第29話 クールさんと料理ノート
「まずは野菜の皮剥きですね」
やる気に満ち溢れた桜彩が両手に防刃手袋を着用してキッチンに立つ。
朝に伝えた通り怜の帰宅が遅れて夕食の調理の開始は予定よりも三十分ほど遅れてしまった。
そのことについて怜は桜彩に謝罪したのだが、桜彩は笑顔で『謝ることなんてないですよ』と言ってくれた。
そしてすぐに二人で夕食の準備に取り掛かる。
今日のメインは肉じゃがを作る予定だ。
「それでは光瀬さん、お手本をお願いします」
「ああ」
そう言って怜は包丁でジャガイモの皮を剥いていこうとするが、ふと思い立って包丁を置いた。
「光瀬さん?」
怪訝そうな顔をして桜彩が問いかけてくる。
「いや、よく考えたら包丁よりも良いものがあるから」
そう言って怜はキッチンの引き出しを開けてピーラーを取り出した。
洗い物が増えるのを嫌って怜はあまりピーラーを使うことがないのだが、桜彩の場合は包丁よりもピーラーの方が良いだろう。
取り出された見たことのない器具を見て桜彩が首を傾ける。
「あの、それは何でしょうか?」
「これはピーラーっていう、野菜の皮を剥く為の物だな」
桜彩の質問に怜は軽いカルチャーギャップを感じながら答える。
この家賃お高めの家族向けアパートに高校生で一人暮らしさせてもらっていることから、桜彩は本当に良いところのお嬢様なのかもしれない。
その点においては怜も同様だが。
「まあ使い方は簡単。とりあえず使ってみるから」
そのままジャガイモの皮をピーラーを使って剥いていく。
流れるように皮が剝かれていくのを見て、桜彩が目を丸くする。
「凄いですね。このような物があるなんて初めて知りました」
「それじゃあ渡良瀬もやってみるか」
「はい!」
お手本として一つだけジャガイモの皮を剥いたところで、桜彩へとピーラーを渡すと桜彩は新たにジャガイモの皮を剥き始める。
その横で桜彩の様子を確認しながら、怜は朝から準備していた昆布出汁を火にかけて鰹節の準備や白滝の下処理といったことを進めていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
桜彩が野菜の皮剥きを終え、ジャガイモとニンジンは乱切り、玉ねぎを柵切りにして水につけたところで怜の方も出汁を取り終えた。
「それじゃあ炒めていくか」
「え? 肉じゃがですよね? 煮るのではないのですか?」
肉じゃがは当然ながら煮込み料理なので、桜彩には具材を炒めるといった発想がない。
「肉を炒めずに煮込んでしまうと肉汁が外に出てしまうからな。だから肉の表面を焼き目を付けてコーティングして肉汁を出にくくするんだ。それにジャガイモとかも煮崩れ防止や風味を出す効果があるし」
「そうなのですね。また一つ勉強になりました」
そう言いながら怜は鍋に油をひいて一口大に切った肉を炒める。
ある程度色が変わったところで野菜も投入して軽く火を通した後に、鍋に出汁や砂糖、料理酒を投入していく。
「今回は肉じゃがを作るということで出汁を入れてるけど、カレーにしたければ水を入れて煮立ったところでカレールーを入れればいいし、シチューにしたければシチューのルーを入れればいい」
「あ、確かに白滝以外は具材が一緒ですね」
「他にも豚汁とかハヤシライスとかポトフとか、色々と応用が利く上に覚えやすいからな。だから最初の内にこれを作っておきたかったんだ」
「そうなのですね。ありがとうございます」
今日のメニューを肉じゃがにしたのは自分の為、ということを知って桜彩が頭を下げる。
「いや、俺も肉じゃがは好きだしな。それに誰かと一緒に料理を作るってのも中々楽しいし」
「ふふっ、そうですね。確かに私も作っていて楽しいです」
そう言いながらお互いに笑い合う。
二人で雑談をしながら鍋の中から灰汁を取り除く。
