六
あてがない捜索をはじめて数時間、日が傾き、橙色に滲んだ光を木々の間から照らしはじめていた。ナップザックからペットボトルをとりだし傾ける。すぐさま空になった。
そりゃそうだ、と白は自嘲気味に思う。散々、森の中をさまよって得た成果はといえば、多くの蚊刺されと、汗に塗れた衣服、微かに軋む膝小僧くらいのものだった。
毎度のことといえば毎度のことで、もはや森歩きが趣味なやつみたいな気持ちになってくるが、普段住んでいる街では出不精になっている分、釣り合いがとれている感がある。
とにもかくにも木々の間や緩い傾斜の上り下りなんかを繰り返したのもあって、体のところどころがぐちゃぐちゃぼろぼろになっているように感じられた。
さすがに帰るか。懐中電灯も持ってきているので、暗くなっても別段歩けなくはなかったが、帰省したばかりで散々運動した体は休むことを訴えていたし、一日目に無理をして、二日目以降にグロッキーになってしまっては本末転倒だった。そのうえ、こちらの事情をある程度知っているとはいえ、知らない土地にやってきたばかりの幼なじみを放っておくのも気が引けた。
こうして引きあげることを決めて歩きだそうとした矢先、ふと、横目に古ぼけた石段が見える。目線を上げれば、傾斜の先には赤い鳥居が聳え立っていた。
そう言えば、ここは探してなかったな。
子供の頃には鹿子や揚羽とよく遊びに来た場所であるのにもかかわらず、不思議と心当たりの一つから抜け落ちていた。考えてみれば、人が常駐しているわけではない神社であったはずだから、人がいるにはこれ以上ないくらいうってつけの場所でもあった。
この調子だと、他にも忘れている場所がありそうだ。帰ったら、自らの頭の中にある情報と照らし合わせる必要があるなと内省しつつ、石段を登りはじめる。ここ数時間、ほとんど地面を踏みしめていただけに、足の裏に帰ってくるやや固い感触が新鮮に感じられた。一歩一歩、上っていく最中、蜩の鳴き声が耳に飛びこんで来る。おまけに夥しい葉に日の光が遮られているのもあって、必然的に先程よりも薄暗くなっていた。それっぽい、雰囲気が出ているな。少しばかり背筋が寒くなっていたが、同時につい数分前まで萎みかけていた期待も自然と膨らみはじめていた。
そうして数分かけて石段を駆け上がり、古ぼけた鳥居の前にたどり着く。白の二三倍の大きさのそれの間をくぐると、石畳の道がまっすぐに伸びていた。その先には、二頭の狛犬に挟まれた木製の社がある。白は道の左側に寄ったあと、辺りを見回すが、壁や手洗い場があるばかりで、人の気配はない。
あてが外れたか。肩を落としながら、せっかくだからとお参りでもして帰るか、と歩を進める。五円玉はあっただろうかと、ポケットの中から財布を取りだした時には、賽銭箱はもう目の前にあった。
「わたし、アイスが食べたい」
唐突に聞こえた女の声にびくりとする。慌てて辺りを見回すが人はおらず、生き物の気配は庭の端を飛んでいる数羽の雀と、遠くで鳴き続ける蝉くらいなものだった。
「無視、しないで欲しいな」
にもかかわらず、再び声が響く。もしや、幽霊だとか神様の類だろうかと疑いつつも、どちらから聞こえたのかだけは特定した。社の方だった。
ならば、やはり神様なのか? それにしては声に箔だとか重みみたいなものが一切感じられない気がした。
「あなたは、誰ですか?」
試しに聞いてみると、
「よくぞ聞いてくれました。わたしは、この社に住む神様です!」
声の主はそう宣言してから、えへん、と偉ぶるように口にしてみせた。
怪しさの塊だ。これまでの人生で白の中に育まれた常識は、当然のようにそう判断する。とはいえ、ここが神社であるからには、万が一本物であった場合、白の思考自体が、この自称神様(本物神様かもしれない)に対する不敬に値し、罰を当てられるおそれがある。ゆえに、もう少し確認が必要だろう、と言葉を重ねることにした。
