第5話

 商店街のバーの前でぴたりと足を止める。稔は少し躊躇しているようだった。それもそうだろう。中に入ってしまえば相手の好きなように弄ばれることになる。さっき怖くなって逃げてきたところに自分から行かなければならないのだから、稔の恐怖は計り知れない。稔に同情しながらも、私は稔に何も言ってやれなかった。

「あれ? こんなところで何してんの?」

 場違いなほど能天気な声が聞こえ、見ると左から晴くんが歩いてきていた。稔は突然現れた友人を見て身体を引いた。

「は、晴」

「よう。てか、顔色やばくない? 大丈夫?」

 首を傾げて稔をじっと見つめる。何も知らない晴くんはいつも通りの明るい調子で話していたが、稔は晴くんからの視線に居心地が悪くなったのか、視線を逸らし顔に暗い影を落とした。

「ごめん、話してる時間ないんだ。俺もう行くよ」

「行くって、どこに」

 稔は俯いたまま無言になる。自分では説明できないのだろう。晴くんは状況が掴めないようで目をぱちくりさせて困惑している。

「え、何? 何なんだよ?」

「俺から電話したらいいの」

 晴くんのことを放ったまま、稔は話を進める。今は時間がないから仕方がない。後で私からちゃんと説明するとしよう。

「ああ、そうだな」

 ポケットからスマホを取り出し、私の番号へ掛ける。すると私のスマホが震え出し、稔の名前が表示された。その通話を取ると、稔は一度強く目を瞑った。手が震えていた。私に無理に助けなくていいと言いながらも、やはり怖くて仕方がないようだった。

 その手を、私は力強く握った。稔が顔を上げて私を見る。泣いてはいないが、目が潤んでいた。何を言ってやるのがいいのか分からないが、とにかく、私は稔を安心させるために「大丈夫」と言った。すると、稔は微かに首を縦に振り、私の手から離れていった。スマホをポケットに直すと、バーへの階段をゆっくりと一段ずつ下りていく。

「あの、何かあったんですか?」

 晴くんは私と下りていく稔を交互に見ていた。稔の後ろ姿が遠くなっていくのを眺め、きょろきょろと顔を動かして落ち着かない晴くんを見て言った。

「稔が知らない人とずっと一緒に遊びに行っていたことは知ってるよね。その相手が、その、稔を呼び出したんだ」

「え」

 晴くんの目が大きく開く。ぐらぐらと黒目が揺れて、声も微かに震えていた。

「呼び出されたって、稔、大丈夫なんですか?」

 その問いに、私は地面に目を移し黙るしかなかった。できれば大丈夫だと言いたかった。昨日の私はこんなことになるなんて思いもしなかった。危険かもしれないとは薄々感じていたものの、やはり心のどこかで大丈夫だろうと軽く考えてしまっていた。それがいけなかったのかもしれない。稔に殴られても離さないくらい、稔を外へ行かせるのを止めておけばよかったのかもしれなかった。今更後悔しても仕方がないのは分かっているが、悔やみきれなかった。

「そんな……」

 私が何も答えないのを見て、晴くんは項垂れてしまった。

 私も今すぐにでも追いかけて引き留めたい思いだが、私が中に入れば稔が何をされてしまうかと思うと足が竦んで動けなくなってしまう。稔の身の安全をできるだけ確保したまま助けたい。時間はかかってしまうかもしれないが、私が感情的になってしまって稔が危険に晒されるよりはマシだろう。早まる気持ちを必死に抑え、何とかしようと頭を動かす。

 稔が扉を開けて中へ入っていくのが見えた。ゆっくりと閉まっていく扉を眺め、完全に閉まるまでじっと見ていた。稔が後ろ手に扉の取っ手に手をかける。中の様子は暗くてよく見えない。ゆっくりとゆっくりと閉じていく扉の中、稔が一瞬こちらを振り返ろうとしたように思えた。が、そう思った時には扉は完全に閉められていた。稔が完全に見えなくなると、急に下から何かが湧き出てくるような焦燥感があった。焦ってはいけないと頭では分かっているけれど、身体中に汗が噴き出して止まらなかった。震える膝を抑えて目を強く瞑る。落ち着け。焦るな。きっと何か突破口があるはずだ。落ち着いて考えればきっと見つかる。大丈夫、大丈夫……。

