第2話 第二章
ヌウは、自分がいつ生まれたのか、親がどんなモノなのか、記憶には、ない。
気が付いたら、そこにいた。
初めて見たものは青い空だったが、それが夏の空だったのか、冬の空だったのか覚えていない。同じように、はじめて触れたもの、食べたもの、しゃべった言葉…そのすべてが思い出せないでいた。気が付けば、山の中で暮らしていて、木の実を食べ、動物たちと触れあいながら、一日、一年と、生きていている。どれくらいの年月が流れたのかさえ記憶にはない。
所在無く、自分がいるのか、いないのか、それさえもわからない。そんなぼんやりとした日々を送っていた。
女とはじめてあった時、女はヌウを見て怯えなかった。
ヌウの姿を見た人間は、皆、怯えて逃げ出した。ひどいときなど、そのまま心の臓が止まってしまって、死んでしまうものさえいた。ヌウはそれほど、異形の形をしていたのだ。鳥や動物だけが、ヌウを見ても怯えず、ヌウの本来の優しさを本能で感じるのか、いつも側にいてくれた。ヌウは自分を恐れることのない女に興味をもった。
「名はキク、目が見えない」のだと言った。
キクはヌウのぼそぼそとしゃべる、くぐもった声を聴き、そっと手を伸ばしてヌウに触れた。ヌウの皮膚は分厚く硬い。ヌウに触れたキクは見えない目をしばたかせ、考えるような表情を浮かべた。
キクは言った「暖っかい…」そして笑った。
初めて見た人の笑顔だった。
ヌウの頬に触れた女の手は、とても温くて、小さかった。
初めて触れた人の手だった。
ヌウはキクを肩に乗せては山の中を動き、おいしい木の実などをキクにとってやると、キクは一口齧り、美味しいと笑った。綺麗な花を見つけてキクに渡すと、キクは見えないながらもその香りで、嬉しそうに笑った。
それから間もなくキクは産気づき、赤子を産んだ。
ヌウはどうしていいかわからなかったが、キクに言われるまま赤子を取り上げた。
男の子だった。
キクは弱弱しく笑うとヌウの手を恐ろしいほどの強い力で掴み、「たのみ…」といって死んだ。ヌウはキクをゆすったり、こづいてみたり、名を呼んだりしたが、キクは目を開くことはなく、笑うこともなかった。
「死んだのか?」ヌウはしばらくぼうっとしていた。
とても、さびしかった。
「人間って、つまんねえな…」つぶやくと、赤子を抱き上げた。赤子はくねくねして、血の臭いがした。
「お前の名前は…えっと、なんてったけ?ああ、そうだ。『たのみ』だ。キクが『たのみ』と言ったんだった。お前は今からわしといっしょに暮らすんだぞ。」
たのみは、弱々しく泣いた。ヌウは動物の親がするように、生まれた赤子の体を舐めて血を拭った。
ふと、気が付くと狼たちに囲まれていた。
血の匂いに誘われて集まってきたようだった。キクの体に鼻を摺り寄せ、クンクンと匂いを嗅いでいる。
ヌウは背筋をぞくぞくと何かが這い上がるような感触を覚え、頭がカッと熱くなった。たのみを抱いたまま立ち上がると、狼たちを睨まわし、ダンッと一歩大きく右足を踏み出し、大声を発した。異様な空気が生まれ、周りの木々が激しく揺れた。狼たちは散り散りに逃げていった。
ヌウは、たのみを抱いたまま、穴を掘り、キクを埋めた。キクの体が、狼たちの餌になるのは、イヤだった。それが自然の摂理に反しているといわれようが、嫌なものはイヤだった。
一緒に暮らすときめたが、相手は赤子だった。何を食べ、どうやって育てるのがヌウには皆目検討もつかなかった。困り果てたヌウを見かねて山の動物たちが乳を分けてくれた。たのみが寒がらないよう、そのふわふわとした毛で包んでくれるものもいた。
ある狐が言った。
「ヌウのだんな。そりゃ乳を上げるのはかまいませんけどね、この子は人の子だよ。山の中でだんなや私らと同じようには暮せませんよ」