「さっき、カレーの場合はカレールーを入れるって言ったけど、俺の場合はスパイスで作ることが多いな」
「そうなのですね。それも食べてみたいです」
「まあおいおいな。それと今作ってる肉じゃがだけど、めんつゆを使って簡単に味付けすることも出来るぞ」
「めんつゆって、あのお蕎麦とかのめんつゆですか?」
「ああ。めんつゆってのはかなり広く使える万能調味料だからな。俺は自分で出汁を取ったりして自分好みに味付けしたいけれど、朝とか面倒な時に使ったりもするぞ」
「そうなのですね。てっきりお蕎麦やおうどんの時しか使わないものだと思っていました」
「そうだ。ならそっちの肉じゃがも試しに作ってみるか」
怜は朝食や昼食の弁当を作る際に、追加で一品欲しいと思ってめんつゆを使ってだし巻き卵を作ることもよくある。
その為、市販のめんつゆは常にストックされている。
肉じゃがの灰汁取りを桜彩に任せながら、怜は少量のジャガイモとニンジンの皮を剥き、手早く切って小鍋へと投入する。
玉ねぎや白滝は入れないが、あくまでも比較用なので構わないだろう。
そのまま油で炒めずに水と砂糖、めんつゆも投入して煮立たせていく。
「え、あの、炒めるのではないのですか?」
先ほど説明されたのと違う調理方法を疑問に思った桜彩から質問がくる。
「まあこれはあくまで比較で作る時短用レシピだから」
そう答えながら怜は先ほどから作っていた肉じゃがの方を確認し、醬油とみりんを入れて弱火にし落し蓋をする。
そのまま煮詰めながら塩を入れて味を調えていく。
「それじゃあ渡良瀬、味をみてくれないか?」
「はいっ!」
嬉しそうに桜彩がそう答える。
「えっと、小皿は……」
シンクの上の棚を開けて、普段は使わない小皿を探す。
昨日、直接菜箸で味見をさせてしまった反省を踏まえてのことだ。
「あ、あの、光瀬さん……」
「ん?」
声の方を振り向くと、桜彩が緊張した面持ちで何かを言いかけている。
「あの……その……み、光瀬さんが気にしないのでしたら……私は昨日のように……」
「え?」
小声でそう呟く桜彩の言葉は怜には届かなかった。
「渡良瀬?」
「い、いえ、何でもありません!」
焦ってそう訂正する桜彩に怜は怪訝な表情を浮かべるも、深く追求するのもなんだと思ってそのまま小皿を探す。
見つけた小皿にジャガイモを一つ乗せて桜彩の方へと差し出す。
少し残念そうな表情で差し出されたそれを食べる桜彩。
「うん。美味しいです」
「そうか。後は少し時間を置いて味をしみ込ませれば完成だな」
桜彩の表情が少し気にかかるが、本人が言わない以上あえて気にせずに火を止めてそのまま時間を置く。
その間に時短用の肉じゃがも完成した。
具材を小さく切ったので出来上がるのが早い。
「うん。こちらも美味しいです」
時短用の肉じゃがを味見しながら桜彩が嬉しそうに感想を言う。
先ほど見せた悲しそうな表情は今はもう消えて、料理を楽しんでいる。
「ですが驚きました。確かにこちらの肉じゃがもそれなりに美味しいですね」
ちゃんと作った物と比べて悪く言えばかなり適当に作ったと感じるかもしれないが、それでも普通に美味しい。
「ああ。俺は出汁を取ったりすることを手間だと思わないし味もそっちの方が好きだからちゃんと作るけど、そこまでこだわらない場合は簡単に作っても良いと思うぞ」
「そうですね。私も最初はそうしてみます」
桜彩にとってはまずは簡単な方法で始める方が良いだろう。
とすれば、明日以降もまずは簡単な味付けにした方が良いかもしれない。
「だけど渡良瀬がこっちの肉じゃがの方が美味しいって思ってくれて良かったよ」
めんつゆではなく出汁等で味付けした方を差して怜が言う。
「え? それは当然じゃないのですか?」
「いや、そうとも限らないぞ。テレビなんかだと高級肉とその辺で売っている肉の区別が付かない人もいるみたいだし。俺は別にそれを悪いことだとは思わないけど、やっぱり一緒に食べる相手とは味の好みが合っていた方が良いからな」
