第5話

 

 夢を見た日の夜ではない。

 食事の後片付けも終わって、シャワーも浴び、布団の上でウォークマンを聞きながらごろごろしていると、祖父が部屋の扉を開けた。祖父が握った拳を耳のところに運ぶジェスチャーをしている。私は首を横に振る。祖父は肯いて部屋を出て行く。それから一曲も聞き終わらないうちに、また祖父がやってきて同じジェスチャーをする。たぶん私が電話に出るまでそれは続くのだろう。

 私はイヤフォンを耳から外して立ち上がる。この時間ならナリアキではないだろう。ナリアキはこの時間に祖父が寝ることを知っているので電話をかけてくることなんてない。

 私は深呼吸を一度してから受話器を取った。

 受話器を取ってすぐに声が響く。

「わたしよ」

 やはりアユミだ。その声を聞いて私は緊張する。すぐに声を出すことが出来ない。

「わたしよ、あなたのママよ」

「ママ……」

 やっとそれだけ言えた。

「どうして携帯の電源を切ってるの? おじいちゃんの電話番号を探すのに苦労したじゃない」

「充電が切れてるの……ごめんなさい」

 スマートフォンの充電は切れてない。こんなことがあるから電源を切っている。アユミはそのことを分かって言っている。謝りたくなんてないのに、謝ってしまう。

「これからはちゃんとしてよね。で、おじいちゃんは元気?」

 いつもならここから長々と説教のようなものが始まるのだけど、今日はやけにあっさりしている。声の調子から機嫌がいいのが分かる。お酒を飲んでいるのか、それとも安定剤かもしれない。

「キョウイチさんは元気、問題ないわ」

「そう、よかった。それじゃおじいちゃんをよろしくね。あなたまだしばらくそこにいるつもりなんでしょ? 来月分のお金は振り込んでおいたから、大丈夫よね?」

「ありがとう」

 これで電話が切れれば何も問題はない。でもアユミはまだ私に言いたいことを何も言っていない。それだけは分かる。

「それで、あなたは今、何をしていたの?」

 私が一度で電話に出なかったことを責めているのだろうか? 働かない頭で言い訳を考えていると、私の答えなんて待っていなかったようにアユミが質問を変える。

「私は何をしていると思う?」

 何と答えるのが正解なのだろう? アユミはやけに楽しそうな声で聞く。そして含み笑いを一度して――答える。

「パパとホテルに来ているの」

 パパという言葉に、私の体を流れる血液が一瞬で鉛に変わってしまう。

「あなたもよく知っているお濠の側の三つ星ホテルよ。そこで二人きりのディナーなの」

 体がとても冷たく重い。重すぎて自分が震えていることも分からない。

「今はちょうど前菜が終わったところ。アカザエビのテリーヌがとても美味しかったわ。メインは子羊よ。パパは鴨のグリエ」

 音もなく血管を突き破った重く冷たく苦い金属が私の胃を埋め、食道に這い上がる。私は吐き気を抑えられない。

「ママ……私、やらなくちゃならないことがあるから」

 残る全ての力を振り絞って、やっとそれだけ言えた。アユミはそんな私の声を無視して続ける。

「シャンパンも開けたの。ヴィンテージのとても上等なものよ。口当たりがよくて飲み過ぎてしまうわ。まだ食事は始まったばかりなのに少し酔ったみたい」

「ママ聞こえてる? 私、キョウイチさんのお世話をしなくちゃいけないから」

 アユミは私の話を聞くつもりなんて最初からない。

「今日はパパとここに泊まろうかしら?」

「ママ……私やらなくちゃならないことがあるから。キョウイチさんのお世話をしなくちゃならないから……」

「あなたも一緒だったらよかったのに」

 アユミは思ってもいないことを口に出す。

「パパがトイレから帰ってきたわ。久しぶりに話してみる?」

 アユミがそう言ってすぐに、私はたぶん受話器を戻したのだと思う。それでも切れたはずの電話から二人の笑い声が聞こえてくるような気がする。

 私は目眩がして、それで息をしていないことに気づき、呼吸を取り戻す前にそのまま床に倒れ込んだ。

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