44 急報と抗撃

 その夜は、ライナルト父娘だけでなく村人のほとんどが猿魔獣退治に疲れ切って、早々と床についたようだ。

 翌日になると皆、畑仕事に戻る。春の種まきなどの作業は、そろそろ終わろうというところだ。

 そんな農作業の様子を眺め回しながら、ライナルトはまた娘をおぶって森の方目指し歩き出した。

 広い畑の半ばまできたところで、保護柵の方から駆けてくる姿が見えた。イーヴォのようだ。


「おーーい、大変だ、ししが近づいている!」

「猪だって? 何処だ、何頭いる?」


 百ガターほど先まで駆けてきている男に、ライナルトは叫び返した。

 焦燥に駆られた顔で、イーヴォは真後ろの柵を指さす。


「あっちの林の中に、姿が見えた。一頭だが、かなりでかい。まちがいなく、こっちに向かっている。間もなく、柵のところに着くだろう」

「そうか」


 頷いて、ライナルトは周囲を見回した。

 村の大人たちの大半が畑に出ていて、今のイーヴォの話を聞いていたようだ。

 猪なら一頭を柵の中に入れただけで、種まきを済ませたばかりの畑を無茶苦茶に荒らされることが十分に考えられる。

 一瞬でそんな思いがよぎり、皆顔を青ざめさせているのだ。

 それらに向けて、声を張り上げる。


「大きな猪なら、魔法だけじゃ効かない! 年寄りと女たちは、家に戻っていろ! いつもの男たちだけ、柵の前に集まれ!」

「おお!」

「頼んだよ!」


 言われた通り、年寄りと女たちは家の方へ駆け出した。

 それを見送って、マヌエルとオイゲンが駆け寄ってくる。それに、コンラートとツァーラも追ってきた。


「おっちゃん、魔法が効かないって言っても最初はそれで足止めするんだろう? 俺たちも手伝わせてくれ」

「コンラートとツァーラの火は、いちばん威力があるからな。よし、最初だけ参加しろ。相手が柵の傍まで寄ってきたら、飛び越えたり破壊したりされる前に逃げるんだぞ。コンラートは責任を持ってツァーラを守れよ」

「分かった」


 そのまま、一同揃って森の方角へ駆け出す。

 柵の近くには、その近辺で作業していたケヴィンと、イーヴォの妻ライラが残っていた。

 森の方向へ耕作地を広げる作業をしていたようで、草を刈る鎌と木を切る斧が傍に転がっている。

 ケヴィンが奥を指さして、叫ぶ。


「もうかなり近づいている。間もなく林を出て、姿を現すだろう」

「そうか!」


 柵の十ガター程度手前から、ライナルトは目を凝らした。

 確かに、木立の間を移動して近づくものがある。

 猪なら林の中の移動は遅くても、柵の向こう十数ガター程度の空き地に出たらたちまちこちらに向けて全力疾走を始めるだろう。想定より大きいようなら、体当たりだけで柵を破壊されてしまうかもしれない。あるいは、一跳びでこの高さなど越えてしまうか。

 ライラが、真剣な顔を向けてきた。


「ライナルト、猪相手じゃ、昨日みたいに口の中に水を入れるってのじゃ効き目はないんかね」

「やってみてもいいが、たぶん無理だと思う。猿よりかなり大きいんだから、うまく喉の中まで届かないだろう」

「そうかい。でもあたしじゃ水をぶつける強さは出せないから、やっぱり口の中を狙ってみるよ」

「ああ。それでもライラは、相手が近づいてきたらコンラートとツァーラを連れて逃げるんだぞ」

「分かったよ」


 三人は、とりどりに頷いている。

 他の大人の男四人も、張りつめた表情だ。精一杯の魔法をぶつけて、大きな猪の足を緩めるのがせいぜい。その後は、ライナルトの大剣に頼るしかない。

 先日の森の中の戦闘で、それでもライナルトの勝利はぎりぎりだったのだ。


「来たぞ!」


 柵の向こう、木立の間から焦茶色の大きな獣が姿を現していた。

 確かに、先日ライナルトが苦戦の末に仕留めたものより、さらに一回り大きく見える。

 それが空き地に出た途端、ブルルと唸って疾走を始める構えになっている。

 駆け出したら、魔法攻撃が届く二十ガター以内に達するまで一瞬だろう。

 レンズ攻撃は無理だな、とライナルトは判断を下した。

 直進する猪に横の動きは少ないが、レンズを目の前百五十ミターに固定するのがまず不可能になる。少なくとも疾走を止めない限り、この手は使えない。

 思ううち。ダダダダダ、と大型野獣の疾駆が始まっていた。

 見る見るうちに、その大きさが増大してくる。


「撃て!」

「おお!」


 距離二十ガター見当のところで、全員で魔法を放った。

 ライナルトとイェッタ、コンラートとツァーラは、風の道を使った火魔法。

 ケヴィンとオイゲンは、以前より威力の増した火球。

 イーヴォは水球をぶつけ、ライラは口の中を狙って水をぶち込む。

 一斉にそれぞれの魔法が炸裂するが、茶色の巨体の速度は鈍らない。


「もう一丁!」

「おお!」


 続けた攻撃も効果は見られず、相手の速度は鈍らない。

 そのまま柵に体当たりするつもりのようで、突進が肉薄する。

 もう数歩――。

 という、ところで。


「みじゅ」


 ライナルトの耳元に、小さな声が聞こえた。

 途端。


 ブフォフォフォフォーーー!


 猪が雄叫び、その足が乱れた。やや斜めになって、蹴躓いたかのように横転しながら柵に衝突。

 木の柵を破壊するまでに到らず、そのまま手前でのたうち回っている。


「な、何だ?」

「どうした?」


 口々に仰天の声が上がる中。

 即座にライナルトは駆け出していた。

 一跳びに柵を越え、のたうつ猪の脇に着地。大剣を抜いてその首に斬りつける。


 ギィィィィィーーー!


 甲高い悲鳴とともに、太い焦茶の首から鮮血が噴き上がった。

 振り返り、ライナルトは大声で呼びかけた。


「ケヴィンとイーヴォ、刃物を持って、こっちへ来い!」

「おお!」

「よっしゃ!」


 若い二人はそれぞれ近くにあった鎌と斧を握り、柵を跳び越えた。

 ライナルトに指示されて、まだのたうちを続ける巨体の首付近に刃物を振り下ろす。

 それぞれ茶色の毛皮に斬り込み、新たに血が噴き出した。


「よし、動きを止めたら鎌や斧でも止めを刺せるな」

「おお」

「そうだな」


 確認しているうち、ライラとマヌエル、オイゲンとツァーラも柵の出入口を抜けて寄ってきた。コンラートには、村に報告に走らせたという。

 三人ともに、動かなくなった獣を覗き込んで頷いている。


「まちがいなく、仕留めたんだなあ」

「ああ、やったねえ」

「それにしてもよお」マヌエルが首を傾げた。「さっき柵の手前でこいつが倒れちまったの、何が効いたことになるんだ」

「ああ」ケヴィンも頷く。「俺たちの火や水が当たって、という感じじゃなかったよなあ」


 頷き合い。ライラがライナルトの顔を覗き込んできた。


「あのときさあ、イェッタちゃんが何かやったように見えたんだけど」

「ああ――俺もよく分かっちゃいないんだが」


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