第3話
「ボンニュイ!」
たぶんオヤスミという意味だろう。そしておそらくフランス語。元気溌剌に言って祖父は自分の布団に潜った。
夕食の時の祖父はパリの二十区のアパルトマンにいた。私は祖父の友人でバレエ留学をしている学生らしい。もう一人の透明人間君はオペラ座の舞台演出家助手。私はフランスに行ったことはないし、バレエなんて少女漫画の中でしか見たことがない。いつものことながら話を合わせるのに苦労する。
それにしても祖父はフランスに住んでいたことがあるのだろうか? 病気になる前の祖父からも、アユミからもそんな話は聞いたことがない。行ったことがないとしたら、その想像力はどこから来るのだろう?
しばらく待って、祖父の部屋の扉をそっと開けた。暗闇の中から寝息が聞こえてきたので、外に散歩に出ることにする。昼間の熱気はまだ残っているけど、不快というほどではない。やはりここが高台だからだろう。
二号棟から足を揃えて夜の地球にジャンプする。
団地の夜はとても暗い。外灯の半分は電球が切れてるし、道路に向いている窓も明かりがついていないところが多い。そのほとんどが空き部屋で、住人がいても老人達の夜はとても早い。この団地に来て本当の夜の暗さを知った。
空に浮かぶ月の光だけを頼りに歩き出す。
今日はどこに行こう。
潰れたスーパーや図書館は最近になって野犬の巣になっているから気をつけなきゃね。
光合成なんてたぶん嘘で、夜になって呼吸を再開し始めた雑草のむせるような匂いの中、何も考えず歩いていたら六号棟を越えて団地の西の端まで来ていた。境界に巡らされたフェンスの向こうは崖になっていて、その下には街へのバイパス道路が走っていた。錆びた鉄格子に顔をくっつけるようにして私は流れるヘッドライトの川をただぼんやりと眺めた。かなり長い時間眺めていて、何か感じるものがあるかなと思ったけど、特に何もなかった。
二号棟に戻る途中の、集会所前の自動販売機に立ち寄る。この辺りではこの機械が放つ光が唯一の光で、私は群がる羽虫を手で追い払いながら7UPを買った。ガコンと団地中に響く大きな音がして緑の缶が落下し、同時に私が押したばかりのボタンに売り切れのランプもついた。一週間前にはペプシコーラが売り切れたので、残るはダイエットペプシとマウンテンデューだけだ。補充は当分されないだろうから炭酸飲料中毒の私には死活問題。ナリアキに街のスーパーで買ってきてもらえばいいだけだけど、こういう本当に欲しいものを頼むのはためらわれる。ロリエスリムガードとはちがうのだ。
近くの児童公園のベンチに座って、乾いた喉に冷たい炭酸の刺激を与える。思わず大きな息を吐く。快感の声が出そうになる。気にせずに出せばいいのに。
祖父と暮らすようになってこればかり穿いてるウエストがゴムのユニクロの黒いロングスカートのポケットから骨董品のソニーデジタルウォークマンを取りだして、イヤフォンを耳に入れた。選曲に悩んだ結果、ナリアキのイギーポップのTシャツが頭に浮かんで、イギーポップは入ってないので、デヴィドボウイの初期のアルバムを聞くことにした。この年代の音楽はどちらかというと苦手だったけど、彼のアルバムはプレイリストにいつも残っていた。
左利きのロックスターに火星の蜘蛛達、そんなことを彼が歌っていると、片方の鎖が切れて垂れ下がるブランコの向こうからヨー子さんがやってきた。
ヨー子さんは私を見つけると手を振った。私は微笑み頭を下げた。この時間に散歩をしていると、彼女とこうして顔を合わせることが時々ある。
「今日も暑かったわね」
ヨー子さんが私の隣に座って、たぶんそんなことを言った。私はイヤフォンを外して肯いた。
「その髪の色、とても似合ってるわよ」
「ありがとうございます」
ナリアキと違って彼女に言われると素直に喜べる。
「キョウイチくんはお元気?」
