第12話アメリアと裏路地の魔法使い.7


 「本当に愛していたらあなたを苦しめることなんてしない」と私に言ったのはクルルだっただろうか。


 分かっていた。

 そんなこと。

 でもそれを認めてしまうことは、支えとしていた唯一のことを失くすことで。

 そうなると、私は貴族としての、娘としての務めを果たせなくなる。

 だからずっと見ないようにしてきたのだ。


 キャロルがナイフの切っ先を私に向けて突進してきた。それを何とか交わして距離を取る。使用人達もじわじわと間合いをつめ飛び掛かるチャンスを伺っている。

 それに気づいたのか、チャンスは今しかないとばかりにキャロルが再び私に向かってナイフを振り翳してきた。


 逃げなきゃ、そう思った瞬間、私を庇うように目の前に人が立ちふさがった。


「やめろ!」


 そう言うと、突き出されたナイフを僅かな動作で避けて、キャロルの腕を捻り上げる。次いで使用人達も一斉に駆け寄ってきてキャロルを地面に捻り伏せると手首を素早く縛った。


「痛い! 離して!!」


 地面にこすりつけられた顔を醜く歪ませながら叫び続ける。その視線の先には腰を抜かして茫然と座り込むブルーノ様。


「アメリア、大丈夫か?」

「ヘンデルありがとう。あなたこそ怪我は?」


 身を呈して守ってくれたのはヘンデル。決して長身とは言えないその背中がとてつもなく頼もしく見えた。

 茶色の瞳が心配そうに私を見つめてくるので、震えながらも大丈夫だと大きく頷くと、微かに頬を緩め安堵の表情を浮かべた。


 ヘンデルは震える私を一瞬ぎゅと抱きしめると、座り込んでいるブルーノ様の元へ行き、襟首を掴んで強引に立ち上がらせた。


「お前、何やってんだ!! 婚約者だろ? お前が原因でこの騒ぎが起こったんだろう? なのにアメリアを守りもせず盾にするなんて何考えてんだ!!」

「く、るしい。離せ、お前には関係ない」

「関係ある! 俺はアメリアの母親と話をして、もしお前に落ち度があれば婚約破棄を申し立てて欲しいと頼んできたんだ」


 騒ぎを聞きつけた両親が私のもとに駆け寄ってきて、お母さまが優しく肩を抱いてくれる。


「お母様……私」

「アメリア、婚約は破棄しましょう。私はあなたの幸せを奪おうとしていた、愚かな母を許して」


 私と同じ鳶色の瞳から涙がポロポロとこぼれ落ちる。

 そしてその涙を拭こうともせず今度はお父様を睨みつけた。


「浮気ぐらい我慢しろと言われて私もずっとそうしていたけれど、この人が愛人達に貢いだお金の総額とそのためにウィンザー家の家財を売り捌いていたことが分かったの。浮気男なんて最低よ。私もお父様とは離縁するし、あなたも好きにすればいいわ」

「えっ、家財を売り飛ばす? お父様と離縁するの?」


 ちょっと待って。いつの間にそんな話になったの?

 

 目を白黒させる私に、お母さまは眉間に皺を寄せながら話してくれた。


「あなたの友人達に挨拶を終え自室に戻ったら、主人が愛人に貢いだ大量の領収書が私の机に置いてあったの。それだけではなく、我が家に代々伝わる絵と陶器を売った契約書もあったわ」

「どうしてそんな物がお母様の机に?」


「決まっているだろう、俺の執務室から盗み出したんだよ。執務室には常に鍵がかかっているから、それをこじ開けて入って来たんだろう。大した淑女だ」

「私は何もしておりません。誰か親切な人が置いてくれたのでしょう」


「だいたい離縁してどうするつもりだ。この家は俺無しでやっていけるはずが……」

「長男のカイルがおります。あなたから経営のノウハウは引き継いでいますし、私も微力ながら協力いたします」


 兄は私の七歳年上。とっくに成人しており父の下で領地運営を学んでいる。父は仕事はできるので、居なくなったことによる痛手はあるだろうけれど、愛人達に貢いだ金額と相殺すれば兄と母でやっていけると判断したらしい。いつの間に……


「だからアメリア、あなたも好きにしなさい。貴族たるもの家のために嫁ぐのが当然だと教えておきながら今更何だと思うかもしれないけれど、ナイフを向けられたあなたを見て昔の思い出が脳裏を駆け巡ったわ。あなたが小さかった頃、どんどん成長して綺麗になって、成人して……あなたを無くしたくないと強く思った。どれほどあなたが大事か、幸せになって欲しいか……」


