第2話
「――その頭、どうしたの?」
私が西日の眩しい階段を下りて地面に立つなり、ナリアキは言った。
「別にどこにもぶつけてないし、誰かに斧で叩き割られてもいないわ。血も出てないようだし。痛くもない」
私は頭を振って見せる。ナリアキはヘルメットをミラーにかけ、肩をすくめた。
「それとも中身のこと? 自分が狂ってるかどうかなんて自分じゃ分からないわ、当然じゃない」
ナリアキが少し呆れたように答える。
「違う――髪の毛だよ」
私がこの髪にしたのはたぶん三日前で、これがもう今の私で、それを説明するのは何かの言い訳をするようで嫌だった。とは言っても私は別にナリアキとケンカをしたかったわけではないので、大きく息をして気持ちを落ち着かせてから答える。
「ヒマだからブリーチしてみたの」
この前、四号棟の下の潰れたスーパーマーケットを探検していた時、埃だらけの棚の奥にネズミの死体と一緒にブリーチ剤が転がっているのを見つけた。毎日ヒマだったけど、それでもヒマな時があったのでやってみた、それだけ。
「それにしても、見事に色が落ちてるなあ。外国の人みたいだよ」
今どきこんな感想をいう同級生がいることに驚く。ナリアキ君、もう少し気の利いたことを言う方向で頑張ってみよう。
「でもウチの学校、校則は厳しくないけど、やっぱりそこまでやっちゃうと問題になるかもしれないな」
生活指導の常連であるナリアキに言われたくない。Tシャツのイギーポップも嘆いている。
私が不機嫌モードになるのを察してか、その前に取り繕うように言う。
「でもでも似合ってるからいいか。うん、とても似合ってる。格好いいよ、俺は好きだよ」
ナリアキは大袈裟に微笑んだ。私はなぜか顔が熱くなる。そんなことを言うナリアキを睨む。ナリアキも困ったように目をそらす。
私は咳払いする。話題をそらす。
「それで頼んだものは買ってきてくれたの?」
「ちょっと待って、その前に――」
ナリアキが背中からデイパックを下ろし、中から分厚いファイルを一冊取りだした。
「これ担任の佐藤から。中に課題が入ってるんだって。これを提出すれば期末試験のことはいいんだってさ、追試もなし。よかったじゃないか」
たぶん、アユミが寄付金あたりと引き替えに手をまわしたんだろう。余計なことをする。
「クラスのみんなも心配していたぜ。有香の時みたいに適当なことを言う奴も誰もいないしな」
そう言えば、彼女が二週間ほど休んだ時は子供を堕ろすためだとか、整形だとか、自殺未遂だとか散々言われていた。
ナリアキも私がまだ学校に復帰すると思っているのだろうか? はっきりと言ったほうが、こんな面倒がなくていい気もする。でもはっきりと言えば、きっと理由を話さなくてはならない。嘘をつくのは難しい。そのほうがはるかに面倒だ。
とりあえずは、今のままでいい。
「こんなのはどうでもいいの、頼んだものはどこ?」
少しキツイ言い方になってしまった。
そんな私を面倒がらずナリアキがにっこりと肯く。こっちはデイパックではなく、スクーターのシートの中に入れていたらしい。そこからビニールの袋をいくつか取り出した。
週に一度、生協のトラックがこの団地にやってくるが、老人向けの必要最低限のものしか持ってこないので、それ以外はナリアキに頼むことにしていた。通販は知らない人がここに来るのが嫌なので選択肢にない。
今回は街にいるときに使っていた無印良品のシャンプーとコンディショナー、カルビーのコンソメパンチやブルボンのアルフォートなど定番お菓子もろもろ、それとロリエスリムガードふつうの日用羽つきを買ってきてもらった。ナリアキがどんな顔をしてドラッグストアの生理用品の棚の前に立ち、店員にそれを差し出したのか想像すると、性格が悪いなと思いつつも可笑しくなってくる。
「こんなもの頼んでないわよ」
ナリアキがレジ袋と一緒に洒落た赤い光沢の紙袋を手渡した。中には持ち手のついた四角い紙箱が入っていた。
「こっちはプレゼント。ネットで評判のケーキの店らしいんだ。通りかかったから買ってみたんだよ」
通りかかったのではなく、たぶんわざわざ買ってきたのだろう。
「全部でいくらだった?」
