ヌウ

painyrain

第1話 第一章

夜の闇にかすかな気配が動く。湿った蒸し暑い空気に、人が醸しだす匂いがまじる。

水の澱んだ匂い。

青い草の香り。

たんぱく質が腐る匂い。

どこからともなく漂ってくる様々な匂いがその空間に引き寄せられているようだ。

狭い、薄暗い闇の中で人の寝息や、いびきがひびく。時折、ギリギリと歯軋りの音がすると、それに応えるように虫が鳴く。

ところどころで洗濯物が、音もなくゆれる。

その間を縫う様に、重い足取りで歩く男がいた。影だけを見ていれば、人には見えない。かといって人以外のものであるのなら、なにものであるのか、影だけでは推し量りようがなかった。



■第一章


男は泥のように疲れていた。

自宅のドアの前に立つと、小さく溜息のような息を吐き出した。

自宅は―自宅と呼ぶもの語弊があるような、廃材で出来た小屋だった―河原に今にも倒れそうに立っている。

この河原が誰のものでもなく、川には木で作られた橋が掛かっていたころに、橋のたもとに建てた家だった。築数百年以上はたっているであろう。いままで潰れることなく、無事に建っていたのが不思議に思えるような立ち姿であった。

いつの間にか木の橋は消え、高架道路となった。その横を並走するように鉄橋ができ、朝早くから夜遅くまで、ガタガタガタ・ゴトゴトと電車が走っている。電車が通るたびに、ごーぉぉっという激しい音と一緒に、家は悲鳴をあげるように軋み、揺れる。

流れる月日のなかで、いつのまにか家の周囲には、ダンボールや廃材、ブルーシートなどで新しく家ができ、隣近所の付き合いも、なんとなく増えてきたようだ。といってももっぱら近所付き合いは嫁の仕事だった。

ヌウ――男はヌウという名前だった――は老舗の旅館の釜焚きをしている。ガスや電気で湯が瞬時に沸くこのご時世に、風呂釜を蒔で炊くのも珍しいことだ。

老舗旅館に勤めてどれくらいになるのだろうか。先代の、その前の先代の、その前の先代の…随分と以前の話で何代前だったか、働くきっかけがなんだったのか、とうに忘れてしまった。

そんなこともどうでもいいような気がする。最近はすっかり物覚えが悪くなってきている。ヌウは自分の頭を軽く叩いてみたが、たいした音もしなかった。

昔の記憶も朧だ。

なぜ、人里に住もうと思ったのか、ぼんやりと霧がかったように思い出せなかった。なのに、心の、ここ。とヌウは自分の胸の辺りをそっと掌で触れてみる。

ここにある、なにかに焦がれている思いはなんだろう。ときおりとても淋しく、哀しくなる思いはなんだろうと思うのだった。


山の暮らしと違って、人里で暮らすのは、なにかと物入りだったが、とりあえず旅館で釜焚きをしている分には喰いはぐれる心配はなかった。旅館にとっても安い賃金で、365日、休まず、文句も言わず、ただ黙々と働き続けてくれるヌウを重宝していた。

また、いまどき珍しい釜風呂、それも蒔きで焚いているとなるとそれだけでも珍しがって客が寄ってくる。おかげで、元々は格安の旅籠だったものが、今では一、ニを争うほどの老舗高級旅館となっていた。が、それも最近の不況で客足が、落ち始めている。

ヌウは三日ぶりに、仕事を追えて自分の家に帰ってきた。


入り口の戸を開けると、ギギッと音がして、ちょっと埃が落ちてくる。

鉄橋の下にある家は日中でも薄暗く、天気の良い日はまだ明るさがあるが、雨の日などは夜と間違うほどに暗かった。最近鉄橋の近くに街灯が立てられ、そのおかげで夜になるとほんのりとではあったが、家の中にも灯りが差し込んでいた。

薄暗い部屋の奥から、ぼうっと白いものが現れ、その口が耳まで裂けた。ヌウは思わず一歩、尻ごみをした。嫁の聞きなれたしわがれた声がする。

「おかえり」

ヌウは背中にびりびりといやな痺れを感じ、冷汗をじっとりとかいた。嫁とはずいぶん長い付き合いだが(ここに住むずっと以前から一緒にいるが)、いまだに暗がりで出会うとおもわず尻ごみをし、冷や汗をかいてしまう。

