とても懐かしい想いがヌウの心を覆った。若旦那と触れ合った時間は、ヌウの長い長い命を思えば、ごく最近の、短い時間での出来事でしかない。

 ”ああ、人間の気持ちと言うのは、こういうことを言うのかもしれない。”とヌウは思った。

 その刹那、たのみとの思い出が、あれも、これもと思い出された。ヌウの目から涙がぽろぽろ、ぽろぽろと溢れてきた。こんな気持ちは初めてだった。

ヌウは自分の涙の意味も、心に沸いた懐かしい気持ちも、淋しい気持ちも、どうしていいのかわからなかった。

若旦那はヌウの涙をみて、握る手に力を込めた。

「ヌウおじちゃん、どうして、人が好きなの。」幼い子供のように声をかける。

 どうして?ヌウは、自分の手の中にある若旦那の手の温もりを感じた。

 初めて触れた人の手は、キクの手だった、怖る怖る、やさしく触れた手。とても暖かい手だった。

 たのみの小さな手。白くて、小さくて、柔らかだった。その手を握るとヌウは幸せで、胸が一杯になった。

 里のばあさんのしわくちゃだが、暖かい手。

 そうだ村人の手、手、手、みな暖かだった。

 人の住む里で暮らすようになって、触れた手すべてが暖かだった。そして今、ヌウの手を握る若旦那の手も暖かだった。

 暖かい手…この手に触れていたかった。ずっとずっと触れていたかった。だから、だから、だから…人里に降りて来たのだ。

 ヌウは何も言わなかったが、若旦那はにっこり笑うと、ヌウの手をしっかりと握り返し、ささやくように、つぶやくように言った。

「暖かい手は、人間だけじゃないよ。ヌウおじちゃん。一緒に暮らせて、楽しかったよ」


若旦那は、長男の家に行くため、迎えのタクシーに乗って去って行った。最後にタクシーの窓から旅館を眺め、そして、ふたたびヌウの手を握った。

タクシーは静かに走り出し、ヌウの手には温かな若旦那の手の温もりだけが残った。

女中から貰った紙と、若旦那からもらった、少しばかりのお金を持って、ヌウはとぼとぼと家に帰ってきた。


家では、嫁があいかわらずぬるいビールを出した。

ヌウがビールに手もつけづに、ぼんやり座っていると、嫁が聞いた。

「おまえさん、どうしたん?元気ないねぇ」

「若旦那が、いっちまった」

「そうだね。いっちまったね」

嫁はヌウ大好きな岩魚の乗った皿を、ちゃぶ台においた。いつもなら岩魚を見ると嬉しそうにほおばるのだが、今はただじっとビールの泡がぽちん、ぱちん、と消えていくのを眺めていた。

ヌウは黙っていた。そっと肩に手が触れた。顔をあげると嫁の優しい目が微笑んでいた。「みんなおらをおいてった。若旦那も、キクやたのみみたいに時期いっちまう。…みんな、みんな…いっちまう。おらだけおいてきぼりだ。」

ヌウは肩を震わせて泣いた。

「淋しくなっちまうね。そっか若旦那もいっちまったのか」

ヌウは嫁の手を暖かいと思った。

キクの手も、たのみの手も、おばあの手も、旦那、先々代、先代、若旦那の手も、旅館の女中の手も、今、ヌウに触れてる嫁の手も、暖かだった。ヌウは声を出して泣いた。

「嫁よぉ。お前の手、暖かいなァ」

「なにいってんだよ。あんたの手も暖っかだよ」

嫁はヌウの手を取り、その手を両手で包んだ。ほらっというように笑って見せた。嫁の口が裂け、白い歯が見えても、今は怖くなかった。

涙で良く見えなかったから。

ヌウは不思議な感覚でその嫁の手につつまれた自分の手をみていたが、またひとしきり涙がでた。

「おらの手も暖かいか?」

「ああ、暖かいよ」

「おめえの手、暖かい」

「あんたのこと好きだからね」

「好きだと暖かいのか?」

「そうだよ。心と心が触れ合ってるから暖かいんだよ」

「そうけぇ、暖かけぇ。なあ。あったけぇ」

ヌウは、自分が探し求めていたものがなんだったのか、自分が欲しかったものがなんだったのか、わかったような気がした。あのもやもやを消すものは、こんな近くにあったんだ。ずっとそばにあって、見えなかったもの。ずっと、ずっともう何百年ものあいだヌウの側にあったもの。

「あたしはさあ、あんたをおいてどこにも行かないからさっ」



ふいにドアがあいて、化け狸が入ってきた。

「お、とりこみ中か?」

「なんだ、化け狸かい」

「なんだとは、ご挨拶だなぁ。」

あいかわらず、化け狸はのんびりした口調をしている。嫁が、ぬるい上に、気まで抜けたビールをそのグラスに注ぐと、化け狸にすすめた。化け狸は相撲取りがするような、ごっつぁんですのポーズをするとそのビールを一気に飲み干した。

「若旦那が息子さんの住むところにいっちまって…旅館しめたんですよ。」

「へっ。そうなんかい。寂しくなるねぇ」

化け狸はしみじみとした表情でそう言って、テーブルの上の岩魚を頭からがつがつと食った。

「ところで化け狸の旦那、今日はなんのようで?」嫁がビールを酌しながら聞いた。

「おっとそうだった。なあ、ヌウ。おまえ人間になりたいか?」

「おらか…わかんねえ」

「そうだよな。わかんねえよな。俺も人間になりたいわけじゃねえ。商売で儲けたいだけなんだが…いろいろなぁ」と化け狸は、ビールを飲み干す。

「いろいろ?」

「ああ、やっかいだなと思ってさ。」

「なにが?」

「俺たちは、人間とは違う時間で生きてる。いや、人間だけじゃねえ。動物もそうだ。俺なんかは、もともと狸だったが、長生きしすぎて気が付けば、こんな妖物になっちまったが。

本来、生き物には寿命がある。それぞれ長さはまちまちだがなぁ。ただ、おれたちには、寿命があるのかないのか分からん。まだ身近なやつで死んだ奴をみたことがない。おまえはどうだヌウ?」

「おらは…たのみが死んだ。先代も、先々代も…それから」

「いやいや、そんな先までいい。それに、人間や動物以外だ。おめえが言ったのは皆人間だろ。俺たちの仲間でさ、誰か死んだ奴しってるか?…俺は知らねえ」

ヌウは頭をひねった。

「ずいぶん昔にいたような気はするが…う~ん。どうだったろう」

そういって嫁をみた。嫁も、また首を左右に振った。

「な、おれたちの仲間の寿命はどれくらいあるが分からないが、人や動物とはまったく違う時間をいきてんだよ。」

「なるほどねぇ」嫁が妙に関心している。

ヌウは、黙って、気が抜けたビールをすすった。

「実はな、やっかいなことってのはなぁ。若杉先生の言った、「人間の戸籍」のことなんだが、ま、あれからさ、若杉先生といろいろ話して、俺が妖怪のそうまとめをして、ま、若杉先生の選挙の時の票集めと、俺は俺で、妖怪との商売の仲介役は、俺だけにするってことで話しをまとめてたんだ。俺は商売好きだからなあ。ほれ。こうやって、帳面もまとめてんだ。」

そういいながら、背中にしょったリュックサックから、商い手帳と、若杉先生と交わした覚書を見せた。

「いや、困ったのは、法案を通す前に、これから俺達の住民票を作る準備をするんだ…みんなの居所とかさ、どんな仕事で生計たててるとか、年齢とかさ、いろいろ調べたりしてたんだ。あっちの山、こっちの山、はたまた、俺の店で集会までやって、片端から話してみたんだがなぁ。」

化け狸は大きくため息をついた。

「なんだい。旦那。不景気そうな溜息だね」

嫁が新しいビールを持ってきて栓を抜いた。

”お、すまねぇな”と化け狸はコップを差し出し、一気にビールを飲み干した。

「最初はみんな賛成してたんだよ。ところが最近になって、手続きが面倒だとか、気が変わったとか、しまいには人間になってなんの得があるのかって聞いてくる。あんなに乗り気だったのによぉ

俺たちは、病気にならないから、健康保険はいらない。

年もとらないから年金も必要ない。

足はしっかりしているから、電車や車もいらない。

食い物も、その気になればなんでもあるし、たとえば、お前が言ってた冷蔵庫とかテレビな、あれも興味があるやつはいたが、どうしてもいるのかとなると、そうでもない

ま 、俺たちみたいに、人と深く関って生きている奴はそういないし、関っていても、今の暮らしに不満があるやつは誰もいない。で、俺も考えたんだ。俺は金が欲しいが、その金を増やすのが楽しい。増えたからといって何に使う当てもないことに、今ごろ気が付いたよ。な、お前は欲しいもの、なんかあったか?」

ヌウはうなずいた。

「おらが欲しかったもの…もう見つけた」

「ほう。なんだ」

「いえねぇ」そういって、ヌウは赤くなったが、そっと嫁の手を握った。

嫁が、うれしそうに笑った。…が、化け狸もヌウもその笑顔をみて、顔が引きつった。

この大きく裂ける口だけは、やはり怖かったが、どんなに怖くても、嫁の手のぬくもりは変わらなかった。

「な、な、教えろ。なんだよ。俺にもないしょか?」

「ないしょだ」

「な、嫁。お前はしってるのか?教えろ」

嫁は可笑しそうに、けらけら笑った。

「なんだい、二人して」

嫁の笑顔をみて、顔を引きつらせながらも化け狸は幸せな顔をしていると思った。

ありのままを受け入れて生きていこう。目に見えるものや、手に触れるものではなく、心で受止めていけるものを信じてみよう。ヌウは、そう思った。不思議なことに、嫁の顔がキクの顔に見えた。


「ごめんください。」ふいに人の気配がして、声がした。

「へい。どなた」嫁が声をかけると同時に、粗末なドアが、ぎぃとあいた。

背広をきた、男が3人、恐る恐る小屋の入り口から顔をのぞかせた。

男たちは、役所から来たといった。法案が通った時のために、必要な手続きの書類を、化け狸に渡すために訪ねてきた。

役人たちは、妖怪一人つづの名前、生年月日、住所、現在の仕事や生活様式を記入するための書類を化け狸に見せて説明していた。

「な、これ断れないか?」突然化け狸が言い出した。

お役人は、間髪いれずに、

「無理です。」

「できません。」

「決定事項です。」

とそれぞれ突っぱねた。

化け狸が大きな身体を小さく縮めて、助けを求めるような目でヌウをみた。ヌウは難しいことはわからないので、話の成り行きを、ビールをちびちび飲みながら眺めていた。

化け狸は、ヌウを当てに出来ないとわかって、なんとか、断れないか、役人に頼み込んでいる。

「決定事項は、変更できません」

「無茶いわないでくださいよ。」

「化け狸さんも納得したんでしょ?兎に角、この書類頼みますよ」と戸籍係りのお役人が戸籍作成用の書類を化け狸に押し付けた。

次の男は、社会保険について、いろいろ説明し始めた。

健康保険、厚生年金、の説明をし始めた。月々いくばくかのお金がかかるといいだしたあたりから、嫁の顔色が変わりだした。

「そんな金あるわけないわ!」

そう叫ぶと、嫁はがぁと口をあけ今にも役人たちを一呑みしそうな様子で立ち上がった。

『うわぁぁぁ』お役人たちは腰を抜かし、あわてふためいた。ヌウも化け狸もびっくりしたが、嫁が人を食ってはたまたものじゃないとあわててとめにはいった。ヌウが嫁をはがいじめにしているあいだに、化け狸がいそいで役人たちを逃がした。が、突然、そのうちの一人が戻ってきて、震える手で化け狸に税金にかかわる冊子を渡した。

「なんじゃ?」

「所得税とか住民税、そのほかの税金を説明した冊子です。お仕事とかされると、税金を払っていただきます。化け狸さんは商売されているので、よく読んでおいてください。」

というや、いなや、すごいスピードで逃げて言った。

化け狸は毛を逆立てて、「俺の金を!俺の金をぉぉ…!!」と怒った。

ヌウは、嫁と化け狸をなだめるのに、かなり骨を折った。周りの住人達はその騒ぎで、あっという間に、どこか遠くへ逃げてしまっていた。


ひとしきり、喚き、暴れるのに疲れた嫁と化け狸、なだめることに疲れたヌウたちが、疲れ果て大の字に寝転がって、しばらくぼうと古ぼけた天井を眺めていた。

化け狸がむっくり起き上がった。

「なぁ…」と化け狸が言った。

嫁と、ヌウはむっくり起き上がると化け狸をみた。三人は顔を突合せて、黙ってうなずき、立ち上がった。

ヌウと、化け狸が外にでると、嫁が、大きく口をあけ、家をぱくりと一飲みした。

「さて、あんた、いきましょうか。」

嫁はすたすたと歩き出した。化け狸とヌウは嫁の後をとぼとぼと着いていった。


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