第8話アメリアと裏路地の魔法使い.3


 もう限界だった。


 花をくれる、贈り物をくれる、エスコートもしてくる。 

 私の話を聞いてくれて、笑ってくれて……


 楽しいことを沢山、沢山思い出したけれど

 それなのに涙はどんどん溢れてくる。


 浮気ぐらい多めに見なきゃ、

 母の姿を思い出す、父と祖父の言葉を思い出す。


 足元はひび割れた煉瓦に代わり、次第に土の場所も増えてきた。


 浮気ぐらい大したことない。

 私を思っていてくれるなら、

 何度もそう心の中で繰り返す。


「痛い!」


 小さな段差でつまずいただけなのに、私は派手に転んでしまった。痛む膝を抱えてその場に蹲り、気づけば声を上げて泣いていた。


 嫌だ。

 私だけを見て欲しい。

 私だけを見てくれる婚約者が欲しい。


「……もし、そこのお嬢さん。そんなところに座り込んでいたら身体が冷えるよ、こっちに来な」


 暗闇からしゃがれた声がして涙がピタリと止まり身体が強張る。


 えっ、ここ、どこ?

 人目を避けるように泣きながら走るうちに、裏路地に入り込んでしまったようで。昼間だというのに、薄暗い。


「ほら、こっちだよ」

 

 宙に浮いているように見える紫色の灯りは洋燈のようで。目を凝らせば黒い布を被せた机の上に置かれているのが分かる。


 薄暗い中から枯れ枝のような腕が伸びておいでおいでと私を呼ぶ。逃げなきゃ、と思うのに気づけば老婆と向かい合って座っていた。


「あらあら、そんなに泣いて。ほら、このハンカチを使いな」


 濃いライラックの香りが立ち込める中、手渡されたハンカチには可愛らしい鳥の刺繍がされていた。それが目の前の老婆の雰囲気と全然合わなくて思わず笑ってしまう。


「おや、どうしたんだい」

「いえ、何でもありません。ではお借りします。洗って後日お返しいたします」

「いいよ、あんたにやるさ。そんなことより何か悩み事があるんだろう? この水晶に手をかざしてごらん」


 机の上にある水晶に言われるがまま手をかざすと、老婆はその紫色の目を細め水晶を眺め始める。


 胡散臭くはあるけれど、悪い人ではないよう。

 穏やかな声音と鳥の刺繍のハンカチに警戒心は霧散していた。


「あんたの婚約者は相当な浮気ものらしいね」

「!! どうしてそんなことが分かるのですか」

「これでも占い師だからね。随分辛い思いをしてきたようだ。胸に抱えていることを言ってごらん。言葉にするだけでも気持ちはすっきりするもんだよ」


 胸の中に染み込んでくる声音と、神秘的な紫の瞳につられるよう、私はそれまで誰にも言えなかった本当の気持ちを吐き出した。


 両親や祖父に浮気ぐらいで騒ぎ立てるなと教えられたこと。

 でも、本心は婚約者が他の令嬢と親しくするのは嫌で。

 それでも、両親に反発したり婚約破棄する勇気もなく、私はどうしたらいいのか……


「……やっぱり許さなきゃいけないんですよね」

「あんた真面目な子だね。でもそれでいいのかい?」

「私の家は男爵家とは名ばかりで実態は商家。ブルーノ様の家柄も同じようなものですが、最近商売を広げ裕福になられました。この婚約はその恩恵に預かろうと二年前に我が家から申し出たこと。私の我儘で反故にするわけにはいきません」

「そうかい。ま、貴族の結婚なんてそんなものかも知れないが…… あんたの心は一つしかないんだよ」


 私の心。

 それを口にしていいのかな。

 占い師の紫色の瞳を見れば「言ってごらん」と促されてるようで。

 

「………ほ、本当は私だけを見て愛してくれる婚約者が良かった……!」


 絞り出すように出した声は震えていた。

 派手な贈り物がなくても、流行りの店を知らなくてもただ誠実に私と向かいあってくれる人がいい。


 お母様達の生き方を否定するつもりはない。

 両親の期待に、意向に添えない後ろめたさもある。

 でも、それが私の本心だ。


 占い師はその皺々の手を私の手に優しく重ね囁いた。


「……その望み叶えてやろうか」

「えっ?」


 私が目を大きく見開くと、占い師が皺の目立つ唇でにやりと笑った。


 その途端、目の前が真っ暗になって、さっきまで視界の端にあった紫色の洋燈の光さえ見えなくなる。

 身体がぐるんぐるんと回転する感覚と落下していくような浮遊感に思わず目をつむり、吐き気をこらえていると、数秒後、背中がふわりと包まれた。



 目を開ければ真っ白な天井と煌々と光る白い洋燈。

 身を起こそうと手をつけば、ふわりとしてそれで冷たく滑らかな感触。


 ベッド? ここは……保健室?


