8
結願所の大窪寺から発願所の霊山寺へと至るルートは三つある。日開谷川沿いを歩いて十番札所切幡寺へ向かうルート、大坂峠を越えて三番札所金泉寺へ向かうルート、そして大坂峠と卯辰峠を越えて一番札所霊山寺へ直接向かうルートの三つである。
私が選んだのは卯辰峠越えだった。出来るだけ円を描くように、まだ歩いていない遍路道をたどって歩きたかったからだ。それ以外のルートはオタマジャクシの尻尾部分を二回歩くことになる。
必ずしも霊山寺まで戻る歩き遍路が多くないからなのか、大窪寺以降の遍路道にある道標のステッカーは目に見えて少なかったが、大坂峠の登坂口に近づくと、それがまた増え始めた。
峠道の入り口は竹木立が茂り日光を遮ってくれていた。今日は初夏に近い、汗ばむような陽気で、木陰に入るとホッとした。
S字をいくつも重ねて高度を上げていく県道一号線に対し、それを一文字に縦貫して進むような遍路道は傾斜が急で、気温と相まって私の体力を奪っていった。ジャケットをリュックサックにくくりつけ、腕をまくり、こまめに水分を補給しながら最後の峠をゆっくりと登っていく。
頂上にあるはずの展望台がどこなのか分からない内に、今度は急な下り坂が始まった。しかし、これが最後と思えば辛さはほとんど感じられなかった。
峠越えを過ぎてからはアスファルトの舗装路を歩いてゆく。ふと、右手に線路が目に入った。あれ? と思い、白衣のポケットから地図を取り出してみると、私は気づかない内に三番札所金泉寺へ向かうルートに入ってしまっていた。卯辰峠に向かうルートへの道標を見落としたか、あるいはそもそも道標がなかったのかも知れない。一瞬、戻ろうかという考えが脳裏をよぎったが、戻るには少し疲れていた。進む気力はあっても戻る気力はなかったのだ。
徳島県に入ってからは、少し迷いそうな分かれ道に、県が設置した歩き遍路用の道標をよく見かけるようになった。そう言えば、徳島県には道標が多かったという去年の記憶が戻ってきた。安心した気持ちで遍路道を歩き続けると、三番札所金泉寺の山門がひょっこりと姿を現した。
二番札所へは金泉寺の境内を通り抜けると近道なので、山門で一礼して境内に入った。境内の様子は全く記憶に残っていなかったが、私は去年もここを訪れたはずだ。二番札所極楽寺も道沿いにあるが、こちらは外から山門を一暼しただけで通り過ぎた。あと二十分も歩かないうちに霊山寺に着くだろう。
一番札所霊山寺の山門に吊られた大提灯には確かに見覚えがあった。諸堂の配置などは無論覚えていなかったが、境内に入ってすぐの所にある池と、何よりも、本堂の天井を埋め尽くす灯篭は記憶にはっきりと残っている。
私はいつもと同じように、本堂と大師堂で般若心経と真言を唱えた。これが本当に最後のお参りである。満願の特別な朱印があると聞いていたので、納経帳にはもう空きページがなかったが納経所の扉を開けて中に入った。
「たった今、満願しました」
自分の口調の中にどこか誇らしい響きがあるのが感じ取れた。
「でも、納経帳のページがもうないんです」
「だったら、書き置きにしとこ。今日の日付入れようか」
「はい、お願いします」
墨書と朱印が押された和紙にサラサラと日付を筆で書き入れ、それを四国第一番霊山寺と朱書きされた白い封筒に収めて渡してくれた。
昨日、大窪寺を打ち終えた時には確かに達成感があった。それと比べ、満願した今日は達成感などなかった。むしろ、私が感じたのは、次に向かう札所がないという事実に対する戸惑いだった。これで本当に終わってしまったのだろうか。
戸惑いを感じたまま、私は境内に置かれたベンチに腰掛け、ひとまず白衣を脱いだ。もう私はお遍路ではないのだ。
私が霊山寺に着いた時には午後三時を回っていたが、境内ではたくさんの参拝者が思い思いに過ごしていた。特に何かを考えるでもなく彼らの姿を目で追っている内に、戸惑いの感覚はいつの間にか消えていた。
白衣を着たお遍路さんの姿がちらほらと見え、中には明らかに歩き遍路と思しき人も混じっていた。やや堅い表情は、これから先のお遍路を思っての、不安の現れなのだろう。私が「お気を付けて」と声をかけると、その人は少し驚いたようにこちらに顔を向け、軽く会釈を返してきた。そして、何かに急かされるように、足早に境内から姿を消してしまった。今から歩くのだと四番札所に間に合うかどうかというところだろう。
そうか、あの人はこれから、私が歩いてきたのと同じ道を歩くのだ。きつい遍路ころがしでは歩き始めたのを後悔したくなるかもしれないし、長く単調な舗装路では歩くのに嫌気が差すこともあるだろう。けれども、この先には、それを補って余りあるような素敵な出会いもたくさんあるはずだ。
どうかお気をつけて、心からそう思わずにはいられない。ゆっくりでいいから、無事に打ち終えてほしい。そして、再び霊山寺に戻ってきたら、これから歩き始めるお遍路さんにぜひ声をかけてあげてほしい。「どうかお気をつけて」と。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます