鏡(土方+沖田)
あれはまだ、多摩の地で自分の行く末も見えずに、くすぶっていた時代。
元服を終えたばかりの総司の姿を目の前に、浮かんだ句がある。
幼い頃から家族の元を離れざるを得なかった境遇からだろうか、聞きわけの良すぎる子供は、自分の様にひねくれる事もなく、聞き分けの良すぎる大人になった。
きっと胸の内では、飲み込めない理不尽に、腹を立てていた事もあっただろう。
けれど、一度としてそれを表に出さないまま、出させてやれないまま、総司を大人にしてしまった事を、今でもまだどこかで悔んでいる気がする。
その日。
綺麗に剃られ整えられた月代と、まだ着せられている感の漂う裃と袴姿は、それでもそこから縁遠い農民である自分には、とても眩しく感じられた。
総司は、あまり自分が主役という場面に、慣れていなかったからかもしれない。
簡素ではあったが、勝っちゃんや周斎先生の心のこもった祝いの席が、仲間達によって無礼講になってきた頃合いを見計らって、抜け出してきたらしい場面に出くわしたのは、本当に偶然だった。
「今日の主役が、こんな所をうろついてどうした?」
「……土方さんこそ、ここで何をしているんですか?」
「あいつらと騒ぐのも良いが、今日は月見酒に最適な夜だと思わないか?」
「あ……今日は満月、ですね」
自分はあまり酒に強い方ではないが、こんな晴れた満月の夜は、少し喉を潤しても良いかという気になった。
とはいえ、酒を楽しむというよりは、この景色を楽しみたいという気持ちの方が大きかったから、そんなに量を用意している訳ではなかったけれど。
心の奥底に沈む、総司の成人を祝いたい様な、どこかで羨んでしまうのを恐れてあの祝いの席にいたくない様な、複雑な気持ちがなかったとは言い切れない。
きっと自分も、総司とは違う理由で、皆のいる場所から逃げ出してきたのかもしれなかった。
その原因である総司と、ばったり会ってしまうなんて、出来すぎていて笑うしかなかったけれど。
「どうだ、お前も付き合うか?」
「え?」
「今日からお前も、もう大人。だろ?」
「……じゃあ、少しだけ。ご一緒させていただいても良いですか?」
「おぅ」
座れ、と仲間達の騒がしい声を遠くに聞きながら、板張りの床をぽんっと叩く。
少し遠慮がちに隣に座った総司に、今まで自分が使っていた御猪口を差し出した。
総司が受け取ると同時に、そこへ酒を注ぐ。
神妙な顔で注がれた酒をぐっと煽る姿は、さまざまな感情の入り乱れる自分とは比べ物にならない程、まっすぐに澄んでいる。
目を背けたいような、ずっと見ていたい様な、不思議な感覚に襲われた。
「……土方さん?」
視線に気付いた総司が、こちらを向いて訝しげに首を傾げても、その瞳の奥に吸い込まれる様に、余計に視線を逸らす事が出来なくなった。
『土方さんの瞳が、あまりに真っ直ぐで。曇りのないその目でじっと見つめてくるものだから、視線を外せなくなってしまいましたよ』
後々、総司に笑顔と共に告げられた言葉は、自分が総司に抱いていた感覚と似通っていたと知り、苦笑する事になるのだが。
その時の自分に、総司の思いがわかるはずもなく、ただ差し向けられる澱みのない視線、その姿そのものに、捕らわれてしまっていたような気がする。
『さしむかふ 心は清き 水鏡』
自然と浮かんだ言葉は、好きだった句という形に纏まって行く。
言葉が下りてくると同時に、時が動き出したように身体が動いた。
「お前に、やるよ」
照れ隠しもあって、ぶっきら棒に差し出したその句を書きつづった紙を、総司がとても驚いたように、恐る恐るその手に受け取った事が、やけに印象的だった。
まるで噛みしめるようにその句に視線を落とし、大事そうにその紙を胸にしまって、その後初めて子供の様に無邪気な笑顔を向けてくれた事が、心に深く残る。
成人の儀式を終えた相手に抱く感想としては、間違っているという事は百も承知だったけれど、やっと本当の顔を見せてくれたと確信した瞬間だった。
ようやく心を許してくれた瞬間でもあり、自分にとっても、この日は特別な日になった。
*****
あれから、ずいぶん時は経った。
いや、時間という単位では、それほど経ってはいないのかもしれない。
けれど、自分達を取り巻く状況は激変した。
今、あの瞬間からずっと隣にあった無邪気な笑顔は、ここにはない。
近藤さんも、山南さんも、新八も、左之も、平助も。
あの日、道場に集まっていた仲間は……誰も。
けれど、それぞれがそれぞれの生き方の為に、必死だった。
同じ道を行く事は叶わず、ばらばらになってしまったとしても、心の根っこは、あの多摩の地で笑いあっていた頃と変わりはない事を、知っている。
悲しみの報告と共に、自分に届けられた一枚の紙は、まるでそれを思い出させてくれる様だった。
『そんなに、不安そうな顔をしないで下さい。私はちゃんと、傍にいますよ』
挫けそうになる自分に、そう笑ってくれている気がした。
『動かねば 闇にへだつや 花と水』
あの日、自分が総司に渡した時と同じように、畏まらずさらさらと書かれたような一句。
『遅くなりましたけど、お返しです』
きっとここに総司がいれば、そうして照れて受け取ろうとしない自分に、無理矢理渡してでもきそうな雰囲気で書かれた、辞世の句。
どこまでも続く空を見上げれば、いつだってあの場所に繋がっている。
どんなに頑張っても、まだこの表情は泣き笑いにしかならないけれど。
いつか会いに行く時には、きっと────。
終
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