 スマホを耳に付ける。晴くんが不安げに私を見つめる中、じっと音に耳を澄ます。

『ちゃんと一人で来たようだな』

 少し離れているのか、少し聞き取りづらいが男の低い声が聞こえた。知らない声だ。ごつそうな、私が意識的に避けるタイプの男を想像する。相手は複数のようだから、この男以外にも稔の前に何人かいるのだろう。男の声の後、稔の声が聞こえてきた。

『やるなら、早くしてください』

 微かに声が震えている。その声を聞いて手に力が入る。今バーの中へ入って稔の手を取って走って逃げられないだろうか。永瀬さんに相手を怒らせるようなことはやめてほしいと言われているにもかかわらず、そんなことを考えてしまう。

『まあ、そう焦るなよ、これで最後なんだから。稔にと思ってケーキとか用意したんだぜ?』

 カンカン、と金属がぶつかる音が聞こえる。遠くで俺も食べたいなどと口々に言っている声がする。何人いるのかは把握できないが、少なくとも三人以上はその場にいるようだった。

『今はそういうの、食べたくないです』

『あ? 俺らがせっかく用意したもんを食わねぇつもりか?』

『井崎、いいから』

 突然、若い男の声が腹を立てている男を制止させた。その声に聞き覚えがあり、胸に靄が懸かったような感覚がした。だがAVを撮るような奴らの中に知り合いがいるとは思えない。気のせいだろうか。気のせいだといいのだが。

 口の悪い男は舌打ちをしたが何も言わなかった。若い男の声が稔に優しく話しかける。

『稔くん、……ちょっと、話さない?』

『話したいことなんかないです。俺に気を遣ってるつもりならやめてください』

『俺が話したいんだ。ただ、稔くんに言いたいことがあるだけだよ』

 この人が何を考えているのか分からない。だが、今すぐ撮るわけではないことには安堵した。撮る前に何とかしないと。何とか、稔を助け出す方法を考えないと。

『あんまり長話すんなよ』

『分かってる。稔くん、行こう』

 ザザ、と雑音が入る。手を引っ張られてどこか別の部屋に移動しているのだろうか。まだこの若そうな男性がどういう人なのか分からないから何とも言えないが、あまり悪い人には思えない。声だけ聞いていてはよく分からないし、直接見ることができればいいのだが……。

「三藤さん!」

 私を呼ぶ声が聞こえた。左、晴くんの後方から永瀬さんが走ってきていた。それを見ると、不思議と血の循環が穏やかになっていくのを感じた。

 私と晴くんの傍まで来ると、膝に手を置いて息を整えてから顔を上げた。

「電話は?」

「あ、これです」

 永瀬さんに画面を見せる。そこには稔と書かれた黒い画面が映っている。それを一瞥してから、永瀬さんは私の斜め後ろを指さした。

「スピーカーにしてもらって、路地裏行きましょう」

 いったん路地裏で話を聞くことにした私たちは、人影のない場所に身体を潜めた。通話をスピーカーにし、全員に聞こえるように設定する。すると、男の穏やかな声がスマホから聞こえてきた。

『騙してたこと、本当にごめんね。こんなこと言っても許してくれないと思うけど』

 さっきよりも雑音が少ない。多分、男と稔しかその場にいないのだろう。男と稔の声がはっきりと届いてくる。男が心の底から申し訳ないと思っているように聞こえて、やはりこの人はそんなに悪い人ではないのかもしれないと思った。

