第終章「亜球 通称「赤黒い道」にて」

七月二十七日(腸) 「或ル旅人ノ記録」

亜暦三三六年 七月二十七日(腸)


 時計の音がやけに静かに思えたのが始まりだった。身体を起こしてみると、周囲にはフタワの姿は無い。私は確かにフタワを横たえたはずの舞台に目をやって、疑問に思った。何故、彼女が居ないのか?と。しかし、その答えを出す前にマグロの姿が見えない事に気が付いた。

「立つ鳥、後を濁しすぎだな。マグロよ」

 時計塔の床には車輪が這いずった跡がまざまざと刻まれていた。恐らく、マグロがフタワを担いで昨日の夜中にでも此処を出ていったのだろう。

 私は、その車輪の跡を辿りながら時計塔の中を進んだ。そして、螺旋階段を下って行った。塔を降り切ると、血の道が分かりやすくルートを示してくれていた。──マグロか、フタワか。どちらの物かは分からないが血痕が続いている。私はそんな血の跡を追って歩いた。

「急いでいたか。足下がおぼつかず……または、単に寝不足か」

 私の瞼には息を絶え絶えにしながらフタワを引き摺るマグロの姿がハッキリと見えていた。そして、その様を以前までの私のようだとさえ思った。何かが変わってくれると信じて、彼女を引き摺ってきていた以前の私と。──しかし、全ては意味の無い幻だった。聡明に見えていたフタワは、旧時代の夢をまだ愚かにも見ていて……疑っていた極人機関はやはり、私にとっての真実だった。所詮、人は分かり合えないし、自由が無いならそれに気付かない様にすればいい。本当に、私はそれで良かったんだ。ずっと認めたくなかったが、フタワは私を惑わせていただけで、他には何も……。

「……此処だな」

 亜球の外壁を見上げると錆び付いた古い時代の手摺りがあった。手摺りを登った先の壁面には『人体精製所』と外ノ世界の字体が刻まれている。私は先人によって血塗れになってしまったその道を辿って中に入ると、中は見渡す限りに赤黒く染まっていた。壁は血肉で汚れていて、その下に潜む鉄製の枠を映せずにしていた。私は蠢くその肉塊を横目に進み、手前の部屋へ入って行く。そして、そこの棚に置いてあった日記を手に取った。

『コレハ遠イ世界カラ君達ニ送ル記録デアル。ソシテ、ドウカ恐レズニ見テ欲シイ。歪ンダ妄想ガ生ンダ虚構ノ世界ヲ』

 その一文から始まるその日記には、この世界で暮らしていたという「ある男」ついての記録が残されていた。初めに二輪屋に寄ったこと、意中の女に共に暮らすよう頼まれたこと、職場に来た女みたいな客と友達になったこと、二輪に導かれるままに第三区画を出たこと、そこで、自由を夢見る者達を見てそれから、極人機関のゆりかごに眠るのが正しかったと全てを悔いたこと……。そして、彼の日記は最後にこう締め括った。

──我々は、何処へ行こうと満たされないのだ。だから、納得しようとする……と。私はその他人の物とは思えない日記を棚に戻して、部屋を後にしようとした。だが、すぐに思い直して自分の日記を見てみることにした。昨日、眠りに落ちる前に書いた最後のページ。推察通り、そこにも“あの一文”は見受けられた。──我々は、何処へ行こうと満たされないのだ。だから、納得しようとする。

「い、一体これは何だというのだ……?」

 私は頭を抱えて二つの日記を何度も読み比べる。しかし、そんな事で答えが出るわけも無かった。何度読もうが、分かる事は二つの日記が限りなく似通っているという事だけだ。私は一度、深呼吸をしてから気持ちを落ち着けると、日記を元の場所へ戻した。全身には妙な高揚感があった。まるで、今の私は大きな運命めいた物に引っ張れる様にして進んでいるようだ。やがて、赤黒い道は私に果てを見せた。道の果てでは、巨大な鋼鉄の円球がグツグツと音を立てているのが見えた。稼働しているというより、再起動しようとしている最中らしい。