ヌウはとても哀しい顔をして、うつむいてしまった。きつねは最初意地悪くヌウを見ていたが、小さな目に薄っすら涙を浮かべて、しょぼしょぼと瞬きしているヌウをみていると、狐は鼻で笑うように息を吐き出すと、
「しょうがないわね。だんな、とりあえず村人と仲良くして、この子に必要なものをもらいなさいな。」
ヌウは小さな目をしばたかせた。
「人と仲良くできるのか?」
「キクさんと仲良くしてたじゃないですか?」
そういわれてみればそうだった。ヌウは考えるように、たのみの顔を覗き込んだ。たのみは、今しがた狐からもらった乳でお腹が膨れたのか、安心しきった寝顔で、すやすやと眠っていた。
「そうだねぇ…まずは、山でしか取れない木の実や魚を持って、村はずれにある家にいってごらんなさい。ばあさんが一人ですんでるんですがね、物の怪なんぞぜんぜん怖がらない肝っ玉の据わったお人ですよ。そうそう、それから人の里に行くのに、裸じゃ嫌われますよ。人間ってのは、裸じゃ歩かないものですからね。キクさんの着物の切れ端でもいから腰になにか巻いていきなさいな。」
ヌウは狐に礼を言うと、キクの着物を着て村はずれの老婆の家に行った。
家はずいぶんと傾いていた。
戸口はゆがみ、長い間、戸を締めることが出来ていないようだった。閉まらない板戸の代わりにか、入り口にはむしろが垂れ下がっていた。
長い間、誰も手入れをしなかったと見えて、屋根はあちらこちら破けており、ちょっと強い風が吹けば飛ばされてしまのではないかと思えるほどボロボロだ。おまけに雑草があちらこちらと顔をだしている。
ヌウは家の裏に回った。小さな畑があった。その横に小さな井戸があったが、つるべが壊れている。
家の周りをぐるっと回ってみた。
壁は隙間だらけだった。隙間から家の中をのぞいてみたが、老婆の姿はどこにもなかった。腕に抱いた、たのみはすやすやと眠っている。
ヌウはたのみをそっと足元に下ろすと、家の壁に肩をあて、気合とともにぐいっと押した。家はぎしぎしと大きな音をたて、まっすぐになった。
次に屋根に上がって、屋根の修理をした。雑草も抜いた。
たのみの泣き声がした。
あわててヌウが屋根から下りると、老婆がたのみを抱きあげて立っていた。ヌウの姿をみた老婆はいぶかしそうな顔をした。
「なんじゃ?」
ヌウはもじもじした。老婆は、ヌウと赤子をみながら、もう一度言った
「なんじゃ?」
ヌウは腰に巻いた布をもじもじとさわり、やっと口を開いた。
「わしの子じゃ。けえせ。」
老婆は、腕に抱いた赤子を見て、ヌウを見た。
「お前に似とらんのう」
「キクが産んだ。」
「そうかい。で、なにしとるんだ。」
ヌウはまた、もじもじした。
「なんじゃ、恥ずかしがりやの物の怪じゃの」
老婆は笑った。残り少なくなった歯のせいか、口が大きくみえた。が、ヌウはその笑顔をみてキクを思い出した。キクも良く笑った。ヌウは狐に言われたことを、一生懸命思い出しながら、老婆に伝えた。
老婆はひどく感心したようにうなずいていたが、
「家も直してもらったことだし、これから毎日ここへ来い。おらが何とかしてやる」
そういって、残りわずかになった歯を見せて笑った。
その日から、ヌウはたのみのをつれて老婆の所に通った。そのおかげか、たのみは健康にすくすく育った。ヌウは老婆のところに行く時は、なにかと、山の幸、川の幸を届けた。 井戸も直し、畑も耕した。老婆の一人暮らしでは、ゆきとどくことがなかった、畑も、家も見違えるようになっていった。その様子は、自然と村人の間に知れ渡り、怖る怖る、老婆のところにヌウに仕事を頼みにくる村人も増えていった。