 それなのに……とお母様は再びお父様を睨みつける。


「この人は、私の背後に隠れたの。あなたを助けることもせず怯えて背後で縮こまっていたわ」


 庭はしんと静まり返る。いきなりの刃物沙汰に明かされたウィンザー男爵家の内情。

 気まずいことこの上ないと、皆ツッと視線を逸らしている。


 そんな中、ブルーノ様が乱れた襟元を正しながら私に近づいてきた。


「アメリア、全てその頭のおかしな女の思い込みなんだよ。信じてくれ、俺が一番愛しているのは君なん……」


 パンッ


 弾ける音が庭に広がる。咄嗟のことに反応できなかったブルーノ様の頬がみるみる赤く染まって。

 私の右の手のひらも痛いけれど、それより清々しい気持ちの方が大きい。


「私が望むのは、誰かと比べて一番の愛情じゃないわ。私だけを愛してくれる人よ」


 やっと言えた。睨みつけたその先には顔面を蒼白にしたブルーノ様。


 もうこの人はいらない。

 こんな奴、私の人生に必要ない。


 そう思うと、胸がすっきりと軽くなり目の前が明るく開けたように感じた。


 


 ……パチパチ パチパチと場違いな拍手が鳴り響く。


 えっ、と思い音のする方を見るとココットさんが満面の笑みで手を叩いていた。

 おまけに私と目が合うと今度は頭の上で手を振り始め、フルオリーニ様に嗜められている。変わった人だと、思わずこんな場面なのに吹き出してしまう。


「アメリア」


 ヘンデルが再び私とブルーノ様の間に立つ。


「ヘンデル、あの。さっき言っていたことだけれど……。婚約破棄して欲しいって頼んだって」


 そんなに私を心配してくれていたの、と続けるつもりだった言葉を呑み込んだのはその瞳にいつもと違う色が浮かんでいたから。


「そうだよ。アメリアにこれ以上悲しんで欲しくなかったから。……いや、こんな中途半端な言い方はよくないな」


 そう言うと、ヘンデルは私の前で跪き、左手を掬い上げる。


「アメリア、俺と婚約して欲しい」

「! そ、そんな急に言われても。私、今婚約破棄したばかりなのよ」

「分かってる。だから返事を急がせるつもりはないよ。でも、もうただの幼馴染でいるつもりもない。それだけ分かってくれ」


 ヘンデルはすっと立ち上がると、いつもと同じ屈託ない笑顔を向けてくる。

 

 待って、私はどうしたらいいの?

 お父様とお母様の離縁。

 私とブルーノ様の婚約破棄。

 

 お母様に色々聞きたいことはあるけれど、お父様ともども庭から姿を消していた。お兄様も夕方までには外出先から戻るって言っていたし、いまごろあっちはあっちでもめているんでしょう。


「もし婚約破棄による損失を心配しているなら大丈夫だよ。俺の実家が船舶を幾つも持っているのは知っているだろう? 近々ユーリン国と取引をするのだけれど、父がウィンザー男爵家との共同出資を持ち掛けるつもりでいる。これは俺達の婚約とは関係なく純粋に商売の話らしい。だから実家のためとか関係なく俺とのことを考えて欲しい。何よりアメリアの気持ちを一番大事にしたいんだ」


「私の気持ち?」

「あぁ、それまでは待つよ。今までも随分待ったんだから平気さ」


 そう言って笑う笑顔は幼い頃と変わらないのに、グレーの瞳の奥には私の知らない熱が垣間見えた。




 混乱する庭の空気を一掃するような爽やかな声が響き渡る。


「さあ、パーティーを続けませんか? 今日はアメリア嬢の誕生日です。そうだ、そろそろ私の持ってきたワインを皆様に飲んで頂きたいのですが」


 声の主はこの場で一番身分が高いフルオリーニ様。その言葉に皆がはっと表情を取り戻す。


「是非頂きたいです」

「フルオリーニ様がお持ちになったワインを飲めるなんて嬉しい」

「結局、今日はめでたい日でいいんじゃないか?」


 友人達が口々に明るい声を出して、場の雰囲気を変えようとしてくれる。

 キャロルはいつの間にか使用人の手によって庭から連れ出され、ブルーノ様の姿も消えていた。


 賑やかさを取り戻し始めた庭にほっとしていると、ヘンデルが顔をすっと近づけてくる。


「アメリア、君だけを見て愛することを誓うよ」


 蜂蜜よりも甘い言葉。

 それはあの日、私が裏路地で願ったことだと気づいたのは、頬の火照りがおさまったころだった。

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