希望の竪琴
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希望の竪琴
漆黒の闇に包まれていた。
真っ暗だ。
日常で、この様な状況というと、深夜に眼が覚めた時にあたるが、居心地の良いベッドの柔らかさがなかった。
それに、土の芳香。
いや、臭気というべき強い臭いがあった。まるで土に埋められたような感覚がある。
闇の中で少女は身を起こす。
栗色のミディアムヘアをした少女だった。
色白の顔立ちで、整った目鼻立ちをしている。
前髪を真ん中から分けており、童顔を大人っぽく見せ大きな目がはっきりと見えた。
すらっとした体型をしている。
名前は
響子は身を起こすと、闇の中で浮かぶ、いくつもの顔にぎょっとした。
下から光が当たった顔を怖いと思うのは、日本だけでなく世界共通の感覚だ。
このように感じるのは、光が下から照ることに我々人間が慣れていないという説がある。太陽は上から照らす為、下から照らされる構図というのは見かけない非日常だ。
だから、そんな物が眼前に現れると、無意識のうちに異様に感じてしまい、恐怖を生むのだと言う。
響子の顔は、その例に漏れず青ざめていた。
「大丈夫ですか?」
中年男性と思しき顔が優しい声で、響子を気遣うが、それが余計に怖い。
響子は訳も分からず、後ずさると、誰かが優しく抱き留められ、そちらを見上げた。
まるで、野の花のように優しい雰囲気を纏う少女。
少女は、肩まで伸ばした艶やかな黒髪に縁取られた顔立ちは整っており、瞳は大きく綺麗な二重瞼をしている。
身長は高くも低くもなく、腰はくびれ脚は長くすらっとしていたが、胸元の膨らみは小さく華奢だった。
年齢は響子と同じく中学生くらいに見えた。
「運転手さん。この人は私が見ます」
少女が告げると、運転手は短く答えて現状を把握する為に、通路の先の方へと消えて行った。
そこで響子は闇の中で照らされる明かりが、スマホの画面であることが分かってくる。最初は暗くて状況が分からなかったが、ここがバスということが分かってきた。
ただ周囲が暗いのだ。
まるで闇に飲み込まれたかのように、暗黒が辺りを包んでいる。闇はバスの車内まで及び、スマホの画面照明で通路に僅かばかりの明かりが灯っているだけだ。
そこで響子は理解した。
自分はバスに乗っていたのだと。そこから、段々と思い出して来る。響子は休日を利用して街に繰り出した。
目的は買い物だった。
デパートに行き、服を数着と靴を購入しての帰りのバスに乗ったところまでは覚えている。
そこから先の記憶がない。
今がいつなのか分からなかったが、大体の時間は把握できた。体感的には数時間は意識が無かった感覚があるが、時間を確認しないことには分からない。
時刻が分かれば、どういう状況なのかも把握できるだろう。
響子は自分のバッグの中からスマホを取り出すと、時刻を確認した。
時刻は22時47分だった。
スマホの画面を見て、時刻を確認し終えた響子は少女の方を向いた。
「一体何が……。どういう状況なの」
少女の黒くて真っ直ぐな瞳は、響子のことを優しく見つめている。
「ここはトンネルの中よ。出入り口が崩落して閉じ込められているの」
少女の説明を受けて、響子は思い出す。
バスはゆっくりと走行していた。
乗っていた響子は、バスの速度は気にならなかったが、凄まじいクラクションが後方から聞こえてきた。
響子が居る席はバスの中間の為、その車は見えなかったが、煽られたバスの運転手は左に寄って減速をしていた。
その際、響子はバスの横を凄まじい速度で走り抜けるスポーツカーを見た。どんな乗り手が居るのか分かる気がすると共に、あおり運転をするマナーの悪さを感じた。スポーツカーの姿を響子が目で追っていると、その車がさしかかったトンネルの出口の光が消えるのを見た。
そして、大きな音が響き渡る。
窓の外から見える風景が粉塵によって遮られると共に、急ブレーキによる車体は揺られ衝撃がバスを襲った。
バスの中は一瞬にして混乱の渦に巻き込まれた。
様々な悲鳴が上がる中で、響子は意識が遠のいていった。
「……崩落って。地震なの?」
響子は少女に訊いた。