「そうなのですね。私も光瀬さんと同じような好みで良かったです。光瀬さんが美味しいと思う物は私にとっても美味しいでしょうし」
笑顔で箸を進めながらにっこりと笑う桜彩。
怜もつられて笑顔になって、一通り桜彩の技術が上達したらもっと色々な料理を一緒に作ろうと密かに思った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「そうだ渡良瀬。これを」
食後、片付けが終わった後で怜は二冊のノートを渡す。
片方は新品で、もう片方はかなり年季の入った物だ。
「ノートですか?」
渡された物を不思議そうに桜彩が眺める。
怜は年季の入ったノートを指差して
「ああ。これがかなり昔に俺の使っていた料理ノート。まあ字も汚いしメモみたいな感じで使ってたやつだけどな。一度作った料理の材料や量、それに調理工程を書いてたんだ。後は失敗した時は失敗の内容とか料理する時のコツとか。こういうのを作っておくと復習にもなるし次に作る時にスムーズに出来る。まあ人によって合う合わないってのはあるだろうけどな。だから渡良瀬、とりあえず渡良瀬も作ってみたらどうだ?」
「料理ノート……。なるほど、確かに一度作った後で見直すことも出来ますね」
「そうそう。俺も母さんに教わったコツとか書きまくってたなあ。うわっ懐かしっ」
過去のノートを見ながらしみじみと呟く。
小学生の頃は今では考えられない失敗もしたものだ。
「ありがとうございます。それでは私も同じように挑戦してみますね」
「ああ。分からないことがあったら聞いてくれ」
「はいっ!」
嬉しそうに新品のノートを開いて今日の内容を書こうとする桜彩。
さっそく一ページ目にペンを走らせようとしたところで一度怜が桜彩を止める。
「あっ、待った」
「え?」
どうしたのかと不思議そうな顔をして怜の方を見る桜彩。
「渡良瀬の場合、目標が明確だからな。まず最初のページに目標を書いてみたらどうだ? その方が毎回モチベーションが上がるかもしれないし」
「なるほど。確かに光瀬さんの言う通りかもしれません」
そうして桜彩は最初のページに大きく
『目標:ゴールデンウィークまでに簡単な料理を作れるようになって葉月を安心させる!』
と書き込んだ。
不審者騒動の時の言葉と合わせて考えると、葉月というのは桜彩の姉の名前だろう。
そして桜彩は次のページに早速今日教わった内容を書き込んでいく。
「あの、質問しても良いですか?」
「構わないぞ」
「ピーラーの使い方なんですが――」
「それは――」
真剣な目で怜のアドバイスをノートへと書き入れていく。
この分なら上達も早いかもしれない。
「そうだ。文字だけじゃなくイラストなんかも入れてみると良いんじゃないか?」
怜の場合は昔から絵心がなかった為に、ノートの中身は全て文字だけだ。
しかし桜彩と最初に出会った時に偶然見たスケッチブックの絵。
あれは本当に上手だった。
あれを描いたのが桜彩であれば、きっとイラストも上手に描けるだろう。
そう思って提案したのだが、桜彩のリアクションは怜の予想とは大きく違った。
怜の言葉に少し悲し気な表情でぼそりと呟く。
「……いえ、私は絵が描けませんから」
(……描けない?)
桜彩の表情で何か理由があることは怜にも察せられる。
しかし今、それを聞くことは出来ないだろう。
「……そっか。悪かったな、変な事言って」
「いえ、構いませんよ。あ、それでここのところはどういう――」
「そこはな――」
二人共あえて気付かないふりをして、これまでの空気を壊さないように桜彩のノートを埋めていった。
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