『許すとか許さないとか、そういうのじゃなくて、ただショックだった。ずっと俺のこと道具としか思ってなかったんだって』

『違う。それは、違うんだ』

 興奮して男の声が少し大きくなった。その真剣な声に、その場の全員が集中して耳を澄ませていた。この一瞬、私でさえ稔を助けることを忘れて男の話に耳を傾けていた。

『信じてくれないかもしれないけど、俺、稔くんと一緒に出掛けるの本当に楽しかったんだよ。本気で幸せになってほしいって思った。家庭の事情とか聞いてたから、少しでも稔くんが楽しめるようにって、色々考えて……』

『でもこうやってビデオを撮ろうとしてるじゃないですか。そういう目で見てるんでしょ、俺のこと。本当に出掛けるのが楽しいだけなんだったら、こんなことするわけない』

『……自分でも最低だって思うよ』

 男の声が小さくなる。少し間を置き、男は話を再開させた。

『母さんがさ、病気なんだよ。だから何だって話だけど。どうしてもお金が必要で、井崎に相談したら、女優の代わりになる子を捕まえてきたら売り上げ金半分やるって言われて。それで足りるかは分からないけど、バイトするよりは稼げるだろうなって。……でも、やっぱり考え直したよ。こんなことで稼いだお金で母さんが良くなっても罪悪感が残るだけだよなって。だから、……だからさ』

 ここから逃げて。男は静かにそう言った。

 顔を上げて永瀬さんを見る。永瀬さんはきゅっと唇を結んで画面を見つめていた。晴くんは私と永瀬さんのことをちらちらと見てそわそわと身体を動かしていた。こんなこと考えたこともなかったが、このまま上手くいけば男が稔を逃がしてくれる。そうなれば稔は助かる。ドクンドクンと心臓の音が中から反響している。稔、男の言う通り逃げてくれ。今がきっと最大のチャンスだ。目を瞑って稔に念を送る。すると念を送ってすぐに、稔の声が返ってきた。その声は、さっきよりも棘が抜けていた。

『逃げても、また井崎さんに呼ばれるでしょ。意味ないですよ』

『ううん、俺が何とかするよ。だから大丈夫。今までごめんね。いっぱい傷つけてごめん。そこの裏口から出られるから、誰かが来る前に出て』

『お母さんの病気は、どうするんですか』

『どうにか、別の方法を考えるよ』

 少しの静寂が流れる。稔は何を考えているのだろう。彼の母の心配をしてどうするんだ。まずは自分の心配をするべきだろう。早くしないと逃げられなくなるかもしれないのに。

『売れるんですか』

『え?』

 声には出さなかったが、思わず私も男と同じ反応をしてしまった。稔は何を言っている? 何をしようとしているんだ? 早く逃げればいいじゃないか。悠長に話している場合じゃない。その裏口から出るんだ、早く。

『俺男ですけど、売れるんですか』

 ごくんと喉の奥で息を呑む。隣で晴くんも思わず小さな声を漏らしていた。男は相当動揺しているようで、声が細かく震えていた。

『馬鹿なこと言わないでよ。稔くん正気?』

『おい、まだか? 早くしろ』

 ドンドン、と扉を乱暴に叩く音がする。部屋に来てしまう。お願いだ稔、早く逃げてくれ。お前が無理をする必要なんかないんだ。

『ほら、稔くん、早く逃げて』

 なぜか男の方が必死に稔を逃がそうとしている。まさか、稔は本当に逃げないつもりなのか。囁くように、しかし力強く男は稔の名を呼ぶ。けれど、稔からの返事はない。男は何も言わず、逃げようともしない稔に耐えられなくなったのか、ついに声を上げた。

『っ、逃げろって!』

 バンッ、という大きな音がした。その後、微かに井崎という男の声が聞こえてきた。おい、稔はどうした、と言っているのが聞き取れた。裏口の扉の中に押し込まれたのだろう。タッタッタッという階段を急いで上がる靴の音がし、扉の開く音が聞こえ稔の声も続いた。

『どうしよう。どうすればいい』

 永瀬さんに行きましょうと言われ、走り出す。路地裏からさらに細い道へ曲がっていく。そこはちょうどバーのある通りの裏の道に出る場所で、その道には人がおらず閑散としていた。