「詳しくは分からないわ。スマホは圏外で外との連絡は取れないし。ネットにも繋がらないの」
少女は自身のスマホを見せてくれた。
その画面を見て、響子も自分のスマホの画面を見るが圏外になっていた。それでもやってみないことには納得できない響子は、自宅へと連絡をすることを試みようとするが、少女の言うように通じなかった。
「私も何回か連絡してみたんだけど、ダメだったの」
少女は座席に深く身を預けて、溜息を吐き出す。
色々と試してみたようだが、やはり連絡はつかなかったようだ。
少女の表情は少し悲しそうで、まるでそれが表情筋を使って悲しんでいるように思えた。
そんな少女の横顔に響子は言いようのない不安に包まれていたが、質問をした。
「出られないの? 外と連絡も取れないって……」
トンネル事故だとすれば、すぐ救助が駆けつけるハズだと響子は考えている。
だが、現状を思えばそれも怪しく思えてきた。
外との連絡すら出来ない状況ということは、トンネルが崩落した時にバスがそこにあるという情報も遮断されているということだ。
「少し前に男の人が何人かで車外の様子を見に行ったわ。出入り口がどうなっているか分かるわ……。そうだ、名前を言ってなかったわね。私、
少女が改めて自己紹介をしてくれた。
「私、林響子」
響子も自己紹介をすると、初穂はニコリと微笑む。
「よろしく、林さん」
こんな状況でも優しい笑みを浮かべるのだなと、響子は思ったが、今の非日常的な状況が少女をそうさせているのだと思えてならない。
「響子でいいよ」
響子は、その微笑みに答えた。
「じゃあ。私も、初穂って呼んで下さい」
初穂は柔らかい口調で、響子にそう言った。
そこにバスの入口から数人の男性達が乗り込んで来た。
「運転手さん、ダメだ。出入り口は両方とも土砂で遮断されている」
乗り込んで来た男性の一人が言う。
その報告に響子達以外の乗客達は大きく騒めき始めた。
混乱が広がり始めるのは無理もない話だ。何故なら、誰も脱出する方法が分からないからだ。トンネルの中に取り残されている状態で、現状を把握すれば誰だってこうなるだろう。
また外と連絡を取る手段もないということは、救助に来るとしても時間が掛かってしまうハズだと響子は感じた。
「クソ。あんたが、もっとスピードを出していたら、こんな所に閉じ込められたりしなかったんだ!」
閉鎖された絶望感から、座席に座っていた中年男性が声を荒らげて運転手に文句をぶつけた。
確かに響子もそうも思ったが、これはしょうがないことだ。バスは安全運転を心がけているだろうし、急に速度を上げろと言われても客に運転手に命令する権限はない。
中年男性は運転手に詰め寄った。
バスの中の人々は不安に満ち、焦りに駆られていた。
ある人は泣きじゃくり、別の人は叫び声を上げ、混乱した声と足音が混ざり合っていた。
「どうしてこんなことが……」
と、一人の女性がつぶやいた。彼女の声は怖れと絶望に満ちていた。その言葉が、バス内の空気に不安と不安定な静寂を運んでいく。
すると、初穂が立ち上がった。
大人しい気弱な少女に見えたが、毅然とした態度だった。
「そんなことは、ありません」
すると中年男性は少女に向かって怒鳴ったが、初穂は全く動じていない。それどころか、運転手責めることもなく淡々と話をし始める。
「あの時、バスの運転手さんはスポーツカーから煽られていました。それで先を譲った、その車がどうなったかを私は見ました……。あの車は出口で土砂が降り注ぎ、飲まれた……」
初穂の言葉に中年男性は、目を大きく見開き息を飲んだ。
それは、速度を上げて走っていたら、このバスがどうなっていたかを想像したからだろう。
光源がスマホしかない中だが、少なくとも響子にも分かるほどに、中年男性の顔色は血の気が引いて青くなっているように見えた。
「今、こうして私達が生きているのは、運転手さんのお陰です」
初穂は運転手に向かって頭を下げた。
そんな初穂が響子には凛々しく見えて仕方ない。
普通であれば恐れを抱いてしまうような状況だが、そんな状況で真っ先に前に出て話すことができるのは尊敬に値すると響子は思った。
初穂は続ける。