 染み付いたように漂う薬草の香りと、遠くから聞こえる生徒の声。


 私、裏路地にいたはずなのに。


 ゆらゆらと頭を振っているとカーテンが開き、養護教諭の先生が目を丸くしてこちらを見てきた。


「あなた、いつからここにいるの? てっきり誰もいないと思っていたわ。熱があるのなら薬を用意するけれど」

「いえ、大丈夫です。ちょっと……気分が」

「そう。もう放課後だけれど帰れそう?」

「はい。ご心配をおかけしました」


 ベッドの上から降りて頭を下げ、自分に降りかかった出来事を理解できないまま保健室をあとにする。


 そのまま職員室に行き、午後は保健室で休んでいたと担任に報告すると


「そうだったのか。真面目なアメリアが無断欠席など珍しいと思っていたんだ」


 恰幅のいいお爺ちゃん担任は、そのお腹を揺らしながら大丈夫かと眉を下げてくれる。


 少し、いや、かなり良心が痛む。


「まだ顔色が悪いし、目が虚だな」


 その理由は別のところにあるのだけれど、もちろん言えるはずもない。


「そうだ、あっ、ちょうど良い。ヘンデル! 君達幼な馴染みだったよな。アメリアを教室まで送ってそのあと、馬車まで連れて行ってくれ」


 担任が短い首をねじり上げたその先には、幼な馴染みのヘンデルがプリントを持って立っていた。私より頭がよくブルーノ様と同じAクラスのヘンデルの前には、彼のクラスの担任がいる。


「でも、これからこのプリントを運ぶように……」

「いいわ、それは別の生徒に任せるから。女性を送るのは紳士の役目よ」


 ゆったりとカールした赤髪が綺麗な担任が手を伸ばしたことで、ヘンデルは小さく頷きプリントを手渡すと、早足で机の間を縫うようにこちらへ。私があんな風に色香漂う女性ならブルーノ様も違っていたのかな、とその美しい所作を見て思ってしまう。


「大丈夫か?」

「うん、もう平気。一人でも問題ないと思うんだけれど」

「そんな青い顔して何言ってるんだ。いいからいくぞ、歩けるか?」

「あ、歩けるわよ!」


 歩かないと言ったらどうするつもりなのだろう。まさかおぶって教室まで行くというのか。


 二人で人の流れに逆らうように教室へと向かう。途中でクルルに会って事情を簡単に説明すると、「無理しないで、明日も休んだらノートを持って行くから」と言ってくれた。


 教室が近づくにつれ生徒は少なくなり、ライラックの香りのする用務員さんとすれ違ったあとは誰にも会わなかった。


 教室の窓際にある自分の席に座り教科書を鞄に詰めていると、ヘンデルが前の席の椅子を跨ぐようにして座り、背もたれに肘をついてこっちを見てくる。


「無理するなよ」

「だから大丈夫だって」

「あんな光景見せつけられて大丈夫なはずないだろ」


 教科書を持つ手がピタリと宙で止まる。

 もしかして、見られていた?


「……平気よ、あれぐらい。貴族の男性なんて皆あんな感じなんでしょう。それにブルーノ様はいつも優しくて花束やプレゼントもちゃんとくれるのよ」

「そんなの買って渡したらいいだけだろう」

「それすらできない男性もいるって聞くわ」


 お父様のように。浮気ばかりして、自分の妻には何もあげない人に比べればブルーノ様は優しいし立派な……はず。


「そんなに花束が欲しければ俺が毎日届けてやるよ」


 えっ、と目をパチリとさせヘンデルを見返すと、少し頬を赤めてプイッと横を向いてしまう。唇を尖らせた横顔に幼い頃の面影が少し残っていて思わず吹き出してしまった。


「何笑ってるんだよ」

「だって、自分から冗談言って照れるなんて」

「なっ、俺は冗談のつもりは……」


 今度は口をへの字にして黙り込むものだから、私は益々可笑しくなってしまう。


「笑いすぎだ」

「隠し事を見つかった時と同じ顔をしてるわよ」

「そんなことない」

「そんなことある」

「お前が鈍すぎるんだ!」


 うん? と意味が分からず眉を顰めれば、さっきまでと打って変わって真剣な顔で私を見てくる。


「このまま結婚して後悔しないのか?」

「……しないわ。この結婚は我がウィンザー男爵家からの申込み。家にとって必要な縁談なのよ」

「それはそうかもしれないが。俺はお前が無理しているようにしか見えなくて心配だ」


 そう言ってヘンデルは大きく息を吐いた後、自分の鞄と、私の鞄両方を持って「帰るぞ」と立ち上がった。


 少し先を歩くその背中か広いこと、背が私より高くなったこと。気づかないわけないじゃない。


 ……でも、私はそれを見ないふりをして隣に並ぶと馬車まで歩いた。

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