「えっと、神様」
「はいはい神様でーす。それでなんですか、少年」
早くも偽者であるという疑惑を深めつつも、とりあえずはくじけずに会話を続ける。
「神様は、なぜ今、ここに出て来られたんですか?」
「なぜ、今か。ちょっと待ってね。今、考えるから……」
そして、恥ずかしげもなく、う~ん、ええっとええっと、などとうなりはじめる自称神様。これはもはや帰っていいんじゃないだろうか、と呆れはじめる白が、待つこと十数秒、
「そうだ……神様は常にこの神社を通してこの世を見守っているのです! なので、君のこともずっと見守っていたのですが、わざわざ階段を登ってこの社に来てくれたので、せっかくだからわたしの声を聞かせてあげようと思ったのです」
などと口にしてから、どうですありがたいでしょう、と押し付けがましく言い放った。どこから突っこんでいいのかわからないと感じながら、
「では、最初に言っていたアイスというのは?」
反射的に聞き返すと、
「ソーダアイスを所望します。あれ、すごくおいしいですよね。まさに夏の味! って感じで」
更なる要求が追加された。
「いえ、そうではなくて。なぜ、アイスをということなんですが……」
途端に自称神様は、あからさまな溜め息を吐いてみせる。
「少年よ。よく聞きなさい」
「あっ、はい」
「神様というのは別に慈善事業の類ではないのです。よってわたしがこうしてあなたたちに声を響かせるというだけでも、それ相応の対価が必要になるのです。ここまではわかりますか?」
「はぁ……」
そういうものなのだろうか? 神様業界にはトンと疎いため、どうにも勝手がわからないし、大方向こうがそう言ってるだけだろう、と白は既に決めきっている。
「なんですか、その覇気のない返事は。まあ、いいでしょう。とにかく、重要なのは対価が必要という部分! すなわち、その対価がソーダアイスだということです」
「それで、今から買って来いということですか?」
「急に物分りが良くなりましたね。ええ、その通りです。わたしはあのアイスを舐めて舌の上を弾けるような甘さで満たしたいのです。さあ、少年よ、行きなさい。わたしのためにアイスを買ってくるのです!」
呆れてものも言えない、と思う。とはいえ、姿をあらわしていない以上、完全に人外ではないとも言い切り辛い。そして、なにより、声の響きが若い女である、という点が白を去り難くしている。
さてどうしたものか、と考えたところで、ふと思いついたことがあった。
「わかりました」
「そうですかそうですか。では、少年……」
「ですが、その前にもう一つお願いしたいことがあるのですが」
「お願い、ですか? わたしの美しい声音以上に、あなたはなにを望むというのですか?」
「お姿を見せていただけませんか?」
直後、息を呑む音が耳に滑りこんでくる。自称神様の動揺が手にとるように伝わってきた。
「少年、その発言は神であるわたしに対しての不敬にあたりますよ」
「失礼しました。ですが、どうしてもお姿を拝見したかったので」
敬意自体はかぎりなく0に近かったが、姿を見たい、という気持ちだけは本当だった。
「人の好奇心自体は理解します。ですが、それを差し引いてもあなたの言葉は、わたしという神に対する不敬にほかなりません」
「そうですか……」
ここまでの反応は折り込み済みだった。なので、仕掛ける。この自称神様に効果的な方法によって。
「そうなんですよ。まあ、わたしは寛大な神ですので、少年の未熟な発言も……」
「もし、お姿を見せていただけるのであれば、もう何本かアイスをお渡ししようと思っていたのですが」
沈黙。その隙間に唾を飲み込む音がした。食いついた、と白は思う。数十秒後、
「……あなた、この神を物で釣ろうというのですか。まったく、わたしも安く甘く見られたものですね」
多分に悩んだ痕跡を窺いつつも、自称神様は白の要求を突っぱねる。とはいえ、白もまた一発で通るとは思ってない。
「それは残念です。先程の慈善事業ではないという話を踏まえたうえで、俺なりに考えた謝礼だったのですが」
「あなたの気持ちは充分に伝わってきました。そうであっても、直接的な対価を物で得ようという考えは、感心しませんね」
「あくまで、気持ちとしてですが、帰省するまでの一週間、毎日アイスを三本ずつ持ってこようと思ったのですが……実に残念です」
息を呑む音が耳に入ってくる。その後、再び沈黙が訪れた。白が偶然を装って口にしたアイスの本数は、神様の言うところの、物で釣ろうとした時、と大差はないはずだったが、要求が具体性を持ったせいか、心が揺れているようだった。
それにしても、アイスで心を惑わせる神様とは……。白のような高校生基準でみれば、塵も積もればなんとやら、ということもあり、提示した報酬は決して軽いとは言い難かったが、極端に高いともいえない。むしろ、本人……否、本柱が降臨すると考えれば、自称神様の言う通り安過ぎた。
しばらくして、日がほんの少し傾き、
「少年」
おもむろに、自称神様は切り出す。
「なんでしょうか」
「あなたの先程の言葉に噓はありませんか?」
「先程の言葉とはどれでしょう? なにぶん、いくつか言葉を重ねたもので……」
直後に自称神様は、躊躇うような唸りを響かせてから、
「毎日、三本……アイスを、という話です」
釣れた。
「はい。ただ、この辺りの売り場の数を考えると、品切れしている時があるかもしれないこと。あと、何分夏場ですので、ここまで無事に運んでくるのが難しいことなどは考慮していただき、万が一届けられなかった場合はご容赦していただければ幸いです」
たしか、屋敷の倉庫にクーラーボックスがあったはずだ。おまけに例年通りであれば、けっこうな量のドライアイスが貯蔵されているので、おそらく持ち帰ることができるだろうという算段を立てる。とにもかくにも、白側の準備は整っていた。
程なくして自称神様は溜め息を吐き
「……わかりました。特別、ですよ」
恥ずかしげな声で、白の要求を呑んだ。
「ありがとうございます」
頭を下げながら、いよいよか、と息を呑む。白としては財布からそれなりの犠牲を払っただけに、せめて、何らかの手がかりに繋がってくれること祈るばかりだった。
「では、今から姿をお見せしますので、目をよく見開いておくように」
自称神様は呼びかけるのに、はい、と応じる。
とにもかくにも、見極めねばならない。仮に空振りであったとしても、数多くの駄目の内の一つを潰したのだと思えばいい。この世にあまたの駄目があるにせよ、一つ無くなれば十分に進歩だといえるはずだ。ならば、確実に一歩進んでいるのは間違いなくて――
……などという堂々巡りの自己保身に近い思考で護身をしようとした白の目線の先――具体的には、賽銭箱の後ろでなにかがごそごそと動く気配がした。位置的に社の中か箱の後ろだとは見当をつけてはいたが、より近い方だったらしい。そんなことを考えている最中に、這い出すようにして長髪の少女が出てきて、賽銭箱の縁に両肘をついた。
「これで、満足ですか?」
恥ずかしげに顔を逸らしながら唇を動かす姿を見て、自称神様であるらしいというのを認めながら、白は目を見張る。
「ほら、少年。あなたの願いに応じて、神が降り立ったのです。なにか一言くらいあってもいいんじゃないですか?」
不満げにアーモンド形の目を吊り上げる自称神様。その衣服は、先程の車窓から見た影、そしてかつての記憶とぴったり重なっていた。
「姿をあらわしていただきありがとうございます」
「どうも。心から感謝してくださいね。そして、その感謝を忘れずにアイスを……」
「もう一つお聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「なんですか、藪から棒に」
怪訝そうな顔をする自称神様に、
「俺が子供の頃に、一度会ったことがありませんか?」
渾身の問いを投げかける。少女の形をした自称神様が目を規則的に瞬かせるのを眺めながら、もしかしたら、ずっと求めていたものにたどり着けるかもしれないという緊張や期待によって心臓が高鳴るをのを感じた。
申告通り少女が神様であるとすれば、目撃した時期から成長していないことも、そういうものである、と強引に押し通せる気がする。むろん、にわかには信じ難いのは変わりないが、神様であるとすればそういうこともあるかもしれない、と辛うじて信じるに足るものではあった。
自称神様は眉間に皺を寄せていたが、ニヤリと笑う。
「よく覚えていましたね、少年」
この答えは肯定と見ていいのでは? 途端に押し寄せてくる興奮に飲まれ、それは向日葵畑の傍ではなかったですか? と再度聞こうとして、
「わたしがあなたたちを日々見守っていることを」
自称神様が得意げに言い放ったわけのわからない言葉を耳にして、直前で思い止まる。
「子供というものは得てして敏感なものですからね。わたしが多くの生き物に飛ばしている視線の一つを捕まえたのでしょう。うんうん。珍しくはありますが、こうしてわたしを感じとってくれる方がいるのはとても嬉しいですね」
一人、納得するように頷き続ける自称神様に、そうじゃない、と説明しようとするが、なんだか無茶苦茶嬉しそうだったせいで、言いにくくなってしまう。なので、代わりに、
「神様」
「はい。なんでしょう少年。わたしは今とても気分がいいので、なんでも答えてあげますよ」
「今日の昼頃、道路沿いにある林道を散歩されてませんでしたか?」
もう一つの些細な目撃体験の真偽を確定させることにした。自称神様は、なんだそんなことですか、と目を丸くしたあと、
「はい。日課の散歩に出ていました」
答えて、そう言えばあの車の中にあなたもいましたね、と付け加えた。神様にも日課とかあるのか、と思いつつ、頭を下げる。
「お答えいただきありがとうございます、神様」
「そんなに畏まらないでくださいよ。ああ……あと、それと」
自称神様はどこか照れくさそうに頬を掻いたあと、
「神様と呼ばれるのはとても気持ちいいのですが、どことなくむず痒さもあってですね……」
よくわからない感覚だった。あるいはこの少女が本物の神様でないことのなによりの証左なのかもしれなかったが、現時点でたしかめる方法はない。
「では、なんとお呼びすればいいんでしょう?」
「そうですねぇ……では、マツとでも」
マツ。いきなりお出しされた言の葉は、馴染みがあるようなないようななんともいえない響きを有していた。
「マツ、様?」
「マツさんでいいですよ。もしも、人とかにあって、様付けとかされていたら、聞いている人は何事かと思うでしょうから。ですが、敬意は忘れないように」
ビシッと顔を指差してくる自称神様あらためマツの振る舞いを、行儀悪いなと感じながらも、呼びやすくなったことに安堵する。もっとも、神様であるという信憑性はがた落ちしたのだが。
「そういえば、名乗ってませんでしたね。俺は蛇守白って言います」
神様であるならば聞くまでもないことなのかもしれなかったが、向こうが呼び名を教えてきた以上は、こちらも名乗るべきだと思い、口にする。
「ヘビモリシロ。シ、ロ」
マツはしばらくの間、どこか感慨深げに白の名前を舌の上で転がしていたが、やがて向き直った。
「なんだか、懐かしい響きがします」
はにかむような薄っすらとした笑い。徐々に濃くなりつつある暗がりでやや見えにくくはあったものの、少女の姿は白の頭の中に強く焼きついた。同時に、どこかで目にしたことがある顔であるという感覚が強まった。
やはり、あの記憶に間違いはなかったのだろうか?
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