「相変わらず、不思議の世界で生活していますが、ゴハンもいっぱい食べて元気です」
祖父のかかったアルツハイマーとは別の認知症の特徴は、幻覚や妄想を伴うことにあると聞いていた。もし私が年老いてそんな病気にかかれば、死ぬまで悪夢のような幻覚に悩まされそうだが、祖父はまるで新しい人生を生きるようにそんな幻覚を楽しんでいるように見える。本当に見える。
「この暑さで食事をしっかりとれるなら、心配ないわよ。私なんて夏バテで、ソーメンを食べるのもやっとなんだから」
ヨー子さんが少女のように無邪気に笑う。彼女の年齢はおそらく祖父とそんなに変わらないはず。彼女は頭もしっかりしていて、腰も曲がるどころか私よりも姿勢がいい。祖父によると彼女は昔、女優さんだったらしい。妄想の中の発言なので信頼性は全くないけど、彼女の洗練された仕種や、年老いてなお美しい横顔を見ていると、祖父もたまには本当のことを言うのかもしれないなと思えてくる。
「タバコ吸っていい?」
タバコの煙は嫌じゃなかったし、嫌いだったとしても私は他人の行為を否定出来るような立派な人間ではない。
ヨー子さんは茶色くて長いタバコを金色のシガレットケースから取り出すと、百円ライターではないライターで火をつけて美味しそうに吸った。
「ここは街と違って、どこでも自由にタバコを吸えるからいいわね」
この団地の中ならタバコだけじゃなく、何でもやろうと思えば出来る。非合法なことでもできる。交番なんてものはとっくに逃げ出していたし、何をするにしても、もうここには他人に興味を持って干渉する住人は残っていない。
「あなたも吸う?」
ヨー子さんが私に勧めるけど、私は中毒になるものは一つだけで十分だった。
ヨー子さんがベンチの上のウォークマンを見る。
「何を聞いてたの?」
彼女なら知っている気がして私はデヴィッドボウイの名前とアルバム名を伝えた。
「懐かしい名前ね」
ヨー子さんが遠い目をする。
「彼とは寝たことがあるわ。たしかベルリンだったわね」
私は驚いた顔で彼女を見た。彼女はどちらともとれる微笑みを見せ、それから声を出して笑った。私も彼女に合わせてなんとなく笑ってみた。
「聞きます?」
私が彼女にイヤフォンを差し出すと、彼女は首をゆっくりと横に振った。
それからしばらく私達は風に軋む公園の遊具を見ながら、彼女はタバコを吸って、私は7UPを飲んだ。
「ねえ、今日、郵便局の人は来た?」
彼女は私に聞いた。前にも彼女は私に同じことを聞いた。その前も聞いた気がする。
彼らは団地の外れにあるポストには毎日立ち寄っているようだが、団地の中には届ける郵便物がある時しか来ないので、私がここに来てからは一回しかその姿を見たことがない。今日、祖父に郵便物は来なかったので、彼らが来たのかどうかは分からない。
私は正直にそんなことを言った。前にも同じ事を言った気がする。
「明日また問い合わせてみなきゃね」
彼女が今日もそう言って寂しそうな顔を見せる。彼女は震える手でほとんど灰になったタバコを口にくわえて吸う。彼女はここで何を待っているのだろう? それは本当に彼女の元に届けられるのだろうか?
この前は何も言えなかったので、今日は何か彼女に言わなくてはと焦る。
「でも私は今日、UFOを見たんです」
でも口から出てきたのはそんなどうでもいい言葉で、唐突で、気がきいているわけでもない。それに正確に言うとUFOを見たと言ったのはナリアキで、私はあれをUFOだとは思っていない。つまり嘘でもある。
「UFO?」
ヨー子さんが驚いた顔で私を見る。
「そうです、あの空に飛ぶUFOです」
でもとにかくヨー子さんはもう寂しい顔をしていない。
「私も見たことがあるわ、どこだったかしら。ううん――あれはいつだったからしら?」
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