 走りながら、スマホを耳に当てて稔へ伝える。

「馬鹿なことを考えるな。すぐに行くから、絶対に戻ったりするんじゃないぞ」

『でも、う……さっきの人が』

「さっきの人のことを思うなら、戻るべきじゃない。あの人は過ちに気づいてやめようとしてるんだ。それを後押ししてどうする」

 あの人は稔を逃がしてくれた。それについては感謝したいが、今は稔のところへ行くのが先だ。聞いたことのある声であることも気になるが、それは後回しだ。

『分かった』

 スマホから稔の返事があってすぐに、バーの裏口へ辿り着いた。扉の前に稔が一人で立っている。追手は来ていないようだ。あの人が引き留めてくれているのだろうか。

 稔は後ろの扉を目で何度も確認している。誰か来ないか怯えているというより、中の様子が気になって仕方がないのだろう。逃がしてくれた若い男がどうなっているかは、外にいる私たちには分からない。

「稔!」

 一番初めに稔に駆け寄ったのは晴くんだった。晴くんは稔の非行が目立つようになってから稔のことを注意したり注意深く見るようになったり、稔のことを酷く心配してくれていた。今回、稔が何事もなく戻って来られたことは、彼にとっても緊張が一気に解れるほど安心したことだろう。

 晴くんは稔の目の前で止まると、右手の拳を震わせながら泣くのを堪えるように叫んだ。

「馬鹿なこと言うんじゃねぇよ! もっと自分を大切にしろ! ばか!」

「ごめん」

 地面の方に視線を逸らし、稔は晴くんと目を合わせようとしない。まだあの人のことを考えているのだろうか。いや、恐らくそうなのだろう。稔の気持ちが私たちの方に向いていないのは様子を見れば分かる。稔は未だに迷っているはずだ。あの人のために自分を売るかどうかを。

「稔」

 静かに声をかける。稔が顔を上げて私と目を合わせる。これまでとは違い、私を突き放すような攻撃的な鋭い瞳ではなくなっていた。代わりに瞳は弱弱しく不安げに揺れている。

 私も晴くんと同じように感情をぶつけたかった。だがそれは自分の役目ではないと、自分を落ち着かせた。私がやるべきことは、稔を安心させることだ。

「無事でよかった」

 稔の瞳が一瞬だけ大きくなった。だがすぐに俯いてうん、と小さく零した。

 稔が無事帰ってきたことは嬉しいが、稔がまた向こうへ行こうとしたりしないよう見張る必要はある。稔の気持ちを変えるにはあの若い男に接触するべきかもしれない。話を聞いて、別の稼ぎ方がないか検討すべきだろう。他の方法が見つかれば、稔も自分を売ろうとはしなくなる。

 見上げると、うろこ雲が青い空をゆっくりと流れている。稔が逃げてきてからそこまで時間が経っていないのが不思議だった。もう何時間も経った気分だった。頭がいっぱいいっぱいで時間の感覚がおかしくなっているのだろう。

「早くここから離れましょう。それから話を聞きます」

 永瀬さんがそう言って手で合図をする。稔が戻ってきて安心してしまったのか、この場がバーの目の前だということを忘れてしまっていた。永瀬さんに続くように私と稔と晴くんも走り出した。

 永瀬さんの指示で『Calm cafe』へ向かうことになった。もう店は閉めているから誰も入って来ず、話しやすいだろうということだった。稔は永瀬さんに会うのが初めてだったのか、少し永瀬さんから距離を取りつつ走っていた。後で軽く説明するべきだろうなと思いながら、私もカフェへの道を走った。


 たまに後ろを振り向いてみたが、誰かが追ってきている様子はなかった。あの人が引き留めてくれたのか、説得してくれたのかもしれない。心の中でお礼を言いつつ、カフェのテーブルを四人で囲んで全員の顔を見る。私の隣に稔、前に晴くん、斜め前に永瀬さんが座っている。みんな比較的穏やかな表情をしていた。稔も落ち着いてきたのか、ホットミルクティーを飲んでゆっくりと息を吐いた。