聞くと、ナリアキが遠慮がちに金額を言う。ケーキの分を入れずに考えてもそれでは少なすぎる。
「おつりはいいから」
私はあらかじめ計算していた金額より多く手渡す。そのことで何かナリアキは言おうとしたから、その前に断固とした意思を示すように首を横に振った。ここに来る時にアユミから十分すぎるほどの金を渡されていたので何も困っていない。それよりこんなくだらないことで借りをつくるのが嫌だった。ナリアキは困った顔をしたが結局、そのまま受け取った。
私は隣の棟との間に立っている止まったままの時計を意味なく見上げて言う。空はまだ明るいけど、時間はとっくに夜の時間だ。
「夕飯食べてく? ナリアキの分もあるわよ」
ナリアキの前ではどうしても素直になれず、キツイ言い方ばかりしている。でも感謝はしているのだ。
「悪い、これからバンドの練習なんだ。せっかく作ってもらったのに今日はごちそうになれない。ごめんよ」
ナリアキは私と違って社交的だ。校内だけでなく、校外にも友人が多い。そしてその友人達とバンドを組んでいた。ナリアキいわくノーコンピューターで人力のテクノパンクバンドということだ。わけがわからない。ナリアキはギターを担当している。高校生にしてはテクニカルだと評判らしい。ライブがある度に誘われ、その度に断っている。だからステージ上のナリアキを私は知らない。
「ごめん。本当に悪いと思ってる」
ナリアキが私の顔を見て再びそう言った。謝らなくていいのに。
私はそんなに残念そうな顔をしているのだろうか?
ナリアキが表情を変えて、思い出したように言う。
「そうだ、今バイクの免許を取りに行ってるんだ。夏休みのうちに取れそうだから、どこか行こうよ」
「これはバイクじゃないの?」
私は目の前の物体を見て、素直な疑問を口にした。
「50シーシーのバイクじゃ二人乗りは出来ないんだ。それ以上の排気量に乗るには別に免許がいるんだよ」
「そうなんだ」
答えていても、本当のところ興味がないのでよく分かってない。
「絶対に楽しいよ、海でも山でもサヤが行きたいところに一緒に行こう」
私は曖昧に肯く。
「約束だよ、十六歳の夏休みは一度しかないんだからさ、楽しまなくっちゃ」
そんなことを言われると、急に年を取ったように感じてしまう。何もかもが面倒な私はまたいい加減に肯いてしまったけど、しばらくこの団地から出るつもりはない。
ナリアキは満足そうにヘルメットを手に取った。そしてバイクに跨がろうとして、またも思い出したように言う。
「そうだ、昼間のユーフォー見た?」
「ユーフォー? 何それ?」
唐突な話題の変化に私はとまどう。それは新しいテレビ番組か何かだろうか? こっちに来て、今までほとんど見ることなかったそれを祖父と一緒に見るようになった。でもただ見てるだけなので、どこでどんな番組が放送しているのかまで知らない。私は首を傾げる。
「三時頃、空が強烈に光っただろ? その光がちょうどこの団地の辺りで消えたんだ。スゴかったんだぜ、レイジも一緒にいてさ、あいつも見たんだ。ネットでもUFOだって大騒ぎになってるらしい。サヤも見たでしょ?」
窓を開けた時に見たあの光だろうか? この団地の上は国際線の飛行ルートになっているから、たぶん太陽の光が機体に反射したとか――そんなことだろう。ネットの話題なんて、この団地に住む私に何の関係もない。
どんな答えを期待しているのか、ナリアキが熱い視線を私に送っている。
「見なかったわ」
これも興味のない話題なので私はただ一言だけそう言った。
ナリアキが落胆したような表情を見せる。
だからナリアキは私に何を期待しているのだ? こんなくだらないことで落ちこめるナリアキがうらやましい。
ナリアキが止まっている時計を見上げる。
「ヤバイ、もうこんな時間だ。それじゃキョウイチさんによろしく言っといて」
どういうわけか祖父とナリアキはとても気が合った。
ナリアキの乗った50シーシーのバイクが団地を去り、私が部屋に戻るために階段を上がっていると、やっと暮れはじめた空に赤い認識灯を点滅させたジャンボジェットが見えた。
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