──あれが、旧式の人体精製機か。

私は逸る気持ちを抑えられず、駆け足で駆け寄ろうとした。だが、その時……何処からか強い力で強引に後ろへと引っ張られた。何事かと思い振り返るとそこには、マグロが立っていた。「よぉ。遅かったじゃないか」彼は憂いる様な眼で私を見つめ、額から血を流していた。

 血は端正な鼻筋を通って僅かに実る胸元へと滴っている。恐らく、フタワを運び出す際に出来た怪我だろう……彼はもう自棄っぱちの様だ。

「……君の求める物は此処にも無かったろ」私の肩に食い込んだ彼の手が力が抜けていく。

「ああ。君の言う通り、赤黒い道はただの旧式の精製所……今、再起動を掛けて見ているが、恐らくそれも徒労に終わるだろうな。かと言って、何も分からなかったという訳でも無いが」マグロはそう言うと、また私を見つめた。

「君も中々、難儀だな」

私がその言葉の真意を問いただそうとするよりも先に、マグロは口を開く。

「君、自分の旅人の意味って分かるか?……分からないだろう。そりゃ、そうだ。旅をするものは、アテもなく旅をするものだからな。……だけどな、君の「旅人」という名は「役職名」だ。「亜球」での役職には勿論、意味があるしそれは本能に刻まれる。……お前の名の意味は「亜球に終末の予兆が来た時。それを回避、又は、受け入れられる道を探求する事」だ。……お前が突然、フタワについて行きたくなったのも、俺と友人になろうとしたのも……全部、お前の深層心理が「コレならば、終末に相対出来る」と思ったからに過ぎないんだ」

私が言葉を返そうとすると、マグロは言葉を続けた。

「……君は職務放棄をしている様で、常に人類が納得出来る方法を探していたのだな。いや、君だけじゃない。皆んなだ。皆んな、そうしていた……ネモトはまた新たな犠牲の元に延命しようとして、ツツミは自棄っぱちで自由を求めた。俺は……俺はきっと全部滅べば良いと思った……お前は」

──きっと、全部に共感して、全部を試そうと考えた。

私がそう言うとマグロは「ああ」と項垂れた。そうやって、横たわるマグロの足元には気持ちよさそうに眠るフタワが横たわっていた。何の陰りもない笑顔で。まるで、一切の恐怖を纏わずに。私は、その寝顔を見て……心より、嫌悪に駆られた。今まで、二人で悩んで、喜びを分かち合ってきていたと思ったのに……。フタワにとって、私はただの脚に過ぎなかったのか。「……お兄ちゃん」フタワはボソボソとそう呟く。その呟きを聞いて、私は空を仰ぎ見た。仰いだ空からはぽつりぽつりと肉の涙が落ち始めていた。

「お兄ちゃん……君の言う彼も、旅人なんだな」

 いつかは知らないが、以前にも亜球の存亡の危機が訪れたのだろう。それでフタワが「お兄ちゃん」と呼ぶ旅人は救いの手を求めて此処に来た。お兄ちゃんはそれを解決するピースを見つけられなかったが、代わりにフタワを見付けた。もしかしたら、入口で見た日記は彼の物かも知れない。

「フタワは希望だった……既存の世界を撃ち壊してくれる……」

言うなれば、旅人専用のトラップ。ありもしない可能性を我々に見せることで「亜球の自浄作用」を麻痺させる。そうして、俺達は決して届かない理想郷に思いを馳せる。……その耽美な毒が亜球の全身に周りに廻った時、フタワは満足げに微笑むのだろう。

「……どん詰まりだな」

私がそう言うと、マグロはライフルを手元に抱き寄せ、入口へと向けた。

「……誰かが此方に向かってきている。……ま、警戒してもしょうがないだろうが」マグロはそう呟くと、私の様子も見ずに立ち上がった。私もそれに合わせて立ち上がらせられ……二人で、入り口を見つめた。私の黒翼とマグロの銃が窮屈が故に擦れ合う。……そして、そんな私達をみつめる事なく、フタワは眠りに堕ちたままだった。

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