村人たちとヌウは自然と仲良くなり、村の女達は、たのみを可愛がり、また、ヌウにも親切にしてくれた。秋の祭りには、一緒に酒を酌み交わし、また、冬には餅をくれた。
たのみが言葉を話せるようになると、ヌウのことを「おとう」と呼んだ。
ヌウは最初驚いたが、次に照れくさそうに笑った。以前、村の男がたのみくらいの子供に「おとう」と呼ばれているのを見たことがあった。その男はヌウから見ても頼もしく、大きく見えた。同じように自分も「おとう」と呼ばれ、ヌウは嬉しく、とても恥ずかし気持ちだった。
月日が流れ、老婆がこの世の人でなくなってからも、村人とヌウの良い関係は続いた。
そして、たのみは逞しい若者に育っていった。
里で、村の娘が頬を染めてまぶしそうにたのみをみていた。たのみはなぜ娘が頬を染めるのかわからずキョトンとしていた。ヌウはたのみが成人したことを肌で感じるようになっていった。
また、村人たちと楽しそうに話している、たのみを見て、ヌウは、たのみが人間だということを考え始めた。
“人は人と暮すのがいいのかもしれない。”
そう思うと、心が張り裂けそうに痛んだ。ヌウはそっと胸に手をあて、痛みの意味を考えようとした。だが、理解はできなかった。自分の心なのに他人の心のような気がした。ただひとつ分かったのは、ヌウはたのみと離れて暮らせるとはおもえなかった。それほどヌウにとってたのみは大切な存在になっていた。
村の長老が、たのみと村の娘の縁談をもってきたことがあった。長老は、たのみが里に降りてきて、村の娘と結婚するのが、たのみのためには良いといった。
「結婚して子供が出来て、孫が出来て…人は子孫を残しながら短い命と向き合って生きる。それが人間だ。ヌウさん妖怪とは違うんだよ。」
長老はやさしく、そして厳しくヌウにさとした。
「ヌウが山で暮らすのが良いように、人は里で暮らすのが良いのだ」とも言った。
ヌウは、いよいよたのみと別れるときがきたのかと、哀しくなった。ぽろぽろ、ぽろぽろと涙がこぼれた。長老は、腰にさげた古びた布でヌウの涙を拭ってくれた。
「いずれは別れのときがくる。それがずっとさきだったものが、今になる。それだけだよ。ヌウさん。たのみのためにこらえてくれ」
ヌウには、自分が里で一緒に暮らすという考えは思いつかなかった。
長老は考えたことはあったが、妖怪が人間界で暮らすのは、人にとっても、妖怪にとってもよいことに思えなかったのだ。生きる時間が違いすぎるのだ。人は妖怪より寿命が短い。歳をとれば、いづれ死んでいく。かわりに新しい命も生み出すことができる。
だが、妖怪はどうだろう。どこから現れて、どこへ行くのかわからない。妖怪自身もわからないことだった。親しくなるほど、親しい人の死は辛くなる。ヌウが人間の世界で生きれば沢山の死をみて、別れを知る。ずっとずっとそれが続いて、ヌウは幸せだろうか。長老は自分自身の気持ちとヌウを重ねていた。
長老は村で最年長だった。両親も兄弟も妻も友達も、子供たちも孫も見送った。そのたび、切なく苦しくもどかしく…『みんな俺を置いていく』絶望に近い思い。置き去りにされる寂しさ苦しさをいやっと言うほど味わっていた。
ヌウは長老の言葉を聴いて、キクや老婆の死を思い出していた。あのどうしようもない寂しさは辛かった。だが、たのみと一緒にいられないことを考えるとそれは、もっと辛いことのような気がした。
「たのみ、長老が、里で暮らしたほうが、たのみに良いと言った」
ヌウは、山小屋で囲炉裏の灰をつつきながら言った。
「おとうも一緒か?」
「いや、たのみ一人だけだ」
「なんでじゃ?」
「お前は人間じゃ、おらはこんなんじゃ。一緒にはすめん」
「おとう、おとうは人間じゃ」