 その中で先陣を切ったのは、やはり永瀬さんだった。

「とりえず何もなくて良かった。稔くん、今までのこと、できるだけ詳しく話してくれる?」

 稔は永瀬さんを警戒しているようで、すぐには口を開かなかった。私の方に視線を向けて助けを求めている。アパートの隣人の永瀬さんで、元警察の人だから、怪しい人じゃないよと伝えると、永瀬さんに視線を戻してじっと見つめた。警戒を解いたようで、少し顔を伏せ気味にして話し始めた。

「ええと、ここに引っ越してからすぐの時に笠江町で声をかけられたんです。事前に予約して券を持ってないと入れないカフェがあって、その券が一枚余ってるから一緒に行かないかって。それが、さっき俺を逃がしてくれた人です」

 今でもその人が聞いたことのある声であることが胸に引っ掛かる。もう少しで思い出せそうなのに、もう少しのところでぼやけてしまって分からなくなる。

「そこのパフェに釣られたっていうのもありますけど、明るくて優しそうな人だったから俺の話を聞いてくれるかもしれないって思ったんです。……家では話したいことなんかなかったし」

 胸の真ん中に鈍い痛みが重く突き刺さる。稔が一瞬私に目を向けたのが余計に苦しかった。稔は私のことを完全に許したわけではないのだ。私なんかより、その人のことをずっと信頼していた。

「それで、毎日のように一緒に出かけるようになって、その時は本当に楽しかった。相談とか聞いてくれるし、行きたいところに連れて行ってくれるし。この前の誕生日の次の日にはサプライズパーティーをあのバーで開いてくれました。その後買い物に付き合ってもらって、……ちょっと嫌なこともあったけど、俺が楽しめるようにって、色々考えてくれて」

 稔の口角が上がる。私には決して見せてくれなかった笑顔だ。その自然な笑みは、心の底から楽しいと思えないと表れないだろう。だから私の前ではほとんど見せなかった。見せてくれなかった。

「今日もあのバーに行ったら、突然プレゼントをくれました。多分、最後だからっていう意味だったんだと思います。よく分からないまま受け取って、いつものように話をしていたら、急にソファに身体を倒されました。カメラを構えているのと、みんなの視線がいつもと違うことに気づいて、それで逃げました」

 その時のことが脳裏に過ったのか、稔は額に皺を寄せる。信頼を一番辛い形で裏切られたのだから当然だった。逃がしてくれたあの人以外は、多分もう会いたくもないと思っているだろう。元々ああいうやり方で稼いできた人たちなのだ。稔のことなど道具としか見ていなかったに違いない。

 稔の話が一通り終わると、永瀬さんが口を開いた。

「あのバーで撮影しようとしてたってことは、君を騙していた人たちの中に経営者がいるってことだね?」

「そうです」

 なるほどね、と言って何度か頷き、彼は稔へ視線を戻す。

「それで、稔くんはどうしたい?」

 その表情はとても穏やかだった。その質問に稔は答えを渋った。テーブルの上で手を握り締め、テーブルの模様をじっと眺めている。

「どうって言われても……」

「あの人を助けたいんじゃないの?」

 稔が顔を上げる。だがすぐに俯いてテーブルの方を向いてしまった。握った手を震わせて一層眉を顰める。

「助けるって言ったって、どうすればいいって言うんですか。あそこに戻れってことですか?」

「助けるには、あの人のことをもっと知る必要があると思う。君が無理をする必要は全くないよ」

 永瀬さんは真剣な眼差しを稔に向けている。稔は永瀬さんの言葉を聞き眉を緩めた。

「今からあの人を呼び出そうと思う。稔くんから電話で会いたいから来てほしいって伝えてくれる? 直接話を聞かないと、助けようがないからね」

 稔はスマホを取り出し、じっと画面を見た。不安げに黒目を揺らしている。

「電話したとして、来てくれるか分かりませんよ」

「大丈夫。きっと来てくれるよ」

 その声には不思議と安心感があった。芯の通った自信に満ち溢れた声色だったからかもしれない。迷いながらも、稔はあの人へ電話をかけ始めた。

 稔は相手に一人で来ること、『Calm cafe』へ来ることを伝える。これでもし相手に断られたらなす術がないかもしれない。ここは来てくれるよう祈るしかなかった。だが、私の心配は杞憂だったようだ。稔の顔に安堵の表情が浮かぶ。