嫁の耳まで裂ける口はいつみても、何度見ても、慣れるということはなかった。その口の中の、いやに真っ白で、鋭く尖った歯をみると、自分の背中や、胸、腕などの骨が砕かれる音がするようで、怖かった。

「ただいま。ふーあっついなぁ」

嫁に怖気づく気持ちを気取られないよう、首に巻いたタオルで汗を拭きながら、ヌウは暗くヒンヤリした室内にはいった。


「年々、夏が暑くなってかなわんなぁ」

「ほんとにね。うちらがこのあたりに引っ越してきた時には、涼しくて気持ちのいい場所やったんに」

嫁は相槌をうちながら、ぬるくなったビールを出してくれた。今日のつまみはカエルの干物と枝豆だ。枝豆は河原に嫁が小さな畑を耕し、丹精込めて育ててものだった。他にもトウモロコシや、きゅうりなど、自分達が食べる程度の作物を作っていた。 


「若旦那がさ、給金をまた少し値下げしてくれっていうんだが、どうだろ?」

「またぁ!私だってさぁ、ちょっとは新しい着物の一つもほしんだけど…」

嫁は自分の着物をしみじみと見た。確かにもう30年近く着古した着物だ。もともと先代のおかみさんのお古を貰ったものだった。

元は鮮やかな色合いの着物であったのだろうが、今では色あせ、擦り切れて穴が開き、開いてはその上を何度も、何度も当て布を当てては、繕いながら着続けているためか、もとの柄さえ、どんな柄だったのか分からなくなっていた。それでも嫁はおしゃれらしく、古びた雑巾のような着物をシャイに着こなし、綺麗に結い上げた長い黒髪に、季節の花を挿して髪飾りとしていた。

そういうヌウも着たきりに近い状態だった。

ヌウは岩のような体をしている。

皮膚は硬く濃い緑色をしており、岩のように硬かった。顔は面妖ではある。巨大な三角おにぎりを岩にしたような輪郭に、目じりが下がった小さな瞳、潰れた鼻、分厚く横に広い唇。それらが顔の中で入り混じり、人懐っこい顔をつくりだしていた。

着ている着物は絣(かすり)の着物なのだが、丈は膝までと短く、袖もひじより少し長い程度で、それを1年中着続けている。帯は擦り切れ、よれよれとなっていた。全体に煤を被って、元は藍色だったのだが、今は濃い灰色のようになってしまっている。


「不景気だしな…」

「世間は不景気だっていうけど、ほんまにそうなん?」

嫁はちょっと口を尖らしていう。もともと尖っている顔がますます尖って、危険物に見えなくも無い。こんな顔をして歩いていると、きっと岡っ引き、いや、警察に銃刀法違反でつかまるだろうな。それとも顔だから軽犯罪か。とつまらないことを考えてしまう。

「店のなぁ、客もあんまりこんようになって、わしの仕事もあんまり忙しぃないなあ。薪も最近は高いらしいし」

「そんなん山に行ったらいくらでもあるやん。なんならわしとってきたろか?」

「桜やぞ。そうそうあるかいな。それに桜は勝手にとったらあかんのや。」

「そやなぁ。そやったなぁ」

そういって嫁は鼻から息を噴出し、「昔はえかったなぁ」とつぶやく。


昔かしかぁ。

ヌウは「俺たちの昔」ってどれくらい昔なんだろうかと考えた。人とは違う時間を生きている自分たちにとって、昔とはどれくらいの時間を遡った頃を“昔”と呼ぶのだろう。

縁のかけた茶碗にぬるいビールを注ぎ、一気に飲み干す。泡ばかりの酒だが、不思議と旨いと思う。ヌウは、つい先日、旅館の奇特な客から薦められるまま口にしたビールがすっかり気に入っていた。

上唇にビールの泡をつけ、ヌウは嫁の言った昔に思いを馳せてみた。忘れていく一方の記憶の中に、決して忘れられない記憶があった。

ずっと、ずっと昔、霞がかかったように遠い昔の記憶だった。


嫁と出会う前、一人の女に出会った。目の見えない女で、妊娠していた。当時そんな女はごろごろしていた。里では忌み嫌われる旅の女は、大半は一度や二度、いやもっとかもしれないが山賊や盗賊の餌食になっていた。命があるだけでもましだ。ほとんどは、金を取られ、売り飛ばされるか殺されるか。ヌウが出会った女もなんとか生き抜いてきた一人だろう。

女は山の中で動けなくなっていた。


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