第32話ココットとフルオリーニ、それぞれの想い.3


 ボートはゆっくりと進む。

 漆黒の湖面に映り込む金色の星がボートの起こした波に揺れ散り散りになっていくのが幻想的で、初めの恐怖は何処へやら。私は腕を伸ばして湖面に指先を浸す。

 冷たい水を掻き分け、指の通った跡が湖面に滑らかな線を描く。金色の星は、掬ってもすぐに手のひらから溢れ落ち、湖と同じ夜空を写し込む。


 ボートはそのまま静かに進み続け、湖の中央て止まった。


 ご主人様はオールを手放すと、落ちないように縁にかけてから周りをぐるりと見回す。目に映るのは岸辺に生える緑の木々と暗い砂浜。


「この世界に俺とココットしかいないようだな」


 星の小さな輝きほどの、甘さと熱が籠もった声。

 胸が跳ねるのを抑えるようと私は息を飲み込む。


 ご主人様は三大公爵の嫡男で、私は彼が幸せになるのを傍で見届けるためにいるんだ。


 何も答えないでいると、ご主人様は立ち上がり、次いで船底に背をつけるように仰向けに寝転んだ。船底の先と後ろには横板が渡されていてそこに腰掛けているのだけれど、ご主人様は私の横に長い足を投げ出し悠然とこっちを見上げてくる。


「こうして寝転ぶと星が降ってきそうだ」

「確かにそうですね。秋は夏より星が綺麗に見えるというのは本当なのでしょうか」

「悪いがそういった類には疎い」


 グイッと首を真上に上げれば、確かに降り注ぐような星空。本当にこの世に二人だけなら……不覚にもそんな言葉が胸の内に浮かんだ時。


「今日、ユーリン国の侯爵令嬢と会った」


 ……低く温度を感じない声が、甘い夜気を切り裂いた。


 ご主人様が異国の侯爵令嬢と会った。

 それだけ聞けば大したことない、よくある話の一つなのたけれど。

 その声には、明らかにそれ以上の意味が含まれていた。


 第三皇女がユーリン国の公爵家に嫁いだこと。今までにも上位貴族間で何度も婚姻が行われてきたこと、そしてご主人様にも皇族の血が流れていること。


 私が知っていることだけでも、二人の顔合わせがどんな類のものか想像がつく。


「確か、薔薇のように華やかでお美しい方だと」

「薔薇は好きじゃない」

「駄目ですよ。我儘言っちゃ」


 子供じゃあるまいしと、続けようとしたら、急に上半身を起こしたご主人様に腕を掴まれる。そのままグイッと引っ張られ私は膝を船底に着け座り込む。


「ココットも隣に寝転べ。星が綺麗に見える」

「ワンピース姿で、足を板に乗せ上げ寝転べません」


 そんな格好したら、素足が見えちゃうじゃないですか。


「ココットの身長なら、少し膝を曲げれば船底に収まるだろう。いいから隣に来い、命令だ」

「今夜は令嬢、ココットではなかったのですか?」

「そうだ。侍女としてでなくココットとして隣に来い」

「命令が矛盾して、設定が混線してますよ」


 冷ややかに見下ろしたのに、見上げてくる瞳は熱っぽい。

 断らなければいけないのは分かっている。

 私はコンスタイン家の人々に借りがある。

 ご主人様には立派な公爵様になって貰いたい。


 それなのに。

 私はゆっくりと船底に横たわった。ご主人様と肩がぶつかるその近さに寝転んでから気づき、胸が跳ね上がる。触れた肩先から伝わる温もりが鼓動を早めていく。


 寝転ぶと視界はぐっと狭くなり、夜空しか見えなくなった。

 本当にこの世にいるのは私とご主人様だけのように思えてくる。

 それが事実なら身分差なんて関係ないのに。


「このままどこかに流れ着いてしまいたいな」

「ご主人様、ここ湖ですよ」

「うるさいな! 比喩だ、例えだ」


 いつもの声音とテンポの会話。軽口と冗談が本音と真実を上手く包み込む。


「ご主人様、幸せになってくださいね」

「それがお前の本音か?」

「ええ、私はあの時ご主人様を傷つけそして助けられたのです。その贖罪と恩を返すために一番傍で役に立とうと決めました」

「そういえば、昔は姉のように思っていたこともあったな」

「今もそう思ってくださっていいのですよ」

「いや、もう無理だ」

「そうですね。侍女がしっかり板につきましたから」

「……どこがだ、全く心当たりがないぞ」


 ぶっきらぼうな声が耳元で聞こえ、目線をそちらに向ければ胡乱な瞳で見返された。えっ、私頑張っていますよ、何ですか、その目。

 不満を訴えるように見返せば、銀色の瞳が急に真剣なものに変わる。


 ……ぶつかった視線が絡まる。

 ……絡みとられる。


 このままでは駄目だと、私はパッと視線を夜空に向けると細い月が真上にきていた。


「いつの間にか大きくなられて」

「ココットの背は出会って二年で追い越した」

「早かったですね」

「なのにココットの中では俺はいつまでも小さいのだな」


 そんなことありませんよ。いつも首が痛くなるほど見上げているのに。

 でもその言葉を口にすることはできなかった。


 その大きさの違いを確かめるように手が触れ、指を絡め取られる。大きな手、硬い手のひら、長い指。


「……私はご主人様に恩があるように、公爵様にも恩を感じています」

「分かっている」

「そろそろ公爵様達がお戻りになります。帰りましょう」

「帰ってきたところで、俺を探すことなくまっすぐ部屋に向かうだろう。あの二人が成人した息子の居場所をいちいち使用人に聞くと思うか?」


 そんなこと分かっています。でも、このまま寝転がっているわけにはいかないじゃないですか。


 どうしよう、星が涙で滲んでくる。

 間違っても心の奥底を口走らないように、私は強く唇を噛む。


「……あと少しならいいか」

「はい。ご主人様のおおせのままに」


 絡められた指はそのままに、

 私は令嬢ココットから侍女に戻って返事をした。

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