「来てくれるって」

 通話を終えると、スマホをテーブルの上に置いた。その返事を聞くと、永瀬さんは深く頷いて「来るまで何か飲んで待ちましょうか」と言い、全員に飲み物を出してくれた。私は温かいダージリンを飲んで彼のことを待つことにした。彼が来ればこの胸のもやもやは消えるだろう。声に聞き覚えがあるのが私の気のせいなのかどうか、確かめなければならない。

 それから約十分ほど経ち、扉の鈴が鳴って一人の男が姿を現した。

「ああ、やっぱり他にも居たんすね」

 中に入ってきた人の顔を見て、私は思わず立ち上がった。その人は私を見ても表情をほとんど変えなかった。私がこの場にいることを前から知っていたかのようだ。だが私にとっては唐突なことで、店内でただ一人、私だけが酷く狼狽えていた。

「う、海原くん?」

 海原くんが私の方を向く。左頬に湿布があった。彼はいつもより柔らかな笑顔を作る。

「こんにちは、三藤さん。驚かせてしまってすみません」

 いつも会っていた海原くんと何も変わらないはずなのに、全く別人のように思えた。まるで海原くんの中に違う人が入り込んでいるような感覚だった。

「知り合いですか?」

「会社の同僚で……」

 永瀬さんは大きく二度頷いた。何か納得した様子だった。

 海原くんは扉の前で立ち止まり、私たちの方へ近づこうとしなかった。警戒しているのだろうか。視界の端で稔が椅子から立ち上がったのが見えた。

「ここへ呼び出したってことは、警察にでも突き出すつもりっすか? 別にいいっすよ。覚悟はできてるつもりなんで」

「いや、僕たちはあなたを助けたいと思ってるんです」

 海原くんの目が永瀬さんを捉え、海原くんは訝しげに目を細めた。

「助ける?」

「あなたのお母様の病気のため、何か手助けができないかと思いまして」

 海原くんの瞳が大きくなる。彼が驚くのも無理はない。彼は私たちが電話を通して会話を聞いていたことを知らないのだ。稔を助けるためだったとはいえ少し申し訳なく思った。

「稔くんから聞いたんすか」

「いえ、電話で直接聞いてました」

「海原さん」

 いつの間にか稔が海原くんの傍まで近づいていた。稔は海原くんを見上げ、きゅっと口を一文字に結んでいる。

「俺、海原さんのこと助けたい。これまで俺のためにしてくれたお礼として、何かできないかって思ってるんです」

「何言ってるの。俺は君を」

「その話はもういいです。気にしてません。俺じゃなくて、今は海原さんの話を聞かせてください」

 真剣な目を向ける稔からそう言われても、彼はまだ自分の過ちを気にして話そうとはしなかった。俯き気味で右手をぎゅっと力強く握りしめている。

「騙してたのは事実だよ。警察に連絡するとか……」

「連絡はしようと思えばいつでもできます。でもそれは話を聞いてからです」

 稔は少しも引き下がろうとはしなかった。しっかりと両足で目の前に立つ稔のことをもう一度見て、海原くんは握っていた右手を緩めた。

 そこへ永瀬さんが割って入る。海原くんと稔の横へ立って、海原くんへ目を向けた。

「あなたは確かに彼を騙そうとしたかもしれません。けれどそれだけじゃない。稔くんのためを思って行ったことは、決して悪いことではなかった。彼がこの一か月間、一度もあなたから離れようと思わなかったことが証拠です」