「今は待つことです。あの時、揺れは無かったことから、これは地震じゃありません。このトンネルの出口前後だけで起こったことなら、外の人達は救助隊を編成するハズです」
その言葉にバス内の空気が変わった。
一時は混乱に満ちていたが、初穂の言葉が希望をもたらしたからだった。
まだ助かるかもしれないという願いが芽生え始めてきたからだ。
響子もその一人であり、他の乗客達もそれに同調するように頷いたり、小声で話したりと盛り上がり始める。
腹を立てていた中年男性は席に座った。
表情は険しく、不満げな視線を向けていたが、今の初穂の言葉に賛同したのだろう。
こういったトラブルの時こそ人の本性が現れるものだという思いを改めて響子は強く感じたものだ――……。
だが、この時はまだ知るよしもなかった。
まさか翌日朝となる時間になっても外に出られる訳もなく、食料も水も無い状況が続くなどとは予想していなかったのだ。
空腹や喉の渇きに耐え兼ねて、乗客同士が喧嘩が始まるなど、車内に不穏な空気が立ち込め始めてきていた。
元々喧嘩っ早い、あの中年男性とそうでない人達とで派閥が形成されつつあったが、こういった緊急事態下では押さえられていた負の感情が爆発し始めてくるのを響子は感じた。
それが極端な場合、殺し合いにまで発展するのだが……。
しかし、今はそんなことをしている時間はないハズだ。ここは皆が協力しあって何とか生きて外に脱出しなければいけない。
響子はそんなことを思い始めていたが、どうすれば良いのか彼女には分からなかった。
すると車内に、ひとつの音が響き渡った。
弦を弾く音。
響子は、その音が近いと感じ、隣を見ると初穂が中世の詩人が持ってそうな小さな竪琴を手にしているのを見た。
ライアーハープと呼ばれる楽器だ。
漆黒の闇が彼女の音に包まれ、静寂と共にバス内に優雅な調べが広がった。
それは素朴な音だが、リズムに乗るようにリズムが変わっていくと、やがて綺麗な音色となってバスを支配した。
幻想的な弦の旋律に、ゆっくりとしたメロディーがバスの乗客達に安らぎを与えていく。
それは、心に沁み入るような音色であり、彼女の無垢な表情と相まって美しいものだった。
響子は演奏を聞いていて、いつの間にか涙を流していた。
こんなにも美しくて温かい旋律を奏でる初穂のことを、美しいと思ったからだろう。
気がつけばバス内に漂っていた嫌な空気は綺麗になくなっており、トンネルに閉じ込められた絶望的な状況ではあったが皆の顔に余裕が戻ってきたように感じるのだった。
【音楽療法】
音楽を聞いたり演奏したりする際の生理的・心理的・社会的な効果を応用して、心身の健康の回復、向上をはかる事を目的とする健康法、代替医療あるいは補完医療。
音楽療法は今日、医学的にその効果が認知されるようになり、
1) 心身症の改善
2)痛みの緩和
3)血圧や心拍、ホルモンの正常化
4)認知症や脳神経疾患の改善
5)自閉症や生活習慣病の改善
などに活用される。
加えて、免疫力向上による感染症やがんの予防や回復などに対しても波及効果をもっている。
音楽は、宗教(原始宗教、自然崇拝など)の誕生と同時に音楽は生まれ、儀式や呪術に用いられた。これにより人びとの精神を鼓舞したり一種のトランス状態(憑依)を引き起こしたりする。
治療効果も古くから知られ、『旧約聖書』には、ダビデはサウルのうつ病を竪琴で治したとされる(『サムエル記』上16.14–23)。
サウル王が「悪鬼」におびえたため、家来たちはサウル王に言った。
「ねがはくはわれらの主汝のまへにつかふる臣僕に命じて善く琴を鼓く者一人を求めしめよ神よりきたれる惡鬼汝に臨む時彼手をもて琴を鼓て汝いゆることをえん(第一サムエル16:16)」
この家来らの進言によりサウル王はダビデを呼んだ。こうしてダビデはサウルに仕え、竪琴を弾いた。
「神より出たる惡鬼サウルに臨めるときダビデ琴を執り手をもてこれを弾にサウル慰さみて愈え惡鬼かれをはなる(第一サムエル16:23)」
とあり、神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルの心は安まって気分が良くなり、悪鬼は彼を離れたとある。