「おらは、人間じゃねえ。お前を生んでねえ」
「おとうは男じゃ。子供は産めねえ」
「うっ…そういう意味じゃねえ」
「どういう意味じゃ」
ヌウは言葉に詰まった。自分のこの気持ちをどう現したら、どう伝えたらたのみに伝わるのだろう。どう伝えたらこの気持ちが伝わるのだろう。離れたいわけじゃない…離れたいわけじゃないのに…
「人間は、命を繋ぐ。いや、人間だけじゃねえ。生き物は生まれて、死んで、新しい命を産む。みんな短い時間を一生懸命生きてる。だけどおらはずっと、生きてる。まだ、まだ生き続ける。一人でずっとだ…」
ヌウは自分の手をみた。ごつごつと大きく、太く、固い。人の手じゃない手だ。
「おらだって、ずっと生きてる。おとうと一緒にずっと生きる!」
ヌウは笑った。そして小さく呟いた。
「うそつきじゃ」
ほれ、みてみ。とヌウの手の上に、たのみが手を載せた。
「おんなじじゃ」といった。
「いんや、ちがう」
たのみの手は、白く、豆や擦り傷はあるが、ヌウの手とはまったく違った。
「おんなじじゃ、おとう。なんもかわらん。おらは、おとうの手がいっとうすきじゃ。一人で生きるのがいやなら、おらが頑張って長生きするから。ずっと生きてるから。おとうのそばにいるから。」
ヌウはうれしかった。
「いっしょがええ。ずっと、ずっといっしょがええ」
たのみは、ヌウの手を握った。あたたかなたのみの手は、ヌウの心から、長老の言葉も、キクや老婆との別れの辛さも消してしまった。
ヌウは何度もなんども「ええな。ええな。」と繰り返して、笑った。
夏がきて、秋がきて、冬がきて、春がくる。季節がなんども巡り、月日が過ぎ、ヌウは年をとることはなかったが、たのみは年々、年老いていった。そしてある、ぽっかりと目を開けたまま、二度と起き上がることも、ヌウと話をすることもなくなった。
ヌウはたのみをキクの傍に葬った。墓の前でぼんやりしていると、ひら、ひらと白い雪が舞い降りてきた。そのうち、雪は丸い粒となって、降り注いだ。
ヌウは空をみやった。
空と地の間で、雪が漂っている。風が右に吹けば、右へ漂い、左に吹けば左にただよい。所在無げにただよう雪にヌウはまるで自分のようだと思った。たのみがいなくなって、自分は一人ぼっちになってしまった。
いや、もともと一人だったではないか。元に戻っただけだ。長い長い生(イノチ)の中で、ほんの一瞬のふれあいだったのだ。 しかし、“二人”に慣れてしまったヌウにとって、この別れは、ただ淋しく悲しく、苦しかった。降る雪は、粉雪にボタ雪が混じり始めていた。
もうじき山は雪に埋もれるだろう。たのみの墓も雪に埋もれ、たのみは土の中で凍ってしまうのだろう。凍ってしまったら寒いだろうか?ふとそんなことをヌウは考えた。
雪は、真っ白にヌウの周りを染めていった。
それからまた、長い長い年月が過ぎた。
ある日ふらっと現れた嫁と、一緒に暮し始めた。
そしてまた、長い年月がたち、人は住居を山奥へと広げていった。
山道を長い長い行列を作った侍達が通る。
山を通る旅人たちも、時折みかけるヌウや、嫁を見て最初は怯えていたが、ヌウの人懐っこい笑顔にいつの間にか、親しくなっていった。
顔なじみの薬売りは、ヌウに町の土産をくれることもあったし、旅の面白い話を聞かせてくれた。ヌウはお礼にと薬売りに木の実や魚をとってやった。
いつのまにか、ヌウと嫁は旅籠で風呂釜を炊きながら、給金を貰い、嫁は小さな畑を耕し、人里で暮らしていた。
さらに時は流れ、山々は切り開かれ、家が建ち、高速道路が走った。他の妖怪たちも町に住むものが増えていった。
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