 初めは海原くんも騙すために稔に近づいたことは確かだろう。だが、彼は稔と過ごすうちに目的が変わっていった。心の底では騙しているという罪悪感を持ちながらも、稔を楽しませようと真剣に考えてくれた。そして海原くんはギリギリのところで稔を逃がしてくれた。彼がいなければ稔は無事では済まなかったかもしれない。稔に声をかけたのは彼だが、彼が声をかけなくてもいずれ彼を雇った人たちが稔に目をつけていただろう。稔は昔からトラブルに巻き込まれやすい性質だったから。

 海原くんは暫く稔のことをじっと見つめていたが、一度目を閉じて少し黙り込み、再び目を開けた。

「わかった、話すよ」

 海原くんの母は一か月と少し前に脳梗塞で倒れ、入院することになった。だが入院費が高く払えないことがわかった。海原くんの父は数年前に亡くなっており、母は病弱だったこともあり働いておらず、ずっと海原くんの給料だけで生活していた。そのため生活費だけでほとんどなくなってしまい、貯金できるようなお金は十分なかった。今すぐにでも入院する必要があると医者に言われた彼は、何とか短期間で稼がなければと、今回AVの撮影を手伝うことになったそうだ。

「本当は女の子を捕まえてこいって言われてたんだけどね。勘違いしたんだ」

 そう言い苦笑いする。やはり女の子と間違えて声をかけてしまったようだ。その後仲間に見せに行くと了承を得たようで、そのまま稔を使うことにしたらしい。

「お金って、どれくらいかかるんですか」

「色々合わせて五十万くらいかな。絶対に払えないってほどじゃないけど、すぐには用意できないんだよね。お金ないからさ」

 それを聞き、稔は私の方を振り返って縋るような目をした。数時間前の商店街で逃げてきた時と同じような目だった。

「どうにかできない?」

 正直、海原くんと同じ会社で働いている私に五十万などというお金は用意できない。稔の学費や将来のための貯金も考えなくてはならないし、助けたいと思っても手を貸してあげられないというのが現状だった。

「うちも余裕ないからなぁ。少しくらいはあげられるかもしれないけど」

「いいっすよ、そんなの」

 その声に稔が振り返る。海原くんは曇った笑みを浮かべて弱弱しく右手を振った。

「他に方法を探してみます。お金が貯まって母が入院できるようになれば、俺、ちゃんと自首します。たくさん迷惑かけて、ほんとすみません」

 深々と頭を下げる。表情は見えないが、泣いているように見えた。稔も同じように感じたのか、海原くんを不安げな様子で見守っている。

 突如、永瀬さんが少し待っててくださいと言い、水色の暖簾の奥へ入っていった。そしてすぐに戻ってきて海原くんの前へやってくる。

「これあげます」

 永瀬さんが茶色い封筒を差し出した。少し分厚いその封筒を見て、海原くんは目を丸くした。

「中に四十万くらい入ってるので、使ってください」

「い、いや、貰えないっすよ、こんなに」

 慌てて胸の前で手を振る。それもそうだ。初めて会った人に四十万の大金を手渡しされるのは私だって困る。だが、永瀬さんは無理やり彼の手の中に封筒を押し込んだ。

「いいんですよ。この店を建てるために用意して余った分なんで。お母様のために使ってください」

 今使わないと、どうでもいいことに使ってしまうだけなのでと付け加え、永瀬さんは彼に微笑みかけた。彼はまだ返そうと思っているのか、手の封筒をじっと眺め続けていた。

「今すぐ必要なんですよね? アルバイトではすぐには集まりませんし、もう違法で稼ごうなんて考えていないのなら、受け取るべきだと思います。返さなくていいので、お母様を助けてあげてください」

 彼の封筒を持つ手に力が入り、封筒がくしゃりと音を立てる。封筒に皺が入って、濃い茶色の染みが封筒に広がった。

「ありがとうございます、本当に、すみませんでした……っ」

 封筒を手で強く持って泣き崩れる。その場にしゃがみ込んで泣き出してしまった彼の背を稔が優しく擦った。私はその様子をただ黙って見続けていた。海原くんが落ち着くまで、誰も何も言わなかった。