また、第二次世界大戦により大量の傷病兵を出した米国は野戦病院において音楽を流し、ないし演奏してみたところ兵士の治癒が早まった。その後米国を中心として音楽による治療効果が立証される。
古代ギリシャ時代の哲学者ピタゴラスは、音楽を治療技術(音楽療法)として使うための組織的なアプローチを行った最初の人とされる。
「すべての天体、実際にはすべての原子は、その動き、リズム、振動のために、特有の音を生み出している」
「これらの音と振動のすべてが宇宙のハーモニーを形成する」
と述べた。
ピタゴラスは、音楽が人間の社会性や道徳心、あるいは宗教心を豊かにすることを唱えた。そういう意味で、音楽療法の原点は古代にまで遡ることができる。
乗客達は自然と目を閉じライアーハープの奏でる音と和に包まれて行く。
いつしか乗客達の車内は落ち着きを取り戻していた。
中には涙ぐむ者も居るほどだ。
まるで魔法でも使ったのかというくらいだった。響子もそう感じたのだから間違いはないのだろう。
どれだけの時間が経ったのだろうか、多くの人達が不安と疲労で眠りにもつけないでいたが、初穂の奏でるライアーハープの音色を聞くとそれが嘘のように無くなっていく。
やがて乗客達は、健やかな寝息を立てるのだった。
響子はノックする音を聞いた。
少し体を震わせて目を開けると、オレンジの救助服にヘッドライトを装備した屈強な男性達がバスの外にいた。
「救助隊だ」
響子は驚くと共に安心する。
他の乗客達も眠りから覚め始めたようで、バスの車内は騒がしくなっていく。
救助隊はドアを手動で強制的に開けると、車内へと入って来た。
「ケガをされた方はいませんか?」
救助隊が声を張り上げる。
響子は隣に居る初穂に声を掛けた。
「初穂。私達、助かったよ」
そう伝えると彼女は笑顔で頷いた。
「うん。助かったんだね」
彼女の顔を見ると響子にも笑顔が戻って来た。
救助隊の到着により、乗客達は安堵の息吹きを感じ、一安心した。救助隊員達は乗客達を丁寧に助け出し、トンネルの外へと案内していった。
軽傷だった人は自力で歩き、自力での歩行が難しい人には救助隊員が肩を貸して立ち上がらせ担架で運ぶ。
外に出ると、そこは青空が広がっていて、響子は清々しい気持ちになる。
青空の下に出て、助かったのだと改めて実感するのだった。
「大丈夫ですか? ケガはありませんか?」
外で待機していた、救助隊員が心配そうに尋ねた。
初穂は優雅な笑顔で救助隊員たちに対応し、
「大丈夫です。ありがとうございます」
と言った。
比較的疲労が大きい人を優先して救急車に乗せていき、乗らなかった人達は簡易テントの下へ案内される。
乗客達に温かい飲み物や、毛布が提供される。中には、スマホを使って家族に連絡をする者までいた。
響子も、父と母と電話することができて久しぶりに声を聞けたことで泣きそうになったが堪えることが出来た。
初穂は特に取り乱したり落ち込んだりもしておらず、いたって冷静に見えた。
それからしばらくして響子達にようやく毛布と温かい飲み物が与えられる。
長い時間トンネルの中に閉じ込められた影響で肌寒く感じたからだろう、有り難い気遣いだった。
暖かいお茶を、一口飲んでみると体の内側を温めてくれた。
そのお茶が染み渡るようで、ホッとした響子は隣を見た。
初穂も紙コップを両手で包み込み、それを美味しそうに飲んでいる。彼女の演奏が心を癒してくれたように、救助隊員たちの心遣いも乗客達の疲れを癒していく。
初穂と響子は救助隊員達に感謝の言葉を伝え、連絡先を交換して別れることになった。
「初穂。オススメのケーキ屋さんがあるの。一緒に行かない?」
響子が尋ねると、初穂は少し恥ずかしそうに微笑む。
「いいね。連絡待ってるよ」
そう言って初穂は響子の手を握り、別れの挨拶をした。
それはまるで子供同士がするような可愛らしいものだったが、響子は少し気恥ずかしかったがそれ以上に嬉しく、幸福な気持ちに包まれていた。
互いに手を振ると初穂は小さく微笑んで手を振り返してくれた。
響子は、そんな些細な出来事でさえも心が躍ってしまうぐらいに嬉しかったのだ。
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