 海原くんはやはり気持ちがスッキリしないのでいつか返しますと永瀬さんに言った。彼は根が真面目だから貰うだけ貰って返さないのは気分が悪いらしい。まあ、私も何が何でも返すタイプだなぁとぼんやりと思った。

 全員解散しカフェを後にすると、海原くんと稔は二人で話したいことがあるということで、湯雁町にある小さな公園へ寄った。私は先に帰って夕飯の支度を始めた。二人が何の話をしているのか気にはなったが、稔が帰ってきても聞かないつもりだった。二人の話は私が首を突っ込んではいけない話なのだ。私が聞いていいのは自分と稔が関係することだけだ。

 稔がアパートへ帰ってきたのは夕方の六時頃だった。帰ってきた稔は前よりも少し明るくなっているように見える。キッチンに立つ私を見ると、「ただいま」と小さく言った。

「おかえり。ミルクティー飲む?」

「うん」

 ダイニングテーブルの椅子に凭れ掛かり、何もついていないテレビの方をぼうっと眺めている。何を考えているのかは分からないが、何か思い悩んでいる様子ではない。楽しそうにわくわくしているようにも見えないが、落ち込んだりしていないならいいかと、温かいミルクティーを作り始めるためにティーカップを用意する。

「あのマグカップ使ってよ」

 その声に振り返ると、稔はふいと顔を背けた。額に皺を寄せて頬杖をついている。

 お腹の周辺がじんわりと温かくなった。稔なりに私のことを許そうとしているのだと感じた。稔は変わろうとしているのだ。それなら、私も変わらなければならない。星座の描かれたマグカップを手に取り、ティーバッグを入れる。

 ミルクティーの入った星座のマグカップを稔の前に置くと、稔は小さな声でお礼を言ってそれを飲み始めた。飲み物とはいえ、私の作ったものを飲んだのはこの町に来て初めてだった。そのことに感激し、思わず泣きそうになったのをぐっと堪える。

 今日はシチューを作った。ルーは市販のものだが、私の手作り料理を食べてくれたのもこの町に来てから初めてのことだった。テーブルに二つのシチューが置かれ、静かな食卓に私と稔の「いただきます」という声が溶ける。

 温かく甘いシチューの味が口の中に広がる。相変わらず不味くはないが美味しくもない。市販の味がするシチューを食べながら、稔の反応が気になってしまって落ち着かない。稔は久しぶりに私の手料理を食べてどう思っているのだろう。それとも、何も感じていないのだろうか。そんなことを考えていると、突然稔が口を開いた。

「今まで、心配かけてごめん」

 見ると、私の方は見ずにシチューを口に運んだところだった。

 本当にどれだけ心配したと思ってるんだ! と叫んでしまいたくなった。稔の帰りが遅くなってから約一か月、私の気が休まる時間はほぼなかった。帰ってきても怒鳴ってきたり物を投げつけたりされて、私は子育てに向いていないのではと落ち込む日がほとんどだった。美代子と離婚したあの日から、私の人生はずっとどん底のままだ。だが、ほんの少しだけでも稔と普通に話せるようになったのではないかと感じていた。

「いや、父さんも悪かった。無事でよかったよ」

 元はと言えば私が浮気まがいのことをしたのが原因だった。そんなことをしなければ、今でも三人で幸せに暮らせていたかもしれないのに。私のせいで、幸せな家庭は一瞬にして崩れ落ちた。写真に写っている美代子の真っ白なワンピースはすっかり色褪せ、黄ばんだ色になってしまった。

 稔はスプーンを置き、私を見た。その目は決して軽蔑するような眼差しではなくなっている。幼い頃のように温かい、優しい笑みを浮かべていた。

「父さん」

 その言葉を聞いたのはいつだったろう。気が付くと目の前がぼやけていた。稔の姿がよく見えない。顔が、目頭が熱い。

「ありがとう」

 私の美味しくないシチューは、今日はいつもより少しだけ甘く感じた。

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色褪せた白 橘水海 